糖尿病で足の指を2本切断

 さて、チャンコ番として稽古が手薄になるにつれ、力士の職業病とも言うべき糖尿病が鎌首をもたげ始めた。

「糖尿は30歳前ぐらいからあったんだけど、稽古で左足の親指の裏に傷を作っちゃったのね。でも“ほっときゃ治る”と。消毒とテーピング程度でごまかしていたんだけど、それがダメだったね」

 傷口はじゅくじゅくと膿(うみ)を持ち、身体は絶えず微熱を感じるようになっていた。たまらず国技館横の同愛記念病院に駆け込むと、医師は北斗龍にこう告げた。

「これはもう、即、切断です」

 平成26(2014)年3月の大阪場所直後に、同病院で左足親指を切断。

糖尿病で左足を痛め、足袋で傷口をカバーして取組に向かう北斗龍
糖尿病で左足を痛め、足袋で傷口をカバーして取組に向かう北斗龍
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 悲運はさらに続く。

 翌平成27(2015)年の7月場所直前には、右足中指を切断。関取未経験者では最長記録だった1169回の連続出場記録、初土俵から通算186場所連続出場の記録が途切れた。だが足の指をなくしても記録の更新が途絶えても、負けが込こんでも相撲をやめようとは思わなかった。

「平成27年の九州場所直前の10月のなかば、理事長のおかみさんと話をしたの。

 おかみさんは“あなたは理事長の定年まではいてくれると思ってます”と。自分も“身体が続くまではそのつもりでいます”と答えた。理事長の定年まではいると、おかみさんと約束していたんです」

 語る言葉が小さく震える。

 相撲を続けてこられたのは、北の湖親方がいてくれたからこそ。あれから2年近くたつ今も、つい思いがこみ上げてきてしまうのだ。

 ちなみに、北の湖理事長の定年は2018年。本来なら北斗龍はまだチャンコ長を続けていたはずだ。だが平成27(2015)年、九州場所さなかの11月20日──。

 北の湖理事長が貧血を訴え、病院に搬送されたとの連絡が巡業部屋(地方巡業中の居留場所)にいた北斗龍に入った。

「ついていった若い衆たちに、“オヤジは?”と聞くと“足がむくんで若い衆に足をもませていますけど、普通にしています”と。それで安心してたら、夕方になって“容体が急変した”と」

 同日午後6時55分、北の湖敏満相撲協会理事長、直腸がんによる多臓器不全で死去。享年62歳だった。

 関取衆をはじめ、関係者が大挙して病院に駆けつけた。

 29年の長きにわたり、ともに暮らし自分を買ってくれていた身としては、飛んででも病院に駆けつけたかった。

 だが感情にまかせて自分が行ったら、部屋に残るのは新弟子ばかり。混乱は必至だった。故・北の湖理事長が、はたしてそれを望むだろうか?

 北斗龍は部屋に残り、マスコミ対応の最前線に立つ。

「オヤジに最期の挨拶はできなかった。けれども斎場のほうに運ばれたとき、一番に顔を見させてもらったから……」

北の湖理事長が直腸がんで死去。詰めかけた報道陣に状況を説明する北斗龍(写真:産経ビジュアル)
北の湖理事長が直腸がんで死去。詰めかけた報道陣に状況を説明する北斗龍(写真:産経ビジュアル)

 北斗龍が足指を切断することになった際には、真っ先に入院する病院に駆けつけて、「(理事長職をやらずに)俺がいたら、こんなことにはさせなかったのに……」と絶句していたと、のちに聞いた。

 まさに父親代わりだった人との別れ。北斗龍は身体も精神も、もう限界に達していた。

 前出・松尾さんも言う。

「2~3日後に家に来たときも、飲みもせず、しゃべりもせず。“どうしていいか、なんもわからん”と泣いていました」

 北の湖部屋改め『山響部屋』となった部屋の運営が軌道に乗るのを見届けた本年3月、引退を決意した。

「引退ひとつ前の初場所では体力的には変わらないものの、気持ちのほうが、もうダメ。切れてしまっていた。3月の引退では、“とうとう終わりか……”と感慨無量でした」

 31年間を過ごした角界に別れを告げたのだった。