大泉洋を全国区へ導いた伝説の番組「水曜どうでしょう」のカメラ担当・嬉野雅道氏

 幸運はいつもさ、他人からもたらされるものだと思うよ――。ローカル局のバラエティ番組のディレクターでありながら、「趣味=哲学」と宣言するのは、北海道発の人気番組「水曜どうでしょう」(HTB)のカメラ担当・嬉野雅道氏。

 収録中、移動の車内で居眠りをし、うっかり手持ちカメラをタレント・大泉洋にぶつけるなど、愛嬌たっぷり(?)なエピソードを持つ嬉野氏だが、先ごろ奇特な人生観をつづったエッセイ『ぬかよろこび』を上梓した。

 7年半に及ぶ鬱を自力で克服し、現在の“どうでしょうの嬉野さん”にたどり着いた「楽しく生きる嬉野学」とは?過去の大失敗を経て体得した、ときに純文学のような人生哲学を伺った。

大失敗は己の責任! それでも…

 失敗から多くを学ぶとは昔からよく言われるところではありますが、でも、学ぶためには「その失敗はまったくもって自分のせいだったのだ」という素直な自覚に至ることもまた、最も必要なこと。

 それを私が知るに至ったのは、30代でこっぴどい大失敗をしたのがきっかけでした。それまで自分は、みっともない大失敗をしても「これは自分だけのせいではない、絶対これは自分だけのせいではないのだ」と、自分の失敗を誰かのせいにしようとしていたのです。

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 世間がまだバブル経済の勢い残るころ、30を過ぎた私は東京で映像ディレクターの仕事をしておりました。ある日、ドラマのロケスケジュール制作と現場進行の依頼が届いたのです。経験の浅い私はいったん難色を示したのですが、「やれる、やれる」と言われて。軽い気持ちで引き受けちゃったんです。

 私は早速スケジュールをつくりはじめようと、上がったばかりの脚本を持ち帰り、ページをめくりながら撮影の分量計算をはじめました。結果、どう見積もっても20日はかかる。しかし、私に話が来たときのプロデューサーの話では、「ロケは10日ほど」ということでした。

 私は自信が持てないまま、20日間の日程を報告すると、案の定、相手は「10日でやりきるのが、おまえの仕事だろっ!」と怒号をあげる始末。私も「そういうものなのか」と、そのまま引き下がった。そう。引き下がってしまったんです。

 10日で撮れる根拠を思いつきもしないまま、それでも強く抗おうとしなかった理由は、ただただできるかどうか、わからなかったのだろうなと思うのです。わかっていない自分にも気づけず、それでも押し切られて相手の主張に乗るほうが楽だと、無意識に判断した。結局、それが自分の考えを失う瞬間でした。撮影がはじまる前に、すでに私は失敗していたのです。

上司の「お前の仕事だろう!」を鵜呑みにするな

 現場はボロボロでした。連日の撮り残し、押し押しのスケジュール。誰の目から見ても大失敗でした。あのときの監督やスタッフやキャストには、本当に申し訳のないことをしてしまったなぁと、いまは、思います。でも当時は、そうは思えなかった。それどころか「10日でやれと言ったのは誰だよ!」と、心の中でずっと毒づいていたのです。

 他人に判断を委ね、すべてに「オレだけのせいじゃない」というスタンスで向き合っていた私は、自分で判断することを放棄していた。それが、あの仕事における決定的な私の失敗の本質でした。それはもう仕事とは呼べないのです。

 仕事の本質がなんであるかなんて、もうずいぶん前から誰も教えてくれなくなったのだと思います。でも、それでも、はじめての仕事をするときには、「いったいこれは、本質的にはどういった仕事なんだろう」と、自分でまず考えなければならない。

 そうして銘々で銘々の答えにたどり着けばいい。それをせずに「言われた仕事」をこなし続ければ、知らないうちに自分の頭で考えることを放棄し、自らの判断で大局を見ることをあきらめる。失敗しても必ず他人のせいにしてしまうのです。

 最初にプロデューサーに怒鳴られたとき、私には言うべきことがあったのです。「それは違う。少なくともオレを雇うのなら現場は20日かかる。どうしても10日でやりたいなら、別の経験豊富な人に頼んでもらうしかない。10日でやれるかもしれない。でも、オレがやるなら20日かかる。その代わり、絶対20日で撮りあげる」と。

 人生はイニシアチブを取らないと、自分で主導権を取らないと、いつか、生きていることが苦しくなる。だから自分の頭で考えることをやめてはいけないはずです。

自分の人生、自分で主導権を取らないと、いつか、生きていることが苦しくなる

 おそらく、あのときの大失敗の中から私の人生はスタートしたのでしょうね。あの大失敗の経験から私の中の何かがはじまって、私のいまはあるのだろうなと思うのです。あの失敗のあと、私は物事をはじめるときには必ず、「これはなぜ、自分がやらなければならないんだっけ」と、私がかかわることの本質を考えるようになりました。

 あの失敗が私に気づかせてくれたものはそれでした。おかげでいまの自分があると思えるほどです。

 まったくもって人生、思い起こせば恥ずかしきことの数々――。あれは私が高校3年の夏でした。

7年半の鬱を自力で克服

 ある日、クラスの女の子、しかも結構な美人に告白され、私は身の上に降って湧いた椿事に有頂天。なのに……不幸は突然やってきました。行きつけの理髪店で、髪を切っていたオヤジが急に「これはあんた、はげるね〜」と、やたらキッパリ言ってきたんです。

 えっ……うそ……。青ざめていく私をよそに、自分は専門家だからと、見ればすぐわかると、なおも太鼓判を押してくる。「間違いない。この頭ははげる」。

 その日から、朝は枕に付いた抜け毛に狼狽し、夜に風呂場で髪を洗っては肝を潰し、このままでは「卒業式はツルッとはげた頭の高校生なんだ!」と激しく煩悶する日々。18歳の若者はすっかりノイローゼ状態となり、徐々に引きこもりがちになっていきました。

自分を閉じ込めたのは、自分の欲だった

 しかもその期間、なんと7年半。人生にたった一度しかない10代後半から20代半ばの青春時代を、自らの取り越し苦労で灰色に塗り込め、鬱という暗い沼の底に居続けることとなったのです。ウソみたいでしょうが、これが正真正銘、本当の話。

 大学生となり、20歳を過ぎると、さすがに私自身もじれ始め、いい加減、悩みの中に居るのが苦しくなりました。しかし、脱毛は進行しているように思える。気分は晴れない。そこで私は、悩みとはいったいなんなのかと考え始め、その答えには意外と早くたどり着きました。それは、私の欲でした。

 美人の彼女ができたことに浮かれ、自分は外見で得をしているとでも、一瞬勘違いしたのでしょう。しかし、若くしてはげた頭では周囲の評価は急落し、私の人生は損をする……そんな未知の人生は恐怖であり、受け入れたくありませんでした。

 あのときの私は、じだんだを踏んでいつまでも道の途上にしゃがみ込み、泣きじゃくる。子どもが駄々をこねるあの行為を、引きこもることで延々と実践していたのです。

 悩みの底にあるものは、人の欲だと思います。ただし、他の生命体より得をしたいと欲望することは、人が生きていくうえで当然のことであり重要なことでしょう。だから欲を否定してはいけません。人間は、欲に突き動かされて動き回るもので、欲を失うことこそが人にとっていちばんの致命傷だと予感するからです。

 しかし。一方で、その欲が実現不可能なものであるにもかかわらず、それでも「その欲を捨てられない」と固執し続けるならば、それは生命体としてなんらかのシステム異常、暴走、バグということかもしれない。悩みすぎたことで失った時間に焦り、また新たな後悔が生まれ、さらなる自己嫌悪に陥る。

 こうして帰り道を見失い、藪(やぶ)から出られずに、今度は自ら負のらせん階段をどこまでも、どこまでも降りていく。行き着く先は、自滅であろう。「悩む」という行為も、しすぎれば自分を慰めるという効果を通り越し、精神を不健康な状態へ追い込んでしまう。

 自分を慰めすぎたら、自らそのことに気づき、軌道修正しなければなりません。バグのまま進んでも、人生は決して面白くなりません。だって異常なんだから。

人生にゴールがあるなら早い者勝ちだろうけど…

いまを「楽しく生きる」極意とは

 7年半の引きこもりを経たわたしは、ついに悩むことに飽き「面倒だからもうはげでいいや」に落ち着きました。そして、あのとき救いを求めて本を読み漁り、必死に考え抜いたことのすべてが、いまはこうしてメシの種にもなっているのです。

 人生にゴールがあるなら早い者勝ちだろうけど、おそらくゴールなんてものはありません。どこまで行ったって気がつけば足元はいつも不安定。だから、あまり思い詰めず、自分をかわいそうに思いすぎず、このゆとりのある時代を楽に、ハッピーに生きてゆけばいいだけのことです。

 ゴールがないなら慌てることもないのです。回り道も実は回り道なんかじゃありません。人と違う道を進んでしまったその道にも咲いている花はある。どんな花が、どんな風景の中に咲いていたか、それはその道を歩いてきたやつだけが知っている話。だったらこの世に生きてる人間の数だけ道があっていい。

 人生がどこまで続くのか。それもまたわからないから、あまり遠くは見ないようにして、近いところに目標をいくつも置いて歩くほうがいいとわたしは思います。

『ぬかよろこび』嬉野雅道著(KADOKAWA)※書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

 札幌の地下鉄の階段には、ここまで上ったら0.7キロカロリー消費とかって一段一段に書いてあります。段ごとに増えていくカロリー消費のその数字を目で追いながら上ると、小さな達成感に励まされるのか、意外に楽にホームまで上がっていけます。

 不思議です。でも、そんなものを頼りに進むと、目標をいくつもクリアしてきた気分がして悪くない。力のないものにはそれがいちばんの前進方法じゃないかと思うのです。

 人生は一度きりです。だからといって、世間から称賛されるような立派なものである必要はない。たった一度きりの自分の人生を、限りあるそのときまで味わい尽くせばいい。しぶとく進み続ければいい。

 転んだら、何かをつかんでから起き上がる。他人には負けていい、でも、自分には負けない。そうやって自分の人生のルールを自分でつくる。それが楽しく生きる極意だと、私は信じています。


嬉野 雅道(うれしの まさみち)◎ディレクター兼カメラマン 1959年生まれ。佐賀県出身。『水曜どうでしょう』(北海道テレビ放送)のカメラ担当ディレクター。愛称・うれしー。企画・原案を担当したドラマ「ミエルヒ」(主演・安田顕)は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、文化庁芸術祭賞優秀賞など多くの賞を受賞。その他、エッセイ『ひらあやまり』、共著に『人生に悩む人よ 藤やん・うれしーの悩むだけ損!』(すべてKADOKAWA刊)など。