障害がある人や高齢者でも安心して出かけられるバリアフリーな街のシステム“タウンモビリティ”を中心商店街で実現した高知市。その原動力となったのは、1歳半のとき成長とともに下肢が変形していく難病と診断され、10度以上の手術を乗り越えた女性だった。走り出したら止まらない、人並みはずれた行動力で、みんなが笑顔になれる街づくりに今日も奔走する──。

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「ぼくらはみんな生きている/生きているから歌うんだ」

 観光名所「はりまや橋」にほど近い、高知市中心商店街の一角から歌声が聴こえてくる。高知にゆかりの深い、やなせたかしさんの作詞、『手のひらを太陽に』だ。

 商店街を行き交う人は、懐かしい歌の響きに惹かれて足を止め、中を覗き込み小さな声で口ずさむ。ふらりと立ち寄り一緒に歌う人もいる。7月8日、「タウンモビリティステーションふくねこ」では毎月第2土曜日の恒例の「童謡教室」が行われていた。

「ふくねこ」は、「NPO法人 福祉住環境ネットワークこうち」の愛称で、障害のある人や高齢者の福祉住環境の整備を柱に据え、行政、商店街、当事者、支援者を緩やかにつなぎ、物理的にも精神的にもバリアフリー化を目指して活動する団体だ。

「タウンモビリティステーション」は「タウン=街」「モビリティ=移動性」という意味で、誰もが出かけたい場所に出かけられるよう、移動の権利を保障する仕組み。その活動の核であり拠点でもある「ふくねこ」に垣根はない。

 脳性麻痺、脳卒中、失語症、精神疾患、視覚障害、脊髄損傷などの当事者、高齢者、ボランティアスタッフ、大学生、通りすがりの買い物客────。

 年齢、性別、障害があってもなくても関係ない。「歌が好き」という共通の思いを胸に、それぞれに歌う。

「この童謡教室では、音楽が人を笑顔にしたり、心をひとつにしたりする力があるんだと毎回、感じます」

 小さな身体で大きな口を開け、参加者に溶け込んで全身で歌っていた笹岡和泉さん(46)は、笑顔でそう語った。

「ふくねこ」を立ち上げ、理事長を務める和泉さんの現在の活動には、彼女の人生のすべてがつながっている。

ふくねこ理事長・福祉住環境コーディネーターの笹岡和泉さん 撮影/吉岡竜紀

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「1歳5か月のころ、病院に脚の検査に行きました。和泉は歩き始めたものの、どこかたどたどしく、少し脚の幅が広いんじゃないかと親戚から言われたんです」

 和泉さんの母・香代さんは記憶を辿(たど)り振り返る。

「検査の結果、『ビタミンD抵抗性くる病』と診断されました。何千人に1人のとても珍しい病気です。骨の成長だけでなく、脳に障害が出る可能性もあると言われ、あまりにショックで、すぐには受けとめきれませんでした」

立っちをしてよちよち歩き始めたばかりのころ。母の香代さんは気がつかなかったが、親戚から「立ち方が少し気になるね」と言われ、病院へ

 香代さんは夫の一雄さんが車で迎えに来るのを待つ間、あどけない笑顔の和泉さんと手をつなぎ、病院の前に立ち尽くしていた。

「このまま目の前の車に飛び込んで、死んでしまおうか」

 21歳で母になった香代さんは、長女である和泉さんと生まれて間もない弟の光国さんを育てるだけで精いっぱいだった。和泉さんの病気は原因もわからず、これといった治療法も確立していない。

「どうすればいいんだろう」

 未来が見えなかった。もう少し迎えが遅ければ飛び込んでいたかもしれない。一雄さんの運転する車に乗り込み、結果を伝え、泣いた。

 一雄さんは前向きだった。どんなことでも、うろたえる姿や弱音を吐く姿はこれまでに見たことがないと家族は口をそろえる。1度受け入れてしまえば母も強い。両親の心は決まった。

「できることをするしかない。精いっぱい育てよう。自分で生きていく力をしっかりと身につけられるように育てよう」

この子はたくましい、大丈夫だ

 1971年7月14日午後4時1分。3220gの玉のような女の子が高知市で産声を上げた。

 和泉さんは初孫として可愛がられ、愛くるしい笑顔はみんなに愛された。家族は幸せに満たされていた。そう、歩き始めるまでは──。

 診断を受けた後は、ビタミンDとリンを補充する薬を毎日飲み続け、月に1度は診察、検査を繰り返した。効果があるのかどうかもわからない。和泉さんは成人するまで飲み続けたあの薬の味を今でも覚えている。

「リンは魚の腐ったようなにおいがした。子ども心にしかたがないと飲んでいました」

 和泉さんは幼いころから手がかからず、わがままを言うことも叱ることもほとんどなかった。本業の不動産業に加え、空手道場を経営している一雄さんが厳しく躾(しつ)けたのも、礼儀に関してだけだった。

 このまま、無事に育ってくれるだろう。そんな思いが次第に強くなっていた。

「両親は、障害者だという意識を私に持たせないように育てていたと思います。通常の学校に通い、ハンディキャップを感じることなく過ごしていました。好奇心旺盛でわんぱくでした。花壇に入って立たされたと文集にありましたから(笑)」

小学校高学年のころ。父の一雄さん、弟の光国さんと。3年生のころの手術で脚をまっすぐにしたが、再びひざから下が湾曲。大分の病院に検査に行った帰り、家族で観光地を巡った

 しかし、骨の形成に必要なビタミンDやリンは薬で補充しても身体にとどまらず流れ出る。骨が弱く、成長すると負荷がかかり、ひざから下が湾曲しO脚に変形していく。

 湾曲が顕著になったため、小学校3年生の1学期、入院して手術とリハビリを行った。初めての全身麻酔。両足の骨を2か所ずつ切断し、まっすぐになるようにつなぎ合わせる手術だ。3年生のクラスの集合写真にその姿はない。

 同じ小中学校で過ごし、仲のよかった澳本みゆきさんは小中学校のころの和泉さんの様子をよく覚えている。

「いず(和泉さん)は学校では笑顔でパワフルでした。体育もできる範囲で一緒にやっていました。ただ、走るのは遅かったから、運動会の徒競走では次の人に抜かれてしまうんです。でもそんなことはおかまいなし。いつも最後まで全力でした。あまり気を遣ったりいたわったりした記憶がなくて。本当に対等な友達で、恋の話もお互いに相談しました。お菓子づくりが上手で教えてもらっていました。勉強もよくできましたよ

 香代さんは母として、自分の身体について理解を深められるよう、医学について学んでほしかった。和泉さんもそれに応えるように勉強した。卒業文集には、将来の夢を「薬剤師」と書いている。

 小学3年生の手術で一時はまっすぐになった脚も、進級とともに再び湾曲してしまった。持ち前の明るさで友達も多かったが、子どもは残酷だ。自転車で迎えに行った母の香代さんは、ある日、こんな姿を目にした。

「裏門で待っていると、こちらに歩いてくる和泉の後ろから、男の子たちが“チビ!”“ガニ股!”と囃(はや)し立てていました。すると、和泉はピタッと立ち止まり、キッと振り返って負けずにこう言い返すのです。“やかましい!”。この子はたくましい。ああ、大丈夫だと思ったものです」

もう待ちきれない! 病院を飛び出す

「これ以上、湾曲すると関節への負担が大きくなり、歩けなくなる可能性があります」

 かかりつけの医師にそう宣告され、2度目の大手術をすすめられたのが中学入学前。小学校を卒業し、最初の1学期を病院で過ごした。しかし、負けず嫌いも手伝って一層勉強し、高知追手前高校に進学。地域でも上位の進学校だ。

「中学時代は学校と家の往復だけ。勉強ばかりしていたから成績はよくて、『箱入り娘』どころか『金庫入り娘』でしたね。母は私が自立できるように、厳しく育てていたんだと思います。

 高校に入り、吹奏楽部、美術部、合唱部、文芸部と、部活動をいくつもかけ持ちして、寄り道も覚えました。本来の資質が出てきたんですね(笑)」

 当然、成績は下降線をたどり、医学系への進学は遠のく。

「絵や音楽に打ち込むことで自分の存在価値を確認していました。脚の状態は相変わらず悪く、どうしても周りに迷惑をかけてしまう。でも、夢中になるものがあると忘れることができたし、楽しかった。芸術家になりたいという夢を持ちました」

 高校卒業を控えたころ、医師から3度目の手術の打診があった。脚延長術という骨をのばすための手術だ。3度目の手術のためには半年の入院が必要だった。

「手術は嫌だけど、脚の骨を長くすることができれば、運転免許も取りやすくなる。少し休むつもりで、手術してみようと思いました」

 福岡の九州造形短期大学美術科に進学を決めてから1年間の休学。期待を胸に、未来のために手術に臨んだ。

高校卒業後、脚の内部のビスと外側の金属をつないで固定していたころ。入院中も退院後も、両親は気分転換のために外出許可を取り、車であちこちへ出かけた

 今思い返せば、それまでの3度の手術はどれも骨のもろさや成長を計算に入れていたとは思えない。医師も前例がない手術のため、予後の経過がどうなるのか、見通しが立たないまま手術に踏み切るしかなかったのだろうか。その折々では精いっぱいの処置だったのかもしれないが──。

「3度目の手術は、創外固定術。金属を骨に通して串刺しにし、肉を突き破って飛び出た金具を外で固定するものでした。傷口の消毒のとき、母は直視できませんでしたが、私は『うなぎの蒲焼』だと言っておどけたものです」

 夢中になれることが見つかり、福岡での学生寮も決めて自立できる目処もついていた。希望に胸は膨らむばかり。情熱は身体を焼き尽くすほどに燃えたぎっている。

 しかし当初は半年の予定が、1年たっても完治しなかった。

「もう待ちきれない」

 両脚の金属を隠すように包帯で太くぐるぐるに巻き、車イスの状態で福岡へ飛んだ。学生寮でのひとり暮らしを見切り発車で始めたが、1か月後には脚の内部で金具が折れ、緊急入院。その後も退院しては無理をして緊急入院を何度も繰り返した。

 それでも和泉さんは常に笑顔。患者や看護師から慕われ、自然と人が集まった。

 しかし、その笑顔の裏で和泉さんは自分の気持ちと体調の板挟みになり、必死に闘っていた。さらに1年の休学をすすめる医師や家族の言葉に、首を縦に振ろうとはしない。

「一刻も早く福岡に戻る」

 そこだけは譲れなかった。

最後の誓い。お互いベストを尽くそう

 ある日、そんな和泉さんに初めて厳しい言葉をかけた人がいた。病院で仲よくなった同世代の入院仲間のひとり、西川隆智さんだ。

「大学も行って、脚も治して、両方うまくいこうなんてなに甘いこと言うとんねん! 大阪でそういうやつなんていうか知ってるか? どアホや!」

 みんなが「大丈夫だよ」と励ましてくれるなか、西川さんは和泉さんのことを思い、その性格もわかったうえで、あえて厳しく言っていることが伝わってきた。うれしかった。

「初対面のときは絶対に友達になれないと思っていたんです。赤いロングヘアでアクセサリーをジャラジャラつけた、ヘビメタバンドのドラマーでした」

 西川さんは白血病の一種を患っていた。奈良県出身でコテコテの関西弁。人懐こく、誰にでも気さくに話しかけ、みんなを笑わせていた。だからこそ、和泉さんの気持ちが手に取るようにわかったのかもしれない。幼いころからみんなが笑顔でいられるように、心配をかけないようにとニコニコしている和泉さんを見透かすようにこう言ったのだ。

「本当はつらいのに、無理して笑うなよ」

 2人はお互い、心からわかり合える同志だった。和泉さんが唯一、弱音を吐き、本音を話せる友人だった。

 あるとき、西川さんは骨髄移植を受けることになり、大阪に転院した。90%の確率で成功する手術。「高知に友達がたくさんできたから、高知に戻ってこようかな」と話す西川さんに、「戻ってこいよ」とみんなで笑って見送った。

 しかし、「手術は成功」と連絡があった数日後、院内感染で容体が急変し、帰らぬ人となった。

「何日も何日も泣き続けました。今よりもっと負けず嫌いで意地っ張りで、西川くんにどれだけ救われたかを伝えることもできていませんでした。“ありがとう”と伝えられなかった後悔は今も残っています。西川くんの分まで生きよう。後悔しない生き方をしよう。彼がくれた最後の言葉“お互いベストを尽くそうぜ”を守り続けようと心に誓い、今の私がいます

 思い立ったら走り出す。力尽きるまで走り続ける。感謝の気持ちはすぐに伝える。

 和泉さんの核は、このとき揺るぎのないものとなった。

お互いに本音を語り合えた友人、ヘビメタバンドのドラマー西川さん。白血病の骨髄移植手術前の見舞い。この手術は成功したが、その数日後の院内感染で西川さんは帰らぬ人となった

自分にしかできないことがある

 脚を治療して短大に復学し大学にも転学。2年の休学を含めると大学卒業までに6年を要した。大学で抽象画や和紙を使ったオブジェなどさまざまな作品に意欲的に取り組み、なかでも和紙の作品は福岡で認められ、声をかけてくれるところも出てきていた。卒業後、福岡で美術に関する仕事をするつもりだった。

「卒業前の1か月ほど、湯船に入ると、脚の脛(すね)あたりがペコペコ動く。親に言うと連れ戻されると思い、卒業するまで装具をつけてだましだまし過ごしました」

 卒業式を終え、ようやく故郷・高知の空港に降り立った。迎えに来た母に事情を話すとその足で病院へ。片方が骨折していて緊急入院となった。

 脚はもう限界だった。全治1か月半と言われた骨折だったが、原因不明で9か月間歩けなかった。

 バリアだらけの4階建ての実家は車イスでは動けない。這うようにして生活した。いつ歩けるようになるか先が見えない。目指していた夢は崩れ、ゼロになった。

「この先どうやって生きていこう。歩けないままなのか」

1999年6月、愛猫のフッキーも一緒に家族で日帰り旅行。埼玉の国立障害者リハビリテーションセンターを修了し、高知に戻って設計会社で働いていたころ

 埼玉の「国立障害者リハビリテーションセンター」ならインテリアデザイン科で建築やパースを学ぶことができると知り、抜け殻のようになったまま、埼玉へ行く決意をした。通い始めるころには、歩けるまでに回復していた。

 埼玉での1年で、和泉さんは「私、障害者なんだ」と初めて思い知らされたという。

「さまざまな障害がある人が学んでいて、最初は戸惑いました。それまでに障害のある人と触れ合ったことも、自分自身が障害があると思ったこともありませんでしたから。でもそこで、友達もたくさんできました」

 高知に帰って設計事務所に就職すると、新たな興味が湧いてきた。バリアフリーの設計プランだ。そして、偶然入った本屋で「福祉住環境コーディネーター」検定試験のテキストを見つけた。医療、福祉、建築の幅広い知識を身につけ、クライアントに適切な住宅改修プランを提案、アドバイスするための能力検定。「これだ!」と思った。

「障害のある当事者、そしてそのご家族が質の高い生活をするための力になれる。建築の知識や自分の経験が生かせる。自分にしかできないことがここにある。『使う人の身体に合わせて環境を整える』という視点に衝撃を受けたんです」

猪突猛進、すごい子がおるもんや

 2001年、和泉さんは走り出した。持ち前の行動力に拍車がかかる。すぐに会社を辞めて集中して勉強し、「福祉住環境コーディネーター2級」試験に1発合格。その知識を生かした仕事を見つけて従事する傍ら、休みを利用して夜行バスを駆使し、全国各地のセミナーに参加。情報を集め飛び回った。

 なかでも和泉さんが師匠と呼ぶ大阪府豊中市の芳村幸司さんの事務所には、寝袋を持って9日間滞在した。熱い思いを語り、すべての仕事について回り、あらゆるメモをとり続けた。

 芳村さんは福祉住環境コーディネーターの先駆者で、福祉住環境コーディネーター協会理事、全国的な学会を開催する福祉住環境アソシエーションの専務理事でもある。検定合格者の育成セミナーも数多く行っている。

師匠と仰ぐ、芳村幸司さん

猪突猛進型のすごい子がおるもんやと圧倒されました。一言一句聞き逃すまいとメモを取る。冗談も全部書き留めているから、どれが大事なことかわかるかなと心配になるほどでした。私も人を育てたいという思いが強かったので、その熱意は心地よかったのを覚えています」

 そこで吸収したことを手がかりに、高知でもゼロからNPOを立ち上げ、活動を広げ、行政にもかけあった。

 そして、2006年には高知市から、2010年には高知県から委託を受けて住宅改造アドバイザー事業を行うようになる。

 さらに、福祉住環境に取り組む全国の仲間とみるみるうちにつながっていく。和泉さんが人をつなげる力、人の懐に入る力は目を見張るものがあると芳村さんも一目置く。

「全国を学会形式でつなげるための福祉住環境アソシエーションでは、四国代表の理事として関わってもらっています。高知県でも独自に連携を深めて、障害者や高齢者の支援団体など、さまざまな現場で活躍する専門家を集めた高知県リハビリテーション研究大会の実行委員長を務めたとも聞きました。彼女なりに頑張っているのは本当にうれしい。あとは、人がよすぎるので、ちゃんと利益が出るように頑張ってほしいということですね」

みんなが主役になれる場所を目指して

「タウンモビリティステーションふくねこ」のある商店街。誰もが楽しく出かけられる街づくりを目指す 撮影/吉岡竜紀

 仕事に奔走しながら、和泉さんは、住宅改修を通して出会う人たちの「家は住みやすくなっても街には行けない」「本当は買い物に行きたい」という声が気になっていた。

「住宅だけでなく、誰もが安心して出かけられる街づくり」が新たな目標となった。

「福岡県久留米市のタウンモビリティの視察に行き、代表理事の吉永美佐子さんに思いを話すと、惜しみなくノウハウを教えてくださいました。高知では住宅改造アドバイザーやタウンモビリティの取り組みは先駆的と言われることもありますが、芳村さんも含め、全国にはそれぞれの分野で先駆者がいらっしゃいます。そのみなさんに教えてもらいながら、なんとか今がある。ふくねこが活発に活動できているのも、仲間をはじめ、利用者やボランティアのみなさん、商店街のご協力があってこそ。本当に、私ひとりでは何もできないんですよ」

 高知でのタウンモビリティは2011年、年に2回、イベントで活動するところから始まった。2年前からは商店街の空き店舗が常設となり、現在に至る。高知県と高知市が家賃補助を行い、高知大学や高知県立大学の学生たちのボランティアサークルも関わり、安定した運営ができるようになった。

「利用者のみなさんがいろいろなアイデアを出してくださって、さまざまなイベントも生まれています。これからも、みなさんと無理のない範囲で活動を広げていきたい」

 ふくねこの設置を応援してくれた京町・新京橋商店街振興組合理事長の安藤浩二さんは、「ふくねこ」の活動をどう見ているのだろうか。

商店街は物を売るだけの場所ではないと思っています。人の交流の場、地域貢献の場です。僕たちもそのお手伝いができることは大変うれしいことです。

『ふくねこ』は特別な存在ではなく、街に溶け込む日常になっている。それがまたいい。笹岡さん自身もハンディキャップがありますが、気負わず、人との接し方も非常に自然。とてもエレガントな方だと思います」

「20歳まで生きられるかどうか」と言われていた宇賀智子さんと。成人の記念に着物を着て、和泉さんも一緒に車イスで街を回った

 もうひとり、和泉さんに大きな影響を与えた人がいる。宇賀智子さんだ。智子さんは、和泉さんが高校卒業後の入院時に病院で出会った5歳の女の子。8月で32歳になる。先天性せき柱側湾症、先天性中隔欠損症を患っており、現在は高度肺高血圧症も併発して酸素吸入が欠かせない。

「当時、小さな身体で頭にビスをつけて牽引されていました。本当に大変な状況だったのに笑顔で慕ってくれたのがうれしかった。その後もご縁があって、友達として何か応援したかったんです」

 智子さんの母である宇賀恵子さんは、和泉さんへの感謝の気持ちを「智子の成人式には、商店街の呉服屋さんに相談し、セパレートの着物を作ってもらい和泉ちゃんが一緒に街を歩いてくれました。今も毎月童謡教室を楽しみに出かけています。人が大好きなので、街に出ていろんな人と関わることが智子にとっては本当に生きる力になるのです」と語り、「ふくねこ」についても、こう続けた。

「障害があってもなくても、いろんな世代の人が日常のこととして関われる場所がふくねこです。ふくねこのその思いが、街全体に広がっていくといいなと思います」

「ふくねこ」が目指すのは、お互いが当たり前にサポートでき、声をかけ合うことができる場所。みんなが主役になり、お互いさまで誰かの役に立つ喜びを感じられる場所。

 和泉さんは、そこに集まる人たちが無理をすることなく自然に笑顔で過ごせることを願っている。これからも和泉さんの周りには、笑顔が広がっていきそうだ。

取材・文/太田美由紀

おおた・みゆき フリーライター、編集者。子育て、教育、福祉など「生きる」を軸に、対象に肉薄する取材を得意とする。取材対象は赤ちゃんからダライ・ラマ法王まで。信条は「職業に貴賤なし。人間に貴賤なし」。家族は思春期の息子2人とキジトラの猫。今年1月、独学で保育士の資格も取得。