昨年4月──。27時間の間に、震度7の大地震に2度も見舞われた熊本県。被害の大きかった益城町、西原村、南阿蘇村は当時、そして1年後も大きく報道された。一方で、すぐ近くにありながら発災当初からあまり報じられなかった3つの小さな町がある。ずっと気になっていた3つの町が2度目の夏をどう迎えたのか気になって、歩いてみた。〈前編〉

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「ここには仲のいいおじいちゃんとおばあちゃんが住んでいたの」

「ここは元気のいいおばあちゃんがひとりで暮らしてた」

 甲佐町(こうさまち)を車で走りながら、料理研究家の沼田峰子さんの声が涙で詰まった。彼女は元民生委員でもあり、地元のことには非常に詳しい。

 町のあちこちが空き地になっている。家を失った高齢者の多くは仮設住宅で暮らしているという。3か所ほどの仮設住宅を回ってくれたのだが、どこも炎天下にひっそりと静まりかえっていた。

「地震で地域のつながりが失われたことがつらい」

 家や財産を失う被害も大きいが、こうした小さな町では、地域のつながりがなくなっていくこともまた、災害の大きな余波である。

 ここ甲佐町は、熊本市内の中心地から南東方向へバスで45分。基幹産業は農業、“花と緑と鮎のまち”として観光にも力を入れている。6月の鮎漁解禁から11月末まで鮎料理を求める人でにぎわう。昨年は2割ほど減少したが、この夏は観光客もかなり戻ってきているそうだ。

 熊本地震とひと口にいっても、その被害状況はさまざま。震度7に2度も見舞われた益城町が有名だが、ここ甲佐町は4月14日の前震で震度5弱、16日の本震で震度5強、そして合間の15日午前0時過ぎにも震度5弱と、3日続けて大きな地震にあっている。15日は甲佐町が震源地。もちろん他の地域同様、余震は4000回を超えた。

「甲佐町は縦に長い町なので北側が地震でやられ、南側は昨年6月の豪雨で被災とダブルショックだったんです」

 甲佐町役場企画課の内田健司さんはそう言う。地震では九州自動車道緑川サービスエリア付近の府領橋が落下、その南の田口橋も通行止めとなった。緑川は町を南北に貫くように流れているので、町民たちは不便を強いられた。

甲佐町の南北を貫くように流れる緑川にかかる府領橋が落下。住民らは不便を強いられた

 ピーク時は避難所が12か所、人口1万1000人の町で1824人が避難した。車中泊の人たちはそれ以上。現在、仮設住宅にいるのは224世帯、608人。災害復興住宅の建設も進んではいるが、まだ足りていない。高齢者が新たに家を建てるのは経済的にむずかしく、住宅問題には復興格差が出やすい。

「土地を町が買い上げて上物を個人で建ててもらう方法も検討しています。できれば甲佐にいていただきたい」

 甲佐町では役場が率先して町を盛り上げようとしている。『こうさんもん』というブランドもそんな取り組みの一環。これは甲佐町で生産または加工された食品及び工芸品などを役場が主体となって審査し町内外にアピールするもの。この『こうさんもん』に認定されているのが、甲佐の特産品にらを使った「にらメンコ。」である。作っているのは町内にある『高田精肉店』。私自身、熊本や福岡で何度か食べてファンになった。

看板娘を迎え家族で再出発の精肉店

 高田精肉店もまた、地震の被害にあった。店舗は半壊。最初は炊き出しに参加し、徐々に復興イベントなどに出店するように。そして昨年11月、同じ甲佐町の国道沿いに新店舗を移転オープンした。店主の高田裕三さんが言う。

「にらメンコ。」で地元を元気に、と甲佐町の高田精肉店

「地震が起こった当初は1週間くらい仕事ができませんでした。結婚して27年、3人の子とともに久しぶりにいろいろ話ができました」

 変わってしまった町並みを見て、東京や宮崎で暮らす息子たちは募金活動を始めた。「ここで生きていくために、ここにいない人間である自分に何かできることはないか」と考えたのだそうだ。父として、高田さんはその気持ちがうれしかったという。

 高田さんは大学を卒業後、隣の美里町で牧場を経営。結婚後は甲佐町で食肉店も営み、15年ほど前からは店に本腰を入れるようになった。

「にらメンコ。は最初はニラの匂いが強いのでウケなかったんです。それでも徐々にリピーターが増えていきました」

 九州内のイベントにも呼ばれるようになった。特にもつ鍋が盛んな福岡ではにらへの抵抗がないためよく売れた。

「地震後、厨房が使えるようになるとすぐ、にらメンコ。を作って地元及び近隣の町の避難所に運びました。被害のひどかった益城町では“おいしかった。この味は一生忘れない”と言われ、こちらも涙が出るほどうれしかった」

 もうひとつうれしかったのは長女・侑希奈さんが仕事を辞めて一緒に店をやるようになったこと。多いときは1日300個、にらメンコ。が売れる。

「この甲佐の町でがんばっていきたいんです」

 熱々のにらメンコ。は地元を愛する家族の情熱の味だ。

 熊本地震は前震が4月14日。新年度が始まってすぐだった。役場も学校も人が入れ替わったばかりだったことが混乱を招いた一因といえるかもしれない。

小学生と中学生がひとつの校舎で

 甲佐で起こった3回の地震を証明する、動かなくなった時計が乙女小学校にある。教頭の廣田順子さんは前震のとき、行事の準備のため学校に残っていた。

3度の地震に見舞われた乙女小学校

「あれほどの地震は熊本では初めてでした。入学したばかりの子どもたちの家をまだ全部、把握していなかったので苦労しました。住所を頼りに訪ねていくと家が崩れていたり……。他の先生たちと手分けして支援物資を持って子どもたちの家をまわりました」

 全校生徒123人、誰ひとり欠けることなく戻ってきた。だが校舎は使えない。小学校は甲佐中学の教室を借りて授業を続けることになった。地元のバス会社に頼んでスクールバスを稼働させた。

 中学3年生のクラスの隣が小学1年生の教室だったが、地震に怯えていた子たちも、中学生に支えられて落ち着きを取り戻していった。

 ようやくこの春、校舎や体育館の工事が終わり、卒業式には間に合った。校舎の壁には中学生から贈られた応援の寄せ書きが貼られている。被害は大きかったが、その中で、子どもたちは「譲り合うこと」「一緒に生きること」を学んだように見えると廣田教頭は話してくれた。ただ、今も職員室の床は歩くと足が沈み込む箇所がある。

家は全壊、夫が病に倒れてもめげず

 冒頭で仮設住宅などを案内してくれた沼田峰子さんは『ぱん工房 ふうさん』を始めて15年になる。彼女は前出の乙女小学校の評議員でもあり、甲佐ブランドをいくつも開発している料理研究家だ。

 ひとり息子が独立して、店の裏にある自宅で夫とふたり暮らし。

沼田さん手作りの、熊本産柑橘、デコポンを使ったケーキも人気がある

「前震のとき、冷蔵庫が窓を突き破って飛んでいきました。本震で家はほぼ全壊、夫に引っ張り出されてようやく外へ出たら、夜中の道がうねっていた」

 同居していた実母を福岡の息子のもとへ避難させた。

「私たちは着の身着のまま店で生活していました。落ちた府領橋を見に行ったとき、先が見えない、何も手につかないねと泣くだけ泣いて」

 そして彼女は立ち上がる。ファンの多い無添加のパンを必死で作り続けた。

 仮設住宅への入居を辞退すると、地元の仲間が材料費だけで家を建ててくれた。ホッとしたのもつかの間、今度は夫が病に倒れてしまう。

「お金もない、夫は病気。ますます私ががんばるしかない。私は“明るい被災者”と呼ばれてるの(笑)。結婚して36年間ここに住んでいますが、今回、人の温かさを痛感しました。だからこそ町の人たちのつながりを失わないために何ができるか考えています」

 甲佐の町の人たちはみな親切で温かい。そして元気だ。

嘉島町で企業がみせた震災直後の意地

 熊本空港から車で30分、熊本市内からほど近い町が嘉島町(かしままち)。人口9000人強のこの町には、イオンモール熊本、サントリー熊本工場と大企業が2社もある。

「市内から近い地の利を生かした町作りをしてきました」

 そう言うのは31年間、町長として町を引っ張ってきた荒木泰臣さん。7月末には全国町村会長にも就任した。

 町長は地震後すでに4つの企業を誘致。また、前から決まっていた東京ドームより大きい家電センターの建設、20年計画で進めている70ヘクタールに及ぶ区画整理と住宅建設は継続していくという。

「嘉島は準農業地域ですが、農業従事者が減ってきています。規模が小さいと採算がとれないので広域農場を作って経営として成り立つようにしないと。同時に企業を誘致して働く人のために住宅を作る。農業と企業の2本立てで、住んでよかったと思ってもらえる町にしていきたい」

 一時は屋外避難者も含め、町民の3分の1あまりが避難していた。現在は約330世帯850人近くが仮設住宅、およびみなし仮設に住む。来年6月に向けて災害公営住宅の建設が進んでいる

 イオンモール熊本の活性化推進マネージャーである井手あゆみさんが当時を振り返ってくれた。

「当社が最優先に考えたのは、生活に必要な最低限のインフラをお客さまに提供できるようにしたいということでした。前震後すぐに外に仮設トイレを設置、軒先にテントを張って15日にはパンなどの食べ物、飲み物をあるだけ販売しました。当初はもう少し早く復旧できるはずでしたが、16日の本震で被害が拡大したんです」

 その後も軒先を使って食料品を提供した。全国のイオンから物流が結集、宮崎から10時間かかって荷が運ばれてきたこともある。20日には1階の食品売り場を一部再開、日用品を含め販売することができるようになった。

「町ぐるみでがんばりました。18日には敷地内の温浴施設『嘉島湯元 水春』が使えるようになった。大勢のお客さまが淡々と身体を洗っては出て、次へと譲っていく。その光景に人の温かさを感じ、心打たれました」

 イオンモール熊本には約160店の専門店が入っていたが、建物が使えないため、外にコンテナを作ったり通路にワゴンを置いたりして販売、工夫を重ねた。

「イオンモール熊本は嘉島町のシンボルのひとつ。その当社が営業できないと嘉島町がまだ地震から立ち直れていないと思われてしまう。地域インフラを担う商業施設としての使命があるんです。地域の中で発信基地にならなければいけないと思っていました」

 段階的にオープンを繰り返し、今年3月には西側のごく一部以外、映画館も含め全館オープンすることができた。この間、さまざまな復興イベントも行われたが、地域の復興支援として無償で場所を提供してきた。

「お客さまと顔を合わせて挨拶する。そういう日常がどれほど大事か、地震後はよくわかりました」

 9月から11月まではイオンモール熊本の敷地内で木下大サーカスが開催される。

 嘉島町には、中小企業が集まる熊本南工業団地もある。ここで24社が集う組合の長として活動しているのが(株)プレシードの社長・松本修一さん。自動車関連、半導体関連など各種生産ラインの開発、設計、施工などを行う会社である。

中小企業が集まる工業団地の組合長・松本さん。団地のために奔走した

「弊社含め、各社いろいろ被害がありました。組合事務所も全壊したので、なかなかすべてを把握できなかった」

 企業にとってスピードは命だと松本さんは言う。

「中小企業はすぐ動かないと、県外や海外の取引先から見放されてしまう。ここの経営者たちの動きは早かった。組合理事長としては水道や道路などの共有部分の被害を掌握するのに必死でした」

 起きたことはしかたがない、元に戻すのではなく、よりよく復興させようと松本社長は他の経営者たちにも言った。工業団地にも社内にも、これまでにない連帯感が生まれたという。

全国のラーメン店がどんぶり支援

 自分が動けば協力や支援が得られる。それを実感した人がもうひとりいる。嘉島町でラーメン店『陽向』を営む内田哲史さんだ。3歳のとき「ラーメン屋さんになりたい」と書いたほどのラーメン好き。大学時代からラーメン店でアルバイトをし、2013年に自分の店を嘉島に構えた。スープは複数の釜を使い新しいスープを継ぎ足して味を深めていく「呼び戻し」技法で作る。熊本ラーメンで特徴的な焦がしニンニクは使わず新しいラーメンを開発した。

「クセはありますが、地元・嘉島の方に気に入ってもらえたようで、週に4回食べにくるお客さんもいるんですよ」

ラーメン「陽向」は店名どおり人が温かさを求めて集う場となっている

 私も食べたが、豚骨のうまみがしみじみとおいしい。

 地震当時は、建物こそ無事だったが、内部は惨憺たる状況だった。

「どんぶりもスープも全滅で、呆然としました。でも、ゴールデンウイークにはなんとか開けたかった」

 そんな状況を救ってくれたのは横のつながりだった。震災直後、仲間が2㌧トラック4台分の救援物資を持ってきてくれた。全国のラーメン店から、どんぶりも集まった。

 壁にはどこから提供されたかがわかる地図が貼ってある

「今もそのどんぶりを使っています。あらためて3歳のときの夢を思い出しました。ラーメンは僕の一部。ラーメンを通じて、これからもお客さんの笑顔が見たいんです」

日本全国から、思いやりのどんぶりが届いた

 甲佐と嘉島。ふたつの町を実際に歩いて人に接してみると、そこに住んでいるひとりひとりがいかに踏ん張っているかが見えてくる。

 そういう人たちが助け合い、声をかけあいながら、より強固な人のつながりを取り戻し、町の復興を進めていくに違いない。

◎取材・文/亀山早苗

かめやま・さなえ 1960年、東京都生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに幅広くノンフィクションを執筆。熊本県のキャラクター「くまもん」に魅せられ、関連書籍を出版。震災後も20回熊本に通い詰め、取材を続ける。近著に『日本一赤ちゃんが産まれる病院 熊本・わさもん医師の「改革」のヒミツ』