アップル社が主催する今年のWWDC(世界開発者会議)で、最高齢プログラマーとして、ひときわ話題をさらったのは、ひとりの日本人女性。ティム・クックCEOから「どうしても会いたい」と招待された若宮正子さんは、想像を超える、文字どおり好奇心と行動力の塊のような人だった。

若宮正子さん 撮影/渡邉智裕

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「マサーコー、ワカミーヤ」

 アップルのティム・クックCEOが登壇。親愛の情を込めて若宮正子さんの名を呼ぶ。今年公開されたアプリの開発者で82歳の日本人だと紹介すると、大きな拍手が沸いた。

 6月5日、IT企業がひしめくアメリカ西海岸のシリコンバレーで開かれたアップルの世界開発者会議「WWDC2017」基調講演でのことだ。世界各国から5300人の開発者が集まる年に1度のイベントで、最高齢プログラマーとして招待された若宮さんには、外国メディアの取材が相次いだ

 若宮さんが作ったのはiPhone用アプリ「hinadan(ひな壇)」。ひな人形を正しい位置に置くゲームで、誰でも無料でダウンロードできる。シンプルな内容だが、やってみると五人囃子の配置などうろ覚えで、結構難しい。今年2月24日に公開されると、「81歳(公開当時)のおばあちゃんが作ったシニア向けアプリ」と話題を呼んだ。

若宮さんが開発したiPhone用ゲームアプリhinadan。現在、ゲームの説明文は日本語だけなので、英語、フランス語、中国語などで説明文をつける準備中

 基調講演の前日、若宮さんはクックさんから、こう話しかけられた。

「あなたの存在は、私たちに勇気を与えてくれます」

 若宮さんはhinadanを見せながら説明した。

 年寄りは手が乾いていて指を滑らせるスワイプ操作が苦手なので、画面を叩くタップだけで遊べるようにした。正解・間違いを表す音が鳴るが、耳の不自由な人でもわかるように文字でも表示するなど、工夫した点を話すと、クックさんから質問が相次いだ。

「iPadでは使えないのですか?」

「文字のサイズは小さすぎませんか?」

「私も目が悪いので、大きいほうが助かります」

 世界的企業のトップと直接話した印象を、若宮さんはこう表現する。

なんだか街のパソコン塾の先生みたいなこと言うんだわ、この人はと思って(笑)。初心者の私のレベルに降りてきて、一緒に問題点を考えてくださったところがすごいですよね。

 私のアプリは“今まで1回もスマホに触ったことがない人でも楽しめた”とよく言われますが、クックさんも経営者ですから、新しい顧客層を開拓できるとひそかに思ったんじゃない?」

 実は若宮さん、アップルからの招待を1度断っていた。兄とのロシア旅行の予定と重なっていたためだ。

「断ったのに、どうしても会いたいと言っている人がいるから来てくれと。誰かと聞いたら、クックですと。え~っ、それは行かなきゃまずいでしょと思ったのね」

 温暖なアメリカ西海岸から帰国すると、スーツケースに防寒着を詰めて成田空港に取って返した。ロシア旅行から戻るとすぐ、神奈川県藤沢市の自宅にテレビの取材クルーが来た。

「時差があったし、メチャクチャ大変ですよ。でも、逆に言うと、疲れている暇がないくらい忙しい。あとでゆっくり疲れれば、いいじゃない。アハハハハ」

 そう早口で言って、軽妙に笑い飛ばす。82歳とは信じられないタフさだ。

 しかも、若宮さんがパソコンを始めたのは、なんと還暦を過ぎてからプログラミングを学び始めたのは81歳のとき。それから半年でhinadanを完成させたというから、ビックリだ。

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 快挙の裏には、若宮さんが“師匠”と呼ぶ男性との出会いがあった。スマホアプリの開発やプログラミング教育を手がける宮城県塩釜市の小泉勝志郎さん(テセラクト代表取締役社長)だ。

 若宮さんはNPO法人ブロードバンドスクール協会(以下BBS)の活動で仲間とシニアにスマホを教えている。その活動の一環で、震災復興支援活動をする小泉さんと知り合った。

「お年寄りが若者に勝てるゲームを作りませんか」

 会うたびに、小泉さんは若宮さんにそう話した。一緒にアイデアを練り、生まれたのがhinadanの原型だ。

 それをもとにゲームの仕様書を書いた若宮さんは、小泉さんにアプリを作ってほしいと頼んだ。だが、小泉さんの返答は思わぬものだった。

「僕が作っても話題にならないけど、若宮さんが作ったら、チョー話題になりますよ。僕が教えますから」

 そして昨年8月、無料通話アプリのスカイプやFacebookのメッセンジャーで連絡を取りあい、二人三脚の挑戦が始まった。

若宮さんの師匠、小泉勝志郎さんと。小泉さんにプログラミングを教えてもらいながらhinadanを半年で完成させた

 小泉さんによると、若い人でも半年間でアプリを作るのは大変だという。それを当時81歳の若宮さんが成し遂げたのには、いくつかの理由があったそうだ。

「プログラミングって全部、英語で書くんですよ。僕は学生にも教えていますが、みんな英語が出てきた瞬間に動きが止まっちゃう。でも、若宮さんは海外旅行が趣味なので、英語に抵抗がない。

 しかも、BBSの例年行事である翌年の“電脳ひな祭り”までに、絶対に出したいという固い意志がありました。プログラムを作っていると、思うように動かないことがよくありますが、若宮さんはメンタルが強くて心が折れないんですね。そもそも普通のお年寄りは自分でアプリを作ろうとはならないけど、若宮さんの新しいものに対する感度のよさはすごいです」

 若宮さん自身は、どんな思いで取り組んでいたのだろうか。

「だって、年寄りが面白いスマホゲームって、全然ないんですよ。私が習ったswiftという新しいプログラミングソフトは、ある程度までは図を使って感覚的にできるんです。昔みたいに上から下まで全部文字をダーッと打つ必要はありませんが、それでもお世辞にも簡単とは言えないですよ。

 でもね、うまくいかなければ途中でやめればいいわけですし。やめても誰も死なないし、オレオレ詐欺みたいに何百万円も取られるわけじゃないしね(笑)」

 前向きなだけでなく、絶妙な力の抜き加減だ。

好奇心旺盛な負けず嫌い、女性初の管理職に

 3人きょうだいの末っ子の若宮さんには、91歳、86歳の兄がいる。

「妹が急に雲の上に上がっちゃった感じ」と感慨深げなのは次兄の若宮和夫さん。毎年のように一緒に旅行に行くなど仲がいい。

「妹の名前で検索したら、イタリア語、アラビア語、ヒンディー語など、いろいろな国の記事が引っかかってきて、面白かったですよ。妹はいつか何かをやると思っていましたが、ネット時代だからここまで有名になったんでしょう。努力もあるでしょうが、昔から運もいいんですよ」

 和夫さんによると、幼いころから若宮さんの意志の強さは際立っていたそうだ。

「1度機嫌をそこねると、そこらへんに寝ちゃって、幼稚園の先生が何を言っても聞かない。大物というか、怪物というか(笑)。好奇心もものすごく旺盛で、とにかく元気がよかったですね。おふくろは田舎の村長の娘で、勉強でも走るのでも、何でも1番じゃなきゃダメだという人で、妹はそっくり。負けず嫌いでしたね」

子ども時代の若宮さん。2、3歳くらい。幼いころから好奇心旺盛で負けず嫌いだった

 若宮さんは1935年、東京の阿佐ヶ谷で生まれた。6歳のとき太平洋戦争が開戦。空襲がひどくなると長野県に学童疎開した。親が恋しかったというよりも、食べるものがろくになく、いつも空腹でひもじかった記憶のほうが鮮明だという。

 会社員の父の転勤で家族そろって兵庫県に行くことになり、準備のため東京に戻ってきたら、毎晩のように空襲があった。

「照明弾や焼夷弾がダーッと降ってきて、機銃掃射が始まるのを、何か他人事みたいに、あっけにとられて見ていました。死ぬんじゃないかと大人たちが話してましたが、まだ9歳の私は死ぬって意味がよくわからなかったですね。幸い、うちの一角は焼け残りましたが」

 兵庫県で終戦を迎え、東京に戻ったのは中学2年になるときだった。新制中学に切り替わったばかりで、外地から引き揚げてきた作曲家が担任になるなど、教師もバラエティーに富んでいた。

 高校は難関の東京教育大学(現・筑波大学)附属高校に進んだ。

「私、今でもそうですが、自分のしたいことをしたいんです。それにダメモト主義ですから、受けたら受かっちゃったの。私より成績がいい人はいっぱいいたのに。なんかね、ものすごく運がいいんですよ。まあ、図々しくてあがらないから、本番に強いって説もありますが」

 卒業を前に就職の本を買って調べたら、給料がいちばんいいのが銀行だった。大手都市銀行の試験を受けると、見事に合格。ところが──。

「まだ機械化もコンピューター化もされてなくて、すべて手作業の時代。不器用な私はついていけなくなっちゃったんです。算盤を手早くやったり、お札を数えたり、言われたとおりキチンとこなすのが苦手で。ちょっとした病気をきっかけに、うつ状態になり長期欠勤したり……。いろいろ迷惑をかけましたが、辞めさせられないですみました」

 20代のころ、結婚を考えた相手がいた。だが、学園紛争のさなか音信不通になってしまったという。

 ふと思いついて、聞いてみた。

「その相手が忘れられなくてずっと独身だったんですか?」

 若宮さんはしばらく考えて、冷静に答えた。

「もしかすると、そうかもしれないわね。でも、逆に言えば、独身だったから、仕事をしながら毎年、海外旅行に行ったり、いろいろやりたいことをできたんですよ。当時は結婚して子育てをしながら、ほかのことができるような時代ではなかったから」

 高度経済成長を経て銀行業務の機械化が進むと、風向きが変わってきた。算盤を手早くやるより、アイデアマンが重用されるようになり、若宮さんは花形部署である業務企画部に配属された。

 もともと好奇心旺盛な若宮さんはさまざまな提案をした。例えば、今ではコンビニで各種料金の支払いができるが、その回収代行制度のもとになるアイデアを出したのは若宮さんだという。

「すごい!」と驚くと、「もちろん、私ひとりでやったことじゃないですけどね」と謙虚に付け加えた。

 ’85年の男女雇用機会均等法制定を前に、若宮さんの銀行でも女性が管理職登用に関係する試験を受けられるようになり、若宮さんは女性で初めて企画部門の管理職になった。子会社への出向を経て62歳まで働いた。

40代のころ。都市銀行に勤めていた女性初の管理職になった

介護がきっかけでパソコンに夢中に

 退職する前のある日、事件が起こった。

 若宮さんはずっと母の鶯子枝さんとふたり暮らしだった。父は早くに亡くなり、兄たちは結婚して独立したからだ。いつも通勤に使っていた東海道線が事故で遅れていたため、帰宅が2時間ほど遅くなると、当時90歳近かった母に電話を入れた。

 ところが、家に着くと鶯子枝さんがいない。近所を必死に探し回り、困って警察に駆け込むと、自宅から4キロ離れた場所で保護されているという。鶯子枝さんは見知らぬ家の前で「娘が死んじゃった」と泣いていたそうだ。

母の鶯子枝さんと。母90代、若宮さん60代のころ

ボツボツ認知症の症状が出始めていたんですが、これはちょっとヤバいなと。退職したら、なるべく家にいないといけないなと思いました。

 私、おしゃべりでしょう。おまけにお出かけ好きだから、どうしようかなと思って。本を読んでいたら、パソコンがあればオンラインでチャットができると書いてあったので、パソコンを買ったんです」

 素人でも操作しやすいWindows95が発売される前のことだ。メーカーに電話をしたり、販売店で聞いたりしながら、インターネットに接続するのに3か月かかった

「ちょうど暑い日でね。“ようこそ”というメッセージが出てきたときは、汗と涙でもうウルウル。思わず涙が出たくらいうれしかったですね」

 お目当てはシニア向けの全国ネット「メロウフォーラム(現メロウ倶楽部)」。いわばインターネット上の老人会で、掲示板やチャットでの交流のほか、地域ごとにオフ会も盛んに行われている。

「人生、60歳を過ぎると面白くなりますよ」

 70歳の会員が送ってくれたウエルカムメッセージに大いに勇気づけられた。

「そこではなんでも本音で語り合えるんです。俳句の部屋とか、生と老の部屋とか、テーマごとに掲示板があって、自分がどうやって年を取って病気になって死んでいくか、先輩たちが身をもって教えてくださることもあります」

 ときに、メンバーからこんな書き込みがある。

《長いこと世話になったな。今日はやっと3行書けたけど、明日、何も書かなかったら俺は死んだと思ってくれ》

 しばらくして自宅に問い合わせると、書き込みをした後、昏睡状態に陥り、亡くなったと告げられたという。

 若宮さんは毎朝、パソコンを立ち上げるとメンバーに挨拶。チャットでおしゃべりを楽しみながら、10年近く在宅で介護を続けた。

 次兄の和夫さんがときどき手伝いに来てくれたし、デイサービスやショートステイを利用したとはいえ、「さぞ大変だったでしょう」と聞くと、意外な言葉が返ってきた。

「取材の方は、みなさんそうおっしゃるし、苦労したに違いないと書かれることもありますが、そんなに困ったことは思い出せないんです。母は物忘れがひどくなり、探し物ばっかりしていましたが、忘れるっていうことは、いい面もあるんですよ」

 例えば、カボチャを煮る。次の日に残ったカボチャを出しても、

「あら珍しい。美味しいわ」

 と、喜んで食べてくれたそうだ。

「私は不良介護人ですから、パソコンをやってて面白くなったらもう夢中でやるでしょ。気がつくと外は真っ暗で、“いけない、おばあちゃん(鶯子枝さん)にオヤツあげるの忘れてた!”とか、しょっちゅう(笑)。それでも100歳まで長生きしたんですから、いいんじゃない?」

年齢を理由には行動に制限をしない

 若宮さんはデジタル機器を使いこなせるようになると、教える側にまわった。

 前述のBBSの仲間とともに、高齢者にパソコンやスマホなどを普及するボランティア活動を長年続けている。

 メンバーのひとりで20年来の友人である近藤則子さん(62)は、若宮さんの行動力と勇気には驚かされてばかりだという。

「普通だったら、何歳になったからと年齢で行動を制限しちゃう人が多いけど、マーチャン(若宮さんの愛称)は本当に好奇心がいっぱいで、何か新しいものがあったら、すぐにチャレンジするし、どこか行きたいところがあったら、すぐに行くんです」

 しかも、周りの人が「ちょっと危ないんじゃない?」と心配するようなことでも、若宮さんは「大丈夫、大丈夫」とやってしまうのだと、近藤さんは強調する。

「ヨーロッパでもオーストラリアでも、ガイドブックに載ってないようなところを自分で調べて、宿泊の予約もしないで1人で行くんですよ。

 一緒に香港に行ったときも、2人とも中国語は話せないのにマーチャンがタクシーを止めて交渉して。サバイバルじゃないけど、そういう生きる力がすごいですね」

次兄の若宮和夫さんとロシア旅行に行ったとき撮影。年に1度は旅行に一緒に行くなど仲がいい

 若宮さんが初めてフランスに旅行したのは40年近く前。まだ持ち出せるお金の制限などがあったころだ。

 安い宿に泊まり、好奇心のおもむくままに珍しいものや現地の人の暮らしを見て回るのが若宮さん流だ。銀行で管理職になってからも率先して有休を取り、毎年、海外に行った。旅先で便利だろうと英語も習った。

 そうして習得した英語が、後にアプリ開発にも役立ったのだから、人生は面白い。

面白くなくっちゃ、やる気にならない

 10年以上前から、自宅でパソコン教室も開いている。若宮さんが開発した「エクセル・アート」で日本の伝統的な模様をモチーフにデザインをしたり、ワードで絵を描いたり、楽しみながら技術が身につく工夫をしている。

「高齢の女性は手芸とか好きでしょう。エクセル・アートはその延長線上ですから、喜んでおやりになるんです。しかもエクセルを勉強すると、コンピューターとは何か、わかってくるんですね。

 シニアにパソコンを教えるというと、よく家計簿と1か血圧の推移をグラフにしたりするけど、そんなのちっとも楽しくない。やっぱり、面白いからやってみたいと思わせないとダメですよ」

若宮さんが開発した「エクセル・アート」で作った団扇

 生徒は60代から80代まで女性ばかり6人だ。今年3月から通い始めた山澤和江さん(62)に聞くと、和気あいあいとおしゃべりしながら教わる家庭的な雰囲気で、すぐになじめたという。

「本当に脳トレみたいです(笑)。パソコン歴は10数年ですがエクセルは初めてだったので、最初はチンプンカンプンでした。作業は同じことの繰り返しで、色を変えたり、方向を変えたりしますが、手がうまく動かない。先生に言われると、なるほどそうだと思うけど、家に帰ると忘れちゃう(笑)。何度もやらないと自分のものにならないですね」

 山澤さんがワードで描いた花の絵を印刷したポストカードを見せてくれた。友人に配ったら好評だったという。次はエクセル・アートでデザインした絵をシャツにアイロンプリントして、身につけたいと張り切っている。

若宮さんが自宅で開くパソコン教室で「エクセル・アート」を習う山澤和江さん 撮影/渡邉智裕

120歳まで生きないと時間が足りない

 若宮さんにシニア向けの新しいアプリは作らないのか聞くと、アイデアは10も20もあるという。シニアの知恵や日本の伝統を後世に伝えるようなアプリを考案中だ。

 忙しい合間を縫って、ほぼ毎日Facebookに記事を投稿しており、アップルのWWDCの様子も写真つきで紹介している。またFacebookではこの2年間、「エイティーズの冒険」と題して、シニアが自立するための提案を連載している。近いうちに完成させて電子書籍にしたいそうだ。

ブロードバンドスクール協会(BBS)が主催した「電脳七夕祭り2017」でアップルのWWDC参加を報告した。講演の様子はFacebookで生中継された

“リケジョ”ならぬ、“リケロウ”こそ必要なんです。老人がパソコンやスマホが苦手なのは、理科がわからないから。文部科学省に言っても100年たっても実現しないでしょうから、まずバーチャルな老人小学校を作って、理科を教えたいと考えています。

 今のスマホは音声入力できるから、たとえ寝たきりになっても使えるし、エンディング間近な人同士が交流できるバーチャルターミナルケアみたいなものも、もっとあってもいいと思います」

 次々と構想を語りだすと止まらない。

「あとはね、死ぬまでに1度でいいからテレビドラマが作りたいんです。ああ、でもこれは無理かしら」

「若宮さんをモデルにしたドラマができたりして」

 思わず口にすると、すかさず答える。

「だったら脚本を書くとか。プログラミングも、もっと勉強したいし。とにかく、やりたいことがありすぎちゃう

 そして、真剣な面持ちでこう訴えた。

「計算するとね、120歳くらいまで生きないと時間が足りないのよ!」

これまでパソコンに投資した額は少なくない。そのかわり、「1000円でおつりがくる洋服しか買わないから」と笑う。近所の人にも「若宮さんの時代が来たのよ」と、よく声をかけられる 撮影/渡邉智裕

◎取材・文/萩原絹代

はぎわら・きぬよ 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。’90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。’95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。