吉本せいさん 社会貢献が認められ1928年には紺綬褒章を授与された

 10月2日よりスタートした、NHK朝の連続テレビ小説『わろてんか』。葵わかな演じるヒロイン・藤岡てんのモデルが、吉本興業の創業者である吉本せい。

「せいはお笑いでなくても、ほかの仕事でも何でもできる人だったと思います」

 そう話すのは、『吉本興業の正体』(草思社)の著者である作家の増田晶文氏だ。

 “笑いの女王”と呼ばれたせいだが、私生活は決して“笑い”だけではなかった。その波瀾万丈の生涯を知れば、きっとドラマを何倍も面白く見られるはず─。

(1)夫の放蕩ざんまいの末に

 大日本帝国憲法が公布された1889年(明治22年)に、せいは兵庫県明石市で林家の三女として生まれる。綿や麻などを扱う太物商だった両親は、彼女が生まれてすぐに大阪の天神橋筋に引っ越し、米穀商を始めた。

 10歳になったせいは、行儀見習いで米穀仲介業の名門商家に奉公に上がる。ここは倹約家で知られ、食事をあまり進ませないよう、奉公人に悪臭の漂うところでご飯を食べさせたというほど。のちにせいが“倹約第一”という考えを持つのは、このころの体験が影響しているのだろう。

 17歳になると、大阪市内の本町橋詰にある荒物問屋『箸吉』の跡取り息子・吉本吉兵衛へ嫁ぐ。ちなみに荒物とは、マッチやろうそく、たわしなど日用品を扱う店のことだ。

「吉本家に嫁入りした3年後に晴れて入籍。それと同時に吉兵衛は家督を継ぐのですが、商売に精を出すことなく道楽ざんまいだったのです。当時、大阪では“ぼんち”と呼ばれる、旦那衆が落語家などを連れて歩いたり、自らも舞台に上がったりする芸人道楽が流行しており、彼もそのひとりでした」(文芸評論家)

 店は日露戦争の影響を受け台所事情は悪化するも、夫の道楽は直らず、相変わらず芸人たちに祝儀を渡す日々。ついには、剣舞にのめりこみ商売そっちのけで地方巡業に出てしまうほどだった。

 そのため、店は破産宣告を受け、手放すことに……。

(2)姑のいじめにもめげず

 おまけに、吉本家に嫁いだせいを待っていたのは、姑ユキのいじめ。ユキは舅の後妻だったため、吉兵衛にとっては継母。息子ともうまくいってなかった。そのためか、嫁に対しては必要以上に厳しい態度で接していたという。

「例えば、厚子と呼ばれる仕事着で着ていた木綿織物を、姑の命令でせいは何枚も洗わされたのです。厚手の木綿を手洗いで洗うのは大変な重労働で、手のひらの皮がむけてしまい、たらいが血で染まってしまったそうです」(前出・文芸評論家)

 また、姑のケチぶりも有名で、倹約家に奉公していた彼女でも閉口したほど、お金に関してもうるさかった。晩年には、せいが当時のことを思い出し姑にされた仕打ちを周囲に話していたということからも、よほど嫁姑の闘いが厳しかったのだろう。

吉兵衛(左)や娘たちと過ごすせい。事業を支えた弟の正之助(右)も一緒に

(3)夫の道楽が成功のカギに

 倒産後はせいの内職などで家計を支えていたが、そんなときに吉兵衛が天満宮裏にある寄席『第二文藝館』を買うことになる。

 権利金など500円(現在で200万円ほど)かかったが、これを彼女の実家などから借金し、用立てた。

 だが、文藝館は端席と呼ばれる格下の小屋で、客の入りは悪かった。そのため、人件費を抑えるためにせいが自ら入り口に座って客の対応をし芸人の世話などもした。有名な落語家は出演料が高くて呼べないので、曲芸や剣舞などの色物を中心に興行し、徐々に客足は増えていったという。

「彼女が先頭に立ち、のどが渇いてラムネが売れるよう塩辛いものの物販に力を入れたり、暑い日は冷やし飴を店頭で売り、客を呼び込んだりしたそうです。文句も言わず、24時間全身全霊を込めて働いたのはなかなかできることではないですよ」(増田氏)

(4)吉本拡大と吉兵衛の死

 せいの営業努力により、文藝館は大繁盛。そして1913年に『吉本興行部』を設立し、次々と寄席を手に入れていく。1915年には、伝統のある一流寄席『金沢亭』を買収し、『南地花月』と名づけた。現在も続く吉本の寄席『花月』の1号店である。

 1921年には東京へ進出。翌年、『神田花月』をオープンさせるなど順調に成長した吉本だが、1924年に37歳の若さで夫の吉兵衛が他界してしまう。夫の道楽からスタートし拡大を続けてきたところで、伴侶を失ったのだ。

「吉兵衛が若死にしたときに、泣き寝入りせずに、次々と策を打っていったというのは、当時の女性としては偉いですね。立ち止まらずに前を向いていった。ちょうどそのころ『大正デモクラシー』があったことも大きいと思います。“自分たちは月ではなくて、もともと太陽なんだ”なんていう女性の意見が出てきた。そんな時代が彼女を後押ししたんでしょうね」(増田氏)

(5)跡取り息子の死で─

 夫の死後、せいのビジネスを支えたのが10歳年下の弟・林正之助だ。せいと二頭体制で会社を支えていく。

「正之助は芸人の給料を月給制にするなど待遇を改善した反面、厳しく管理した。そんな中で、せいがお母さんのような役をしていたのでしょう。芸人たちは“正之助に言ってもなにもしてくれないけれど、このおばはんに言ったら解決してくれる”みたいな。この役は彼女だからこそできた、女将さんみたいな包容力ですね」(増田氏)

 1938年には、大阪のシンボルである、通天閣を買収。事業は拡大し、“女今太閤”と呼ばれるまでに。だが、彼女に最大の不幸が訪れる。

「8人の子宝に恵まれたせいですが、長男を含む4人が成人する前に亡くなっているんです。跡取り息子として残った唯一の男子である次男・穎右を溺愛するのですが、1947年に肺結核のため24歳の若さでこの世を去ってしまうのです」(スポーツ紙記者)

 穎右は『東京ブギウギ』で知られる9歳年上の笠置シヅ子と交際。だが、せいは最後まで結婚を認めず、彼の死後すぐに、シヅ子は女の子を出産している。

 跡取り息子を失ったせいは、表舞台に姿を見せなくなったという。そして、息子の死から3年後の1950年、後を追うようにこの世を去った。

 “笑い”の陰に多くの涙を流した女傑の生涯。そこには、ドラマでは描かれることはないかもしれない、壮絶な女の一生があったのだ─。