武藤容疑者と母親が住んでいた長屋

《外へ出ないでください》

 玄関のドアの内側には、そう書かれた紙が貼ってある。

何度も「うちに帰りたい」という母

 認知症の母親・武藤節子さん(86)に向けた注意事項だったが、この半年間で警察に14回も保護されるほど、節子さんは外出していた。

 今月12日、事件が起きたその日の午後も、節子さんは外出しようとしていた。

 翌13日に逮捕されたのは息子の契約社員、武藤清孝容疑者(60)。母親の外出を止めようとしたが言うことを聞かなかったため、左下半身を数回、足蹴りにした後、左側頭部を数回、平手打ちするなどの暴行を加えた疑い。

 自宅前を通りかかった通行人が「ケンカをしている」と110番通報。同県警中村署員が駆けつけ、住宅内で倒れている節子さんを発見。緊急搬送されたが、約1時間半後に病院で死亡が確認された。

 節子さんには、外出する“理由”があった。

 隣家の80代女性が明かす。

「しっかりしているときは、普通に会話ができるのよ。“うちに帰りたい”って、何度も話していたっけね」

 この“うち”こそが、節子さんの目的地だった。

 住宅地の一角にある平屋建ての長屋で、母子は暮らしていた。

「今年6月ごろに住み始めたばかり。あいさつには来たけどね」と近隣に住む男性。

 節子さんが帰りたいという“うち”は、この長屋ではなく転居前の“うち”のこと。

 介護問題に詳しい日本ケアマネジメント学会の服部万里子理事は、

「認知症の人にとっては、転居は一大事なのです。生活環境がガラッと変わり、不安で不安でしょうがなかった。前のところに戻りたい、でも途中でわからなくなってしまう。保護されて迷惑かけて……。(半年間の保護回数が)14回というのは異常事態です」

玄関内側には《外へ出ないでください。息子さん帰るまで待ってください》と書いた紙が

 前出の隣家の女性が預かったこともあるという。

「7月か8月かな、警察官が家の前をうろうろしているわけ。話を聞くと、また外に出ちゃうかもしれない。息子さんには電話がつながらないし、交番には僕ひとりで戻らないといけないから困ったっていうの。だからお母さんを2度ほど預かったことがあるのよ」

 隣家から「鍵をよこせ!」「出ていっちゃいかん」─そんなやりとりが時折、聞こえてきたことがあったが、普段の容疑者は、

「本当に腰が低くって、おとなしくて、いい人ですよ。午後3時くらいに自転車に乗って仕事に行ってね。深夜まで仕事をしていたんじゃないかなぁ。私がお母さんを預かっていると、“本当にすみませんでした。迷惑ばかりかけて申し訳ない”って、すっごく悔しそうな顔をしてね……」

 苦労する容疑者に、どこかの施設へ入れたら? と女性が提案したこともあったが、

「うちのお袋は脚も丈夫だし、言いたいことは言うし、どこも入れてくれないんですよ、って話していてね。

 警察から電話が来れば迎えに行かなければならないし、仕事も手につかないだろうよ。ひとりで悩んで苦しかったろうに。どっちもかわいそうにね……。ただただ悲しいだけだよ

外出を止めることは不可能

 県警中村署は13日、司法解剖の結果、節子さんの死因は急性心筋梗塞(内因死)と発表した。暴力が原因ではなく内臓の不調によるものなのか。

 循環器内科医で、平成横浜病院総合健診センター長の東丸貴信医師は、

「冠動脈がそこまで狭まっていなくても、動脈硬化病変が傷や炎症で脆くなり血栓ができると心筋梗塞になります。80代の高齢者で、心臓の血管に動脈硬化病変がない人は、ほとんどいない。

 暴力を受けたショックでアドレナリン等も放出され血圧も急上昇すると、脆い動脈硬化巣が破裂して血栓ができやすくなります。日常のストレスも複合的に重なり、引き金となったということは十分に考えられます」

 事件が起きた時間は、容疑者がいつも仕事に行く時間と重なる。出がけに、外出すると言い張る母親に思わず手をあげた結果の不幸な出来事。

武藤容疑者は13日、中村警察署で逮捕された

 前出・服部理事は、

「(外出を)止めることは不可能です。その衝動を止められないのが認知症であり、病気なのです」

 と力ずくではどうにもならないと話し、こう呼びかける。

「専門医を受診して、認知症だと診断を受ければ、介護サービスを利用することができます。夜にヘルパーをお願いすることも可能です。

 今回の事件は誰にでも起こりうること。さまざまな支援団体もありますし、認知症カフェでは介護者の気持ちも理解してくれるし認知症の人も癒される。全国の自治体には地域包括支援センターという無料の相談窓口があります。ひとりで抱え込まず、必ず相談してほしい」(服部理事)

 そして転居という新たな環境への対応について続ける。

「転居前の場所が近くであれば一緒に時間をつくって行ってあげるとか、知り合いがいるから帰りたいのであれば、電話をさせるとか。少しでも新たな環境に対する不安を取り除いてあげることが大切です」

 前出の隣家の女性は、

「(容疑者の)お兄さんも遠方にいるみたいだし、本人は口数も少ないし、誰にも相談できなかったんだろうね。どこか預けるところでもあればよかったんだろうけど……」

 と寂しげにポツリ。そして、

「2人乗りはだめだけど、自転車にお母さんを乗せて一緒に買い物に行ったり、“お袋、風呂入れよ”って気遣う声が聞こえたりね。やさしい一面もあったんだよ。暴力はいけないけど、こうなって息子さんもびっくりしたと思うよ」

 武藤容疑者は14日に送検された。母親の野辺送りもできぬまま、冬の留置所で今、何を思うのだろうか。