逮捕された平尾龍磨容疑者(写真/共同通信社)

「向島のいいところはなんといっても静かなところ。気候も温暖で台風などの自然災害もあまりないので住みやすい」

 広島・向島のケーキ店「まるひ商店」店主の平岡里英さん(54)は目を細めた。

 向島は瀬戸内海に浮かぶ広島県尾道市の離島。古くから造船業とかんきつ類や果樹の栽培が営まれてきた。最近では島を通る瀬戸内しまなみ海道がサイクリングスポットとしても人気で多くのサイクリストたちが島を訪れる。

 連休で島の観光スポット・高見山を訪れた在日中国人の専門学校講師・王莉さん(37)は「向島は自然がきれいで大好き。日本に遊びに来た両親を連れてこられてよかった」と景色を楽しんでいた。

 のどかな島に激震が走ったのは4月8日のこと。

容疑者からの直筆メッセージ

 窃盗の罪で服役中だった平尾龍磨容疑者(27)が愛媛県今治市にある松山刑務所大井造船作業場から脱走し、向島に潜伏した。翌9日、島北部で盗難被害が相次いだ。

 坪田唱妙さん(88)は無施錠の車内にあった財布から約9000円を抜かれ、ドライブのお供とする落花生入りせんべいも盗られた。

「事件後はショックから十分に睡眠をとれなくなり、趣味の三味線からも手が遠のいた。しかし、逮捕のニュースを聞いてようやく弾く気分になれた」(坪田さん)

盗まれた携帯を手に事件を語る山下さん(右)と妻・由里子さん

 坪田さん宅から約1キロ離れた山下幸男さん(76)宅も被害に遭った。携帯電話やノートとペン、車のカギを盗まれ、隣接する息子宅でも車のカギと嫁の財布から7000円が抜き取られていた。

「ノートに“車をお借りします。一切傷つけません”ときれいな字で書いてありましたが、車は残されていました」

 平尾容疑者は山下さんにメッセージを残していた。

「(家の)カギをかけんかったのもいけなかったし、人様に迷惑かけてしまったので取材に応じるようになると次々にマスコミが来て大変でした。ようやく大好きな芋焼酎を安心して飲めます。孫からカギのかけ方を教わったので、これからはうちらも気をつけにゃいけんね」(山下さん)

 先月30日に広島市内で平尾容疑者は逮捕されたものの、話を聞くと、浮かない表情の島民が目立つ。

 2児の母親である会社員の女性(32)は、

「まだなんとなく心配で洗濯物も外には干せないし、戸締まりも徹底しています」

 と子どもたちの顔を見た。

向島で容疑者が潜伏していた民家

 容疑者が潜伏していた民家近くに住む72歳の女性は、

「今でも夜、外で物音がするとビクッと緊張します」

 と話し、酒店で働く女性も、

「向島ならば警戒されずに家に忍び込めると思う人が出てくるんじゃないかと怖い」

 と震える声で答えた。

 事件前は「施錠をしない人も少なくなかった」とされるが、多くの島民にとって施錠は「習慣」になったという。中には新聞を取りに行くときも玄関にカギをかける女性も。

 島の西側にある飲食店で、60代の女性客が言う。

「知人の70代男性は奥さんを亡くしひとり暮らし。見回りの警官と挨拶や会話をするうちに仲よくなったそうです。“引き揚げちゃって寂しいのう”ってこぼしていましたよ」

 広島・愛媛の両県警は延べ1万5000人以上の捜査員を動員、栄養ドリンクの差し入れをする島民もいたという。

 逃亡劇でクローズアップされたのが空き家の多さだ。島には現在、1089軒の空き家があり、捜索では所有者の許可なく敷地に立ち入れないことがネックになった。

「空き家が多いのは知っていたけど、1000軒以上あると聞いて驚いた」

 と30代の男性。

「昔からの住民はどこの家が空いてるかは知っていたし、危ないと思ったこともありませんでしたよ」(65歳の女性)

 と島民には温度差がある。

 空き家は全国的にも社会問題となっており、非行少年や浮浪者が入り込むリスクがある。過去に島の空き家で不審火が出たこともあり、防犯対策は欠かせない。

 島民はこの先、空き家をどうしたいと考えているのか。

「空き家の見回り方法や地域の人が持ち主と連絡がとれる仕組みを作る必要がある」と話す男性がいれば、「高齢化で人もいないのに見回りの余裕はありません」と話す女性も。意見はさまざまだった。

「知名度が維持できれば」

 前出・平岡さんは祖母宅だった民家を利用してケーキ店を始めた。島外から空き家に移住した人もいるらしい。

「トイレが和式で汲み取り式だったり、道が狭く車も入れずにリフォームもできない空き家もある。わざわざ借りる人はほとんどいないんじゃないですかね」(40代の男性)

 尾道市は、空き家の新たな持ち主や借り手を見つけるためのマッチングサービスを実施している。リフォームや撤去には補助金を出す。

高見山の展望台からの景色。瀬戸内海の島々のほか天気がいいと四国まで見えることも

 連休後半の5月3日、晴天の向島。島のあちこちを走るサイクリング客、公園でボールを追いかける子どもたち、海釣りを楽しむ男性と、島はかつての姿を取り戻しつつあった。しかし平尾容疑者が潜伏していた島をひと目見ようと訪れる観光客もチラホラ。

 農業を営む木梨幸生さん(61)は「静かな島が騒がしくなってしまった。そっとしておいてほしい」と訴え、飲食店店主の女性(65)は「人の噂も七十五日。しばらくすればみんな忘れる」と苦笑い。

 尾道しまなみ商工会の担当者はひそかな期待を明かす。

「悪いことで有名になってしまったが、島には景観地やパワースポットの岩屋荒神社や映画のロケ地になった場所など見どころもある。観光客のキャンセルなど事件で受けた経済的な損失もあるが長い目で知名度が維持できれば」

 65歳の男性は、

「えらい迷惑な事件だった。刑期を終えたらまじめに働いてお金を貯め、島まで来て島民に謝ってほしいくらいだよ」

 と話した。

 いまや多くの国民が知るところとなった向島。緊迫した日々から解放され、のんびりとした時間が少しずつ流れ始めたように感じた。