柴谷さんは同性カップルの永代供養や仏前結婚式などを行う「性善寺」をつくりたいと話す

 高野山の総本山金剛峯寺。尼僧の柴谷宗叔(しばたにそうしゅく)さん(63)は、フランスや韓国からの団体観光客を前に「高野山の標高は約860メートルで、気温は麓より8~10度ほど低いんです」と切り出し、真言宗の歴史や弘法大師(空海)についてわかりやすく紹介した。講話では少し自分史を語った。

「私は会社員でした。在家からこの世界に入りました」

 さらに阪神・淡路大震災が人生を変えたことを語ったが、長く苦しんだ事実については語らなかった。

「外国人のお客さんだと通訳さんのためにゆっくり区切りますが、せわしい日本人の団体が交じるとそうもいかず、難しいんですよ」と笑う柴谷さんはかつて男性だった。

父親には「男らしくしろ」と殴られ……

 1954年に大阪府の寝屋川市に生まれた。

「男として育てられましたが、小学生のころから野球やサッカーなどに興味が持てなかった。といって女の子たちも遊んでくれない。友達ができないから帰宅して本ばかり読んでいたので成績はよかった」

 あるとき、母親の洋服やスカートをこっそり着たら激しく怒られた。

「父親は今で言うならDV。“男の子らしくしろ”としょっちゅう殴られました」

 当時は性同一性障害の概念もなく、母親も全く理解してくれなかった。

「モロッコで性転換(性別適合)手術を受けた美しいカルーセル麻紀さんのようになりたくて、当時、日本では違法だった性転換手術について『週刊女性』が特集した記事をむさぼり読みました」

 中学生になると、詰め襟の制服がつらかった。

「高校までは気持ちを抑えつけた。といって男の子を好きになる恋愛感情もなかった」

 親から離れたくて早稲田大学第一文学部に進学した。東京での生活が始まった。

「女装クラブやゲイバーに通い、同じ悩みを持つ人間がいることで少し楽になった。そういう場でアルバイトもしたけれど、結局、女っぽい男が好きという感じの人たちが多く、違和感を感じていました」

 卒業後はマスコミへ。読売新聞社の記者になった。

「岡山、神戸の支局時代は服装も自由でしたが、大阪本社の経済部では財界幹部にも会うため背広にネクタイ。長い髪も切るように上司に言われました」

 うすうす秘密を察している同僚もいたが、クビになることを恐れ告白できなかった。あるとき、労働組合の旅行で西国巡礼の一番・青岸渡寺(和歌山県)を訪ねてから「お遍路さん」にはまる。

「宗教心もなく納経帳に判を押してもらうスタンプラリー。ドライブが好きで四国八十八箇所巡りも重ねました」

 やがて観光客を案内する「先達」ができるようになった。

阪神・淡路大震災が転機に

 1995年1月17日早朝、寝屋川市の実家で激震に飛び起きた。阪神・淡路大震災。自宅は神戸市東灘区に借りた古いアパート。ニュースの仕事で会社に泊まり込み状態になり、何日も帰宅できなかった。電気が復旧するというので火事を心配して駆けつけたら、自宅はぺしゃんこだった。

男性僧侶だったころ。神戸から片道3時間かけて大学に通い直し、新聞記者から仏の道へ

「あんた、どこにもおらんから行方不明者になっとったよ」と近所の女性が泣いてくれた。東灘区役所に慌てて取り消しにいき「柴谷は生きてます」と札を立てた。3か月後に再訪すると瓦礫からボロボロの納経帳が。

「全身に電気が走る衝撃でした。横では阪神高速道路が倒れ、地域でも大勢が死んだ。自宅にいたら間違いなく死んでいた。納経帳が身代わりになってお大師様が守ってくれたんや、と思ったのです」

 そのときから「自分に正直に生きたい」の思いが強まる。お遍路仲間のすすめで高野山大学の社会人コースに通うが記者生活との両立は難しく、51歳のときに退社した。「四度加行」という厳しい修行にも耐え'05年に僧籍を取った。

 性別適合手術は1998年に解禁され、埼玉大学、岡山大学が先行した。岡山大でホルモン治療を続けた後、手術を受けて56歳で男と訣別した。

「うれしかったのは旅館で女風呂に入れることでした」

 父親はすでに亡くなっていたが、母親からは「親不孝者」となじられた。現在は高野山で買った古い家で暮らす。

 尼僧になるには僧籍簿の性別変更が必要だ。真言宗では前代未聞だったが告白すると宗務総長は「宗門会議にかけるとややこしくなる」とうまく取り計らってくれた。成績が優秀だったため「残念や」と惜しまれた。

 高野山大学大学院で博士号まで取り四国遍路に関する研究書や入門書も著わし、現在、園田学園女子大学(尼崎市)でも講義を持つ。優秀な柴谷さんも女性になると活躍の場は狭まるのだ。高野山は男尊女卑が強く明治時代まで女人禁制だった。

「今も尼僧は住職など要職に就けず、重要な行事に尼僧はほぼ参加できません」

性的少数者の“駆け込み寺”を

穏やかな語り口。講話には外国人観光客の姿も

 今、柴谷さんは苦しんだ経験を生かして同じような性的少数者が集まれる“駆け込み寺”をつくろうとしている。すでに寝屋川市の実家の大きな倉庫を改装して「性善寺」とすることに決めた。柱は2つ。悩み相談と永代供養だ。

「抽象的だと人は集まりようがない。形が必要です」

 改装費用は約1400万円かかる。寄付などで400万円ほど集まったが全く足りない。「取材で回っていた財界の人たちはほとんど入れ替わってしまったし」と苦慮する。

「基本的に同性愛者は子どもができないから供養してくれる人がいない。年齢が高くなるとこの悩みが出てくるんです。お墓をつくるスペースはありませんけれど、ここでお骨を預かり永代供養ができれば、その収入で運営したい」

 性的少数者が活躍できる場は限定されている。

「まだまだゲテモノ扱いする人たちも多い。偏見に苦しむ人たちが気楽に話せる場にしたい。大新聞社の1000万円以上の年収を捨てて貧乏な尼さんになったけど、自分らしく生きるにはよかった」

 取材日に「めったに着ない」という晴れ着姿だった柴谷宗叔さんは「大阪のおばちゃん」の笑顔を見せた。

(取材・文 ジャーナリスト・粟野仁雄)


柴谷さんの連絡先はsibatani@mva.biglobe.ne.jp