「まさか大地震がくるなんて。まさか私が被災するなんて。被災した方はみなさん必ず“まさか”と言います。そのときは必ずやって来る。地震の瞬間、きっと子どものいちばん近くにいるのはママ。ママであるあなたの準備と行動に、小さないのちがかかっている」

 7月30日、福岡市郊外のショッピングモールで行われた「防災ママカフェ@ふくおか」には、80人を超える母子が参加していた。全国で主にママや子どもたちを対象に防災ワークショップを行う、かもんまゆさん(49)の声は、ママの胸に直球で届く。

「防災ママカフェ(R)」主催・かもんまゆさん 

 講演会が始まると、すぐに7年前の東日本大震災の映像が流された。緊急地震速報が鳴り響いた数秒後、大きく波打ち揺れる地面、家具は倒れ、ものが落ちて足の踏み場もなくなる。バキバキと音を立てて街をのみ込む津波、あっという間に津波にのまれる車、言葉にならない叫び声。

 会場は水を打ったようになり、緊迫した空気が流れる。赤ちゃんや小さな子どもを連れてにこやかに集まったママたちの表情は、みるみるうちに変わっていく。子どもに見せまいと抱きかかえ、後ろを向かせるママも数人いた。

「本当の地震がきたとき、私たちは子どもの目をふさぐことはできません。大地震は誰にでも平等にやってくる。小さい子どもにも容赦はない。でも、ママが備えていれば、守れるいのちがあります」

 そう言った後、こんな質問を投げかけた。

「みなさん、子どもを守りたい! と言うけれど、何が起きるかも知らない、何も備えていない。それでどうやって敵と闘いますか」

 ママたちはいつの間にか、ひと言も聞き漏らすまいとペンを走らせるようになる。映し出される写真や言葉をスマホで撮影する人もいる。目は真剣に輝きはじめる。

防災ママカフェ(R)に参加するママと子どもたち 

 参加者は防災意識の高いママばかりではない。友達に誘われて来た人、買い物ついでに気軽に参加した人もいる。月曜日の午前中にもかかわらず席はびっしりと埋まり、2時間もの間、会場は熱気に包まれていた。

「防災ママカフェ」は2014年8月からスタート。1年目は22回、2年目は52回と倍増し、その後も開催回数は増加し続けている。これまでに194か所、12300人を動員(8月28日現在)した。

 あえて宣伝をしたことはない。口コミで広がり、自分が住む地域でも開催してほしいと全国から声がかかる。「ほかのママたちに聞いてほしい」と有志で行う場合もあれば、ママたちが市役所の防災課に持ち込み、行政主催で開催されることも。

「私の役目はママたちの心に火をつけること。知ることは力になるし、それがまたほかの人に伝える力にもなる。でも、それは当然のことなんです。だって彼女たちは“モチベーション”を抱っこしながら話を聞いているんですよ」

 かもんさんの言う“モチベーション”とは、わが子のことだ。「この子のいのちを守りたい」という強い思いがすべての原動力になる。

 一般的に、各地で開催されている防災セミナーや防災訓練などへの子育て世代の参加は少ない。防災に関心の高い人、地域の高齢者が中心となるのが現状だ。

 東京大学生産技術研究所・地域安全システム学准教授の加藤孝明さんは、防災ママカフェに参加し、かもんさんのアプローチに大きな可能性を感じている。

「誰にでもわかりやすい言葉で防災に必要な情報をしっかり伝えながら、被災した方のリアルな声を拾い、参加者の心をつかんでいます。私は葛飾区で防災まちづくりに取り組んでいますが、子育て中のママへのアプローチは非常に難しい。防災の専門家も行政も、かもんさんの活動から学ぶべきところがある」

 加藤さんの関わる葛飾区新小岩北地区の取り組みは地域をつなげる先駆的なもので、消防庁主催の「第18回防災まちづくり大賞」総務大臣賞を受賞したほど。それでも子育て世代の参加は難しい。

 防災へのモチベーションをどう広げ、高めていくかという課題に頭を抱える自治体も多い中、なぜママたちをこんなにも惹きつけることができるのだろうか。

被災したママの声に突き動かされ

 かもんさんは現在、東日本大震災からの教訓を活(い)かし、社会に役立つ仕組みを広める一般社団法人スマートサバイバープロジェクトに所属。東日本大震災・熊本地震で被災した約400人のママたちから聞き取った被災体験をもとに、防災ブック『その時ママがすることは?』を作成している。

 被災したママたちの知恵や教訓、「もう、ほかのママたちにこんな思いをしてほしくない」という願いを伝えるため、防災ママカフェを始めたという。

防災ママカフェはいつも最前列から埋まり、目の色を変えたママたちは真剣にメモを取る 

防災でいちばん大切なのは防災リュックを作ることではありません。まずは、自分と大事な人のいのちを守ること。そのために何ができるかを自分の頭で考えることです。それには、被災したママたちの声をリアルに伝えることが最強だと思っています。どんなに偉い人に“ちゃんと備蓄しなさい”“防災訓練に参加しなさい”“リュックにこれを入れなさい”と上から言われても、子育て中のママには届かない」(かもんさん)

 かもんさん自身は千葉県船橋市在住。地震の経験はあっても、被災したことはない。防災ママカフェに、なぜそんなにも力を入れるのか。

 マーケティングやコミュニケーションデザインの仕事をしていたかもんさんは、東日本大震災の被災地のママと子どもたちへの物資支援に関わった。そのとき、被災したママたちが切迫した状況を話してくれた。

「保育園に急いで迎えに行きました。本来くるはずの緊急連絡メールも来なかった」(宮城県東松島市・葵ママ)

「よつんばいになっても前に進めず、子どもがいるベビーベッドまでなかなかたどり着けなかった。防災無線は全く聞こえなかった」(宮城県石巻市・美穂ママ)

「ミルクがほとんどなかったけど明日特売だから明日でいいやと思っていた。そうしたら、その日に地震がきた。そのミルクを水で薄めて飲ませることしかできなかった」(宮城県石巻市・匿名ママ)

 大地震がきたときのことを「自分ごと」として想像するのは難しい。しかし、同じぐらいの子を持つママがどう過ごしたかを知れば、せめて「他人事ではない」と感じることができる。

「なぜこの人は助かって、あの人は亡くなってしまったのか。地震がくる、津波がくると知っていれば助かったいのちがあるはずなんです。そして、いつ逃げるか。その判断が岐路になる。私が伝えることで助かるママや赤ちゃんが1人でも増えるかもしれない。そう思うと、伝えずにはいられないんです」

 かもんさんの中で熱い思いが動き出した。

 ワークショップではこのような実際の声を紹介しながら、ママたちに問いかけていく。

「子どもは非常時だろうが、まずけりゃ非常食を食べない」

「家具が倒れて自分や子どもがタンスの下敷きに。そんな光景を見たくないなら、今すぐ家具を留めるほうが簡単!」

「自分や大切な人のいのちを人任せにしない。今できるのに後回しにしないで」

 かもんさんは防災専門用語を極力使わない。最長で2時間半、そのときに与えられた時間の中で最大限のことを伝えるため、ノンストップでテンポよく話し続ける。

 ママたちのリアルな声に加え、地震の仕組み、プレートの動き、その土地の成り立ち、想定される災害、今できる準備、そして、最後に防災リュックと備蓄の話──。必要なことはすべて網羅する。

 難しい内容でも「ママ語」でわかりやすく伝えるスタイルはママ界の池上彰、軽妙な語り口は綾小路きみまろといえそうだ。参加者の気持ちを的確にとらえ、その場その場で次に展開する質問をストライクゾーンに投げかける。

「話し方を特に訓練したことはないんです。関係ないかもしれないけど、私の父の3代前は旅芸人だった。父方の親族は、新聞記者、指揮者、フランス文学者、振付師もいて、“人と違う”“人に魅せる”が評価のポイントでした」

 幼少期、親族が集まるとステージが用意されたと笑う。

「子どもたちは必ず一芸を披露する。木枯し紋次郎、ジュリー、ピンク・レディーなど、メイクや仮装をし、歌や踊り、語りで大人を唸(うな)らせないといけない。ダメだと“こうやるんだ!”と大人にマイク取られちゃいますから。飽きさせずに防災の話ができるのも、そこからきているのかも(笑)」

2歳のかもんさん。本格的な「木枯し紋次郎」の仮装でポーズ

「興味がない人にしっかりと伝える技術」はこれまでの仕事で培った。大学卒業後、大手企業の販売促進部に配属され、10年を過ごした。

「仕事は他社から依頼のマーケティングやコンサルティング。当時は女性が少なく、重宝されました。そのとき、おじさんたちの女性のとらえ方に愕然(がくぜん)としたんです」

 例えば、女性をターゲットにした新車の宣伝販促。年配の男性たちは、「女性といえばピンクの花柄だろう?」という安易な考え。しかし、若い女性に意見を聞くと「自分らしい色やデザイン」「乗ったときにおしゃれに見えるか」などのニーズが浮かび上がる。リサーチして生の声を提示すれば、おじさんの偏ったイメージも覆すことができた。

「混沌(こんとん)とした意見の中から、共通するカケラを見つけて磨くと、新しいコンセプトができる。それをどう伝えるか。防災教育もリアルな声と伝え方が重要です。でも、今までの防災講座は相手がママでもおじいちゃんでも、同じことを同じ口調で話す。それでは伝わるものも伝わらない。どうすれば相手が身を乗り出して聞いてくれるかを考えれば、きちんと伝わる。これまでの経験がすべて今の活動に生きていると思います

忘れられない「小さないのち」

 今ではパワフルに全国を駆け回り、信念を持って防災について伝え続けているかもんさんだが、プライベートでは何度も大きな荒波があった。

 27歳で結婚した後も仕事を全力で続けていたが、31歳で1人目を出産。育休が終わるころ、自ら仕事を辞めた。

結婚式の1枚。夫の祐介さんは高校時代の同級生

「初めての子育ては本当に新鮮で、わが子と離れたくなかった。物が売れるとか売れないとか、どうでもよくなってしまった」

 自分でそう決断したものの、仕事を辞めてからの毎日は育休中とは全く違う。気がつけばママ友もおらず、1日中、誰とも話さない。子育てひろばに出かけても、ママたちはすでに友達同士。結局、誰とも話すことなく、泣きながら帰ったこともある。

 見るに見かねた夫の裕介さんが働くことをすすめ、マーケティングの会社に再就職。「ママだからこそできることがある」と言われ、光が差した。

 仕事を再開して1年、2人目を妊娠した。妊娠の経過は順調だった。裕介さんはすべての妊婦検診に立ち会ったが、忘れられない検診がある。

「エコーを見ているとき、先生の手がパッと止まって首を傾(かし)げた。スッとその先生が出て行って、代わりに院長が出てきたんです。これは相当悪いと思いました。ひととおり診てから、別室に2人で呼ばれました」

 裕介さんは細かくそのときの会話を覚えている。

「原因不明の難病でした。専門の大学病院で、出産と同時に緊急手術をしても助かる確率は15%以下。本当に難しい手術になると言われました」

 突然降りかかった答えの出ない大問題に、夫婦の心は揺れに揺れた。2人は何度も訪れた思い出の地、沖縄でひとつの決断に至る。

 2002年6月25日、生まれた日が命日になった。家族を結ぶ子にと思いを込めて「結里」と名づけた。母子手帳はあるが戸籍はない。

「その場で2人で抱っこしました。小さな小さな赤ちゃんだったけど、ちゃんと重かった。僕ら2人だけで火葬場に行きました。今でもお骨はお墓に入れず、子ども部屋にあります。毎年、命日には必ず抱っこしています」

結里さんのお骨は今も子ども部屋にある。「東北で子どもを亡くしたママを聞いて、火葬場でわが子を送ったあの日を思うことも」(かもんさん) 

 裕介さんは、そのことが今のかもんさんの活動に影響を与えていると考えているが、かもんさんは、裕介さんほど詳細には当時を語らない。

「本当のところはわからないけれど、僕は、彼女が“救えるいのちを救わなければダメだ”と強く訴えるのは、この子の存在が大きいんじゃないかと思っています」

 かもんさんは、当時をこう振り返る。

妊娠したらみんな元気に生まれてくると思っていたんです。だけど、こうしたら絶対こうなるなんてことはないと思い知らされた。外を歩くと、妊婦も赤ちゃんもいる。しばらく家から出られなくなった。無心になりたくて家中を掃除して、夜は子どもを亡くしたママのサイトばかり見ていました」

 そのサイトのママたちの言葉に力をもらい、かもんさんは仕事にも復帰。少しずつ動き出すようになった。

ギャルママとの出会いで一念発起

 再びエンジンをかけたのは、仕事でのある新しい出会いだった。

「25歳以下で第1子を産んだママのサークル『ママサー』が全国にあって、彼女たちは各地で何百人、何千人の若いママたちを束ねていた。つけまつげに金髪、大変な思いをしても肝がすわっていて子どもを心から愛している。私が育児でジタバタしたり、つらい思いを抱えていたのが吹き飛ばされる衝撃がありました」

 いわゆる“ギャルママ”と呼ばれる彼女たちと組んで各地でイベントを企画し、企業とコラボレーションして新商品を開発する中で、ふっとこぼれる彼女たちの言葉にも大きな力をもらった。

「楽しくないこととか、無理はしない。だって続かないもん」「ママだからこそできることってあるよね」

 そのとおりだと思った。自分に向けて言われているような気がした。再び仕事は波に乗り、結里さんの後、2人の子どもにも恵まれた。

 そんな中、日本中を揺るがす突然の出来事があった。2011年3月11日、東日本大震災──。

「私はそのときまで、防災なんて全く頭にありませんでした。でも、このとき全国の若いママたちが、東北のママを心配して支援物資を送り始めたんです。それに引っ張られるように活動を支えました」

 10か月にわたる物資支援は段ボールで950箱分に及んだ。「自分、何ができるかって思って」「微力は無力じゃない」そう言って集まったギャルママたちとともに、12月には石巻でママイベントを開催。大型遊具ブースのほか、関東のママたちが運営するメイクやヘアアレンジ、化粧品などの支援物資を自分で楽しく選んでもらえるブースを展開した。当日会場でアンケートを取り、「あの日」のことについてママの体験談を集めた。その言葉は想像を絶するものだった。

「被災したママが“支援されるだけでは心苦しい。この体験を伝えてもらえれば、うちらは反対に支援者になれるね”と言ったんです。この言葉にハッとして、しっかり形にしなければと思いました」

支援物資を梱包したママたち。「頑張ってって言わなくても、もう頑張ってるよね」(ギャルママ)と、ニコちゃんマークや自己紹介をメモに書いて同封した

 その後、かもんさんは若いママたちを支援する団体を立ち上げ、活動に専念していく。

 しかし多忙のあまり、夫との関係がぎくしゃくし始める。

「夫が自営業でお互いに実家も近く、甘えていました。出張もできるだけ日帰りでしたが、3人も子どもがいると1日あければ家の中はぐちゃぐちゃ。ママたちの力になりたい、今こそやらなければと使命感に燃えていたんです」

 一方、夫の裕介さんは一定の理解をしつつも、家族として続けていくのは無理かもしれないと追い込まれていた。

「結婚前から仕事人間だということは理解していたし、仕事もできる人だと思って応援していました。でも、それを差し引いても、何かお互いに大事にしているものが違うんじゃないかと思うようになって。僕は、家族を真ん中においてほしかった。子どもが呼んでるのにパソコンから目を離さない妻に呆(あき)れ、離婚届を渡したこともありました

 全く口をきかず、子どもを通してしか話さない時期さえあった。ギリギリのところで家族を続けていた。

 そんな最中、2015年にかもんさんのお父さんに食道がんが見つかった。手術は難しくリスクも高い。ショックから妄想、妄言、不穏の症状も出ていた。かもんさんは、なんとか元気になってほしい一心で、言葉をかけ続けた。

「お父さん、どうしちゃったの。しっかりして!」「手術をすれば治るんだから闘おう!」

 何時間も説得を続けたこともあったが、お父さんは黙って下を向くだけ。裕介さんは静かにそれを見守り、帰りの車でようやく口を開いた。

あんなにお義父さんが決められないんだから、手術しなくていいんじゃないかな」

 家族は手術をあきらめ、その後、陽子線治療のため、片道2時間の道のりを30日間、裕介さんが毎日、送迎した。

父はその年に72歳で亡くなりましたが、父の気持ちをいちばんに考えていたのは夫だったと気づきました。私は目の前の壁しか見えず、ただあたふたしていた。そのとき、仕事のことも私を心配して忠告してくれていたんだとハッとして。夫にはきちんと謝り、ありがとうと伝えました。あのとき心から素直になれた。だから今があると思っています」(かもんさん)

 夫婦の間にあった大きな塊が少しずつ解けはじめていた。

震災5日後、夫婦で熊本へ

 2016年4月14日、16日、熊本地震が発生した。警戒されていた南海トラフではなく、九州での震度7──。

 ニュースを見ていた裕介さんは声をあげた。

「熊本、行かなくていいのかよ。こんなところでビール飲んでる場合じゃないだろう」

 今まで仕事にあまりいい顔をしなかった夫の思いがけない後押しで、発災から5日後に福岡から物資支援の車で熊本に入り、初めて被災地の現状を自分の目で確かめることができた。

 震災後間もない被災地に向かうのは夫婦ともに初めてだった。現地では、フェイスブックでつながった熊本の料理研究家、相藤春陽さんと連絡をとり、支援を手伝った。

「私も被災して家が半壊し、車中泊が続く被災者でしたが、アレルギーの赤ちゃんのために離乳食を作って支援していました。今思えば、自分が被災した現実から目をそらしたかったのかもしれない。かもんさん夫婦とは初めて会うのに長年の友達のように仲よくなって、おふたりの夫婦(めおと)漫才のような楽しいやりとりにたくさんの元気をもらいました」(相藤さん)

 それ以来、夫婦一緒に熊本をよく訪れる。裕介さんはその後、防災士の資格を取得。本業の内装の知識を生かした防災教育に協力する企画を考えている。小5の末娘(11)は防災ママカフェを手伝う中で、しっかり防災の知識を身につけ、かもんさんと一緒にステージに立つこともある。今、夫婦としても、家族としても、同じ方向を見て一歩一歩進んでいる手応えを感じている。

今では、地方で行う防災ママカフェに夫の裕介さんも同行し、車で送迎をすることも 

 今年の7月末には、裕介さんが運転手となり、九州3か所での防災ママカフェツアーを行った。7月28日は相藤さんの主催するハルラボという食のスペースで、防災食の実食も含めて少人数でゆったりと防災について考えた。29日、島原青年会議所が主催する島原半島の3市合同の防災イベント「みんなで一緒に学BOSAI」では、防災ママカフェに100人近い人たちが参加した。

 最終日は冒頭に紹介した福岡だ。かもんさんはどんな場所でも同じ熱量でママたちに問いかける。

「私も伝えるママになりたい!」

 そして2年前から、防災先進都市を標榜(ひょうぼう)する福岡市で全国に先駆けた新たな取り組みを始めている。かもんさんが中心となって福岡市や市長に提案した「備災のまちづくり@福岡プロジェクト」が採用され、福岡市共催の防災ママカフェを市内全7区で開催、700人のママが参加したのだ。その後、参加ママから「私も伝えるママになりたい」と声が上がり、講師講習プログラムを考案。地域のママや子どもたちに防災教育をする「備災ママスターズ福岡」を発足させた。現在市内の公民館などで、地域の実情に即した、きめ細かいママ向け備災講習や相談会を行っている。

 福岡で中心となる山口紫織さん(31)は、東日本大震災の後の物資支援でも活動をともにした元ギャルママで、5年前から防災ママカフェ福岡を主催してくれている仲間。現在、7人目の子どもを妊娠中で、子どもたちも一緒に参加し、備災ママスターズの活動を続けている。

「かもんさんと会ったとき、私は九州のギャルサーをまとめてた。なんか通じるものがあって、考え方とかすごく合うなと思った。いつも2人で“自分たちができることやろうよ。やらないで後悔したくないよね”って言ってます。

 防災ママカフェって、かもんさんが死んじゃったらできなくなっちゃうから(笑)、私たちが頑張らないと」

「備災ママスターズ福岡」のみなさん(後列右端が山口さん)。9月1日に福岡市舞鶴公園西広場で行われる「防災キャンプ2018」にかもんさんとともに出演 

 福岡市の高島宗一郎市長も、かもんさんの活動に大きな期待を寄せている。

「かもんさんが伝えてくださる“子どもを抱える方たちのリアルな声”は、実にこまやかで、震災から得た教訓を伝えてくださるのは本当に大切なことだと思います。子どもたちにも、地震は怖いからと隠すのではなく、絵本を読んで地震がどんなものか伝えておくことで、親も子どもも落ち着いて行動できるというお話も貴重なものです。今、災害は“忘れたころにやってくる”ではなく、“忘れる前にやってくる”ほど頻繁に起こっています。弱者を力強く立ち上がらせる力が、かもんさんにはある。福岡市にとどまらず、市民と行政が両輪となって防災減災に取り組む架け橋になっていただくことを期待しています」

 かもんさんは、講演会の最後をこう締めくくった。

「“緊急地震速報は、自分を守る、子どもを守る行動を開始するゴング”。これは夫が私に言った言葉です。これから私が子どものいのちを守り抜くと覚悟を決め、リングに上がる合図なのです」

 防災ママカフェに参加したママたちからはこんな感想が聞こえてきた。

「怖がっているばかりじゃダメ。子どもを守れるのは私。たくさんの気づきをもらった」(30代ママ、子ども3歳)

「備災はママの愛情。家族の笑顔がずっと続いていくように、今できることをします」(20代ママ 子ども0歳)

 いつくるかわからないゴングが鳴り響く日に備え、ママたちは動きはじめている。大阪ではママたちが行政を動かし、自主防災組織を立ち上げた。各地で同様の動きが始まっている。

知は力です。知ることで未来は変えられる。何も知らずに亡くなったママや子どもたちのためにも、私たちは絶対に同じことを繰り返してはいけない。今目指すのは、『地震の国、日本』で出産するすべてのママの受講。まずは南海トラフ危険地域のママ全員に、私がお金を集めてでも開催したい。これからも全国のママたちと一緒に活動を続けていきたいと思っています」

(取材・文/太田美由紀 撮影/伊藤和幸)