白波が立つ夕暮れの海を吹き始めた南風に乗って、ヨットが滑るように疾る。

 風薫る5月。

 湘南ビーチFMから流れるハワイアンのメロディーに誘われ、厚い木の扉を押すと、デッキにしつらえたブロック積みの炉の中ではサザエやアワビの焼ける匂いがする。

 葉山海岸通り。森戸神社から浜伝いに森戸のデニーズの下を歩いていくと、海岸沿いにチョコレート色の可愛い小屋が見えてくる。

 そのデッキから初めて名島の赤い鳥居、江の島、そして富士山を望む景色を見たときみとはこの街を舞台にした“純愛小説”を描いてみたいと思った。

 あれから4年。いつもは筆の早いみとのもとに、物語の神様は、なかなか降りてきてはくれなかった。

 初めて味わうスランプ。森戸神社に抜ける海沿いの岩の道に腰かけ何度、夕陽を見たことか。難産の末に生まれ落ちた作品だけに愛(いと)おしかった。

 夕焼けは、陽が沈む前よりもむしろ沈んでからのほうが美しい。陽が沈み、夕闇に富士山のシルエットが浮かび上がると、壮大な“マジックアワー”が始まる。金色から橙(だいだい)色、ラベンダーからサックスブルー、そして群青色へ。

 小説『幸福のパズル』は、高校生でデビューした小説家・倉沢みちると幼なじみでもある老舗ホテルの御曹司・蓮見優斗の葉山を舞台にしたラブストーリー。

「夜にさよならしたくない。優斗と一緒に朝の海が見たい」

 と呟(つぶや)いた、主人公みちるの言葉が不意に甦(よみがえ)った。

     

「みとちゃん、飲んでる?」

 小屋の主は、われに返ったみとのグラスにシャンパンをなみなみと注ぎ、

「おめでとう!」

 と言ってグラスを合わせた。

 集まった葉山の海の仲間たちも口々に「乾杯!」と声をあげる。小説家としてデビューして30年。喜びを分かち合う仲間たちが集まったささやかな出版記念パーティー。

 この小屋での出会いが、まるでパズルのように組み上がり、今回の作品は生まれた。

─人との出会いが私のすべて。

 江の島の灯台に灯(とも)る燈(あか)りを見て、みとはキリッと冷えたシャンパンをひと息に飲み干した。

◇  ◇  ◇

 少女漫画家、そして少女小説家として数々のヒット作を世に送り出してきた折原みと(54)は、昭和39年、霞ヶ浦と筑波山に挟まれた米どころ、今もあちこちに里山の風景が残る茨城県石岡市で生まれた。

少女漫画家、小説家の折原みとさん

 家は江戸・元禄時代から続く造り醤油(じょうゆ)屋『キッコー西』。

「広い敷地の中に造り醤油の蔵があり、醤油独特の匂いがしていたことをよく覚えています。家族総出で醤油のラベル貼りをしたことも今となっては懐かしい思い出ですね」

 300年の歴史を誇った造り醤油屋もみとが小学校に上がるころ経営難で幕を閉じた。

 しかし、その後も、

「西宮(屋号)の娘として恥ずかしくないようにしなさい」

 その言葉を、家を切り盛りする祖母・春乃はよく口にした。

「名家から嫁いできた祖母は、いつも着物を着ていましたが、とても働き者。身体が弱くお嬢様育ちの母に代わって、私を育ててくれました」

おばあちゃん子だった3歳のみと。近所のお寺にて

 婿養子に入った父・昭は、造り醤油屋をやめてからサラリーマンに転身。家事をはじめ3人の子どもたちの面倒をよく見る、今でいう“イクメン”タイプだったという。

 格式ある古い旧家に育った5歳年上の姉、3歳年上の兄は学級委員や生徒会の役員を務めるようなまじめな優等生タイプ。末っ子のみとは小学生のころから独立心の旺盛な女の子で、3人とも大のマンガ好きだった。

「姉や兄が買ってきたマンガ雑誌を読むのが楽しみでした。それだけでは読み足らず、友達の宿題を代わりにやってあげてお小遣いを稼ぎ、古本屋で漫画を買うこともありました」

 みとの小学校時代といえば池田理代子の『ベルサイユのばら』、高学年のころにはいがらしゆみこの『キャンディ・キャンディ』が子どもたちにも人気を集めていたが、みとの好みはひと味違った。吸血鬼を描いた『ポーの一族』、少年たちの愛と死を描いた『トーマの心臓』といった萩尾望都の世界がお気に入り。

「萩尾望都先生の作品は何度も読み返し、節回しや韻を踏むところなど、私自身もとても影響を受けました」

 図書館で借りて読んだ松谷みよ子『ふたりのイーダ』や長崎源之助『ゲンのいた谷』の戦争児童文学にも衝撃を受けた。

「こうした戦争児童文学作品との出会いが、後に16年間にわたって書き続けた冒険ファンタジー小説『アナトゥール星伝』にも色濃く影響を与えています。“戦争”のような重たいテーマもファンタジーのオブラートに包むことで伝えていけたらと思っています」

人気作品『アナトゥール星伝』は英語版で海外配信もされた

 

4つの夢を胸に、お金を貯めて上京

 中学生のころからマンガの同人誌に寄稿していたみとは、地元の女子校・土浦二高に進学するとアニメにも興味を抱き『アニメ外伝をつくる会』を結成。既存のアニメのアナザーストーリーを同人から募り、その物語に可愛い挿絵やイラストをちりばめた10ページから20ページの同人誌『FRAME OUT』を発行するようになる。

 活動をともにした同級生の矢野みどりさんは、

「当時の彼女は同人誌の会員募集から、印刷といった雑務まで、すべてをたったひとりでやっていました」

 と、その行動力を絶賛。中でも忘れられないみとのエピソードがいくつかある。

「’80年代初頭、始まったばかりのコミケ(コミックマーケット)に出店することが決まり、みとさんは当時人気のあった『未来少年コナン』に出てくるラナに扮して真っ赤なワンピースを着て会場に登場。注目を集め、その姿がアニメ雑誌でも取り上げられました。当時はコスプレする人がまだ少なかった時代でしたから、衝撃的でした。もちろん同人誌は完売でしたよ」

 さらに、人気のあったアニメ誌『ジ・アニメ』に自分たちの同人誌を売り込みにいき、掲載されたこともあった。

「大好きだった『未来少年コナン』を作った宮崎駿監督の会社に押しかけていったこともありました。思い立ったら突っ走る。とにかく行動的な女の子でした」

同人誌を作った高校時代

 高校3年になったみとは、芸大と多摩美大の日本画科を受験するも失敗。しかし、これくらいのことではへこたれなかった。

 1年間、茨城県庁の記者クラブでお茶汲みのアルバイトをして貯めたお金を手に、親の反対を押し切り上京する決心を固める。

このころは、漫画家以外にも絵本作家、小説家、特撮が好きだったので映画監督になる夢も見ていました。

 同人誌を一緒にやっていた大阪の女の子と東京・大泉学園にアパートを借りると、NHKの大河ドラマや朝ドラでエキストラのアルバイト。ほかにも持ち込みをした雑誌社からイラストの仕事をもらってなんとか生活していました。財布や通帳に千円ないなんてこともよくありましたね(笑)」

 お金がなくたってくじけない。19歳のみとは夢いっぱい。悩んでいる暇などなかったのである。

 そんなみとにデビューするチャンスがやってきたのは、21歳のときだった。

 1985年夏、みとは、マンガ雑誌『ASUKA』(角川書店)から16ページの恋愛もの『ベストガールになりたいの』でデビューする。

「投稿雑誌『ファンロード』に掲載されていた私のイラストを見た女性向け同性愛マンガ誌『JUNE』の編集長が、『ASUKA』を紹介してくれました。ペンネームの“折原みと”は、音の響きが好きで高校時代から使っていたものです」

 イラストを描いていた雑誌社から「今度マンガ雑誌を創刊するから描かないか」と誘われ、さらに『少女フレンド』に持ち込んでいたマンガの掲載も決まるなど、漫画家・折原みとは、たちまち売れっ子になった。

「もちろん、まだ漫画家として将来の保証は何もない。ヨチヨチ歩きのひよっこでしたが、“ダメでもともと”と楽天的でした。自分の描いたマンガが雑誌に載ったり、深夜に近くの喫茶店で編集者と打ち合わせをしたりするのがうれしくてしかたがなかったんです」

 とデビュー当時を振り返る。中目黒に引っ越したのもこのころ。当時の中目黒は、ハイソな代官山の隣にある下町っぽい感じの街。1987年、小説デビュー作となった児童小説『ときめき時代 つまさきだちの季節』(ポプラ社)を書いたのも山手通り沿いのマンションだった。

「中学生の女の子の友情と恋を描き、6冊のシリーズ本になった作品。自分自身の中学時代の思い出をもとに、夢中で物語を綴(つづ)る時間は至福の時間でした」

 少女小説の挿絵を担当したことがきっかけで、執筆にも興味を持ったみとは、持ち前の好奇心から「自分も小説を書いてみたい」と猛烈にアピールした。

「アシスタントが必要なマンガと違って小説はひとりで深く入り込める世界。魅力を感じて書いているうちに、いつの間にか二刀流になっていました」

 デビューから12年間暮らした中目黒での生活はみとにとってかけがえのない思い出。

「深夜に打ち合わせをしたアートコーヒー。徹夜明けの朝、屋上から見た朝日。西郷山公園から見た夕焼け。そして目黒川の桜並木。中目黒は私の夢が生まれた街。小説の舞台として何度も描いてきました」

デビュー後、12年間暮らした中目黒の自宅兼仕事場にて。忙しい仕事の合間に飲み歩くのも楽しみのひとつだった

 そんな中目黒での暮らしの中から、1990年、みとにとっても思い出深い“命”をテーマに書いた小説『時の輝き』が生まれる。

段ボール箱で届けられた仕事の重み

 この小説は、中学3年の秋に悪性の腫瘍(しゅよう)で亡くなったクラスメートの死がきっかけとなって生まれた。

私は中3のとき、体育館の片隅で、彼女の夢を聞いたことがありました。“童話が描きたい”と言っていたあの子の夢は、一体どこに行ってしまうのだろうと当時、思ったことを今でも覚えています。彼女はすでにいませんが、私の中にも彼女の命が生きている。受け継ぐ人がいる限り、生命は生きている。そういった思いを込めて書きました」

 みと自身も高校3年のときに看護学校の1日体験実習に参加したことがあった。しかし、この作品を書くにあたって看護学校を取材してみると、命と向き合う看護師の大変さに改めて気づいた。

『時の輝き』を描く際は、看護学校や病院で丁寧な取材を重ねた

『時の輝き』は、発売されるやなんと110万部のベストセラー。1995年には高橋由美子、山本耕史の主演によって松竹で映画化もされた。

「“この本を読んで看護師になろうと思いました”といった手紙が、1日に段ボール何箱分も届き、作家という仕事は、読者の人生にまで関わることができるのかと感動した反面、“物を書く”仕事の責任の重さに初めて気づかされた作品でもありました」

 と振り返る。

 この作品は10年後にマンガ化。続編『時の輝き・2』からアシスタントを務めた現・東北新社プロデューサーの大屋光子さんは、みとの当時の仕事ぶりについてこう語る。

「アシスタントに入ってまず驚いたのは、アシの机がないこと。4、5人のアシが体育座りをしてベタ塗りやトーン貼りの仕事をしていました。こんなのほかでは考えられません(笑)。筆が早く120ページくらいのマンガなら3日でペンを入れてしまう先生は、おしゃべりしながらも常に手を動かしていました。私は昼間働いていましたから、仕事場に着くとまず夜食作り。角煮を作って先生にびっくりされたこともありました。10人以上のアシスタントを呼んで行う年末のクリスマスパーティーは盛大で、先生からいただくプレゼントをみんな楽しみにしていました」

『屋根裏のぼくのゆうれい』サイン会にて

 当時はマンガの連載を月に2、3本抱え、その間に連載小説や書き下ろしの小説を執筆するというハードスケジュール。タフで徹夜に強く猛烈な仕事量をこなしてもビクともしなかったみとだったが、あるとき、こんな珍エピソードに見舞われたこともあった。

「中目黒の中で4回引っ越しした“引っ越し魔”のみと先生。ところが引っ越しの日が来ても締め切りに間に合わず、荷物の片づけが始まりハタと気がついたら、私が手伝った見開きのページがないんです。真っ青になって原稿を探したら、引っ越しの荷物の中に梱包されていました」

 と大屋さんは笑う。

 締め切りに追われる連日連夜の徹夜仕事。しかし、そんな多忙な日々を送っていたみとに、ある取材がきっかけで転機が訪れる。

新たな物語を求めて海街へ

 小笠原を舞台にしたフォトエッセイを作る。1995年の夏、ポプラ社からこの話がきたとき、みとの心はザワついた。

「毎日海で泳ぎ、大好きなイルカと戯れ、水平線に沈む夕日や満天の星を眺めているうちに、今までの生活はなんだったのか、人生観がまったく変わりました」

 さらに違った環境に身を置くことで、みとの中で新たな創作意欲が生まれつつあった。

デビュー以来ひたすら書き続けて10代、20代の経験はアウトプットし尽くしていました。このままでは書きたいものがなくなるのではないか、という危機感にも襲われていて。そんな私にとって、小笠原旅行はあらゆる意味でターニングポイントでしたね」

 わずか10日間の旅行ですっかり小笠原に魅せられたみと。その後も仕事やプライベートで何度か小笠原を訪れるうちに、心は決まった。

30歳。人生の転機となった小笠原諸島への取材旅行

 33歳のとき“海のそばで犬と暮らす”生活を実現するため湘南の海が見える街・逗子に移り住む。

「ひそかに“大人になったら絶対、犬を飼う”と小学3年生のころ、心に誓っていました。私は周囲の心配をよそに移住前に車の免許を取ると、ゴールデンレトリバーの子犬を家族に迎えました。まったく知り合いがいない土地に、おひとりさまがいきなり家を建ててしまったのですから、かなりチャレンジャーでした。それでも近所に友達がたくさんでき、新しい環境や生活になじむことができたのは犬のおかげですね」

 リキ丸と名づけた雌犬と湘南の海や眩(まぶ)しい太陽のおかげで徹夜続きの夜型生活は一変。

 ダイビングのライセンスや船舶免許も取り、夏になれば近所のビーチでシュノーケリングを楽しみ、SUP(スタンドアップパドルボード)をはじめ、BBQや焚(た)き火が好きになった。みとはすっかりアウトドア人間に生まれ変わっていた。

今年5月、自宅から徒歩で行けるビーチで海開き(本人撮影)

東京にいたころは、本当に仕事しかしていなかったんです。それが、日々の生活を楽しむことが人生のテーマになりました。私の理想は“毎日がリゾート”(笑)。

 湘南の明るく開放的でゆるい空気感は小笠原と共通するものがあり、犬友や海の仲間たちと過ごすひとときはかけがえのない時間。バラの季節に50人以上をウチにお招きするジャズライブも10年以上続けています。これからは焚き火や花火パーティーの季節ですね」

 こうした“湘南ライフ”に伴って描かれる作品にも『制服のころ、君に恋した。』『天国の郵便ポスト』といった鎌倉・逗子を舞台にした小説やマンガが登場。犬を主人公にした小説や絵本も生まれた。

 その中でも、みとにとって思い出深いのが、リキ丸や現在飼っている2代目の犬・こりきとの“リア充”ならぬ“イヌ充ライフ”を綴ったエッセイ『おひとりさま、犬をかう』である。

 “独身・家持ち・40代”少女マンガ家の赤裸々エッセイと銘打って出版されたこの本のあとがきに、

《いつまでもおひとりさまでいるつもりはありません。いつかは“おふたりさま、犬をかう”になるべく、只今絶賛婚活中》と書き残しているが、みとは今でも独身のまま。

 海の仲間には「いい人がいれば紹介して♪」と冗談めかして口にするというが、実際のところ、好きな家で犬と暮らす毎日がけっこう気に入っているのかもしれない。

自宅の庭で愛犬・こりきと。海街に住んでから、日舞や琴、居合などの習い事もするようになった

 

まさかの2000万円赤字……

 今では“イヌ充ライフ”を満喫するみとだか、その脳裏には、忘れられないある出来事があった。

 1999年の春、長野県八ヶ岳に小さな別荘を建てたみとは、知人の紹介で2004年のゴールデンウイークにドッグカフェ『八ヶ岳わんこ物語』をオープンする。

「別荘地の真ん中を走るメイン道路に面しているので立地もよく、真向かいにあるステーキレストラン以外はお店もない。しかも、そのお店はGWや夏には行列ができるほどの人気店。“近くに気軽にランチをしたりお茶を飲めるカフェがあれば、リキ丸と一緒に入りたい……”。そんな素敵すぎる妄想に取り憑かれた私のやる気スイッチは、たちまちオンになってしまいました」

長野県富士見高原で営業していたドッグカフェ『八ヶ岳わんこ物語』には、犬友のほか、マンガや小説のファンも多く訪れた

 メニューを自分で考え、料理もしてオーダーも取って、レジまで打ってしまうオーナーのみと。たちまち評判を呼び、人気店となるが、現実はそんなに甘くはなかった。

 別荘族の大多数は11月に水抜きをして別荘を閉め、翌年のGWまでやってこない。冬季は観光客もほとんど来ないので実は12月から4月までは開店休業になってしまうのである。

 さらに、オープン3年目のGWに悲劇が起きる。

「駐車場に車を止めて店に入ろうとしたお客様がふとしたはずみでリードを放してしまい、連れていた愛犬が車にはねられる事故が起きてしまいました」

 お店そっちのけで、動物病院まで付き添い、幸い命には別状がなく大事には至らなかったものの、この事件は、みとの心に大きなトラウマを残した。

「うちのお店に来てくれたお客さんとわんこが、不幸な目に遭うようなことがあったら耐えられない。この事件以来、私の足はお店から遠のいてしまいました」

 結局、お店は賃貸契約が切れる2007年の秋に閉め、5年間で2000万円を下らない赤字を出した。しかし、みとにとってはどんな逆境もストーリーの種。

「お店を1軒立ち上げ、経営し、自分も働いたという経験は貴重な財産になりました。うっかりドッグカフェオーナーになってしまった世間知らずの少女漫画家のドタバタ奮闘記をいずれ描いてみたいですね」

憑依型の作家ならではのスランプ

 2016年。小説家デビュー30周年を目前に、みとは新しい仕事を断り小説『幸福のパズル』の執筆に没頭した。

「みと先生に“100%直球の恋愛小説を書いてもらいたい”とお願いしたのは2014年のこと。半年後に出版する予定が、1年たっても2年たってもできあがらない。こんなことは初めてでした」

 と編集を担当した講談社・文庫出版部(当時)の新町真弓さんは言う。

 そのころ、みとは小説家になって初めてといってもいいスランプに陥っていた。

「当初は次々に事件が起きるジェットコースタードラマを思い描いていましたが、登場人物が多くディテールや心理描写を丹念に描くうちに、ストーリーは膨らんでいくばかり。気がつけば600ページ近い大作になっていました」

 スランプの原因はそれだけではなかった。

「主人公みちるのすぐ悩んでしまう内向的な性格が、思い込んだら即、行動する私とあまりにもかけ離れていて、なんでこんな設定にしたのか、途中書いていて悔やみました」

 主人公になりきることで書く憑依(ひょうい)型の作家・折原みとにとって自分のキャラとは正反対の主人公を描くことは修行のようなものだった。

 ちなみに、みとにはマンガや小説を書く場合に行う取材のスタイルにもほかの作家とは少し異なる流儀がある。

「テーマが決まったら、まず物語の簡単なプロット(粗筋)と舞台を決めます。そこでいろんな人たちと出会い、雰囲気やキャラを把握してから話を膨らませていく。だから、取材のときはメモも録音もしないのがみと流です」(前出・新町さん)

 象使いを目指してタイに留学した青年の愛と死を描いた映画『星になった少年』をコミカライズした折、取材を受けた井上結葉さんは、

「2人で3時間あまり、お酒を飲みながら話をして、その晩は別れたので後日改めて取材があるものかと思っていたら、それでおしまい。でもできあがったマンガを読んだら、主人公と私の生きた証(あかし)がしっかり描かれていました」

 以来、親交を深めた2人。そんな井上さんには今も忘れられない思い出がある。

「夫が亡くなりふさぎ込んでいた私を、みとちゃんが八ヶ岳の別荘に連れ出してくれました。紅葉の季節で、葉が黄色くなり、やがて黒くなって落ちるのを見て、私はやっと夫の死を受け入れることができました。何も言わずに寄り添ってくれたみとちゃんには、とても感謝しています」

 その井上さんに紹介された人物が、小説『幸福のパズル』で主人公のキューピッド役を演じる風間浩のモデル・佐久間浩さん。物語の行く末に大きな影響を与えた人物だ。

海の仲間に慕われ、出会いの輪を広げる小屋のオーナーの佐久間さんと

「佐久間さんにお会いしたときはプロットはできあがっていましたが、佐久間さんの海小屋を見た瞬間、みちると優斗のクライマックスシーンがはっきりと浮かびました」

 自身も元サーファーでいつもアロハを着ている佐久間さんは、みとについてこう語る。

キュートで可愛く、気取らない人。『幸福のパズル』には、実在する葉山の人たちがたくさん登場しています。地元に根づいて生活をしていたからこそ書けた作品ではないでしょうか。それにしてもヒロ(浩)さんはカッコよすぎるな」

 還暦を過ぎても若々しい佐久間さんは、そう言って照れくさそうに笑った。

 みとが葉山の“秘密の社交場”と呼ぶこの小屋には週末になると海の仲間たちが集う。

 みとにとって出会いの場は作品の宝庫。すでに次作へのイメージを膨らませている。

「伝説のサーファーだった佐久間さんの亡くなられた長男・洋之助さんも優斗の憧れの先輩として、小説に登場します。いずれは彼を主人公にした物語も書いてみたいですね」

◇  ◇  ◇

 みとは逗子の自宅の2階のテラスから見る海が好きだ。

 夕暮れとともに江の島、そして対岸の灯りが浮かび上がるころ、夜空に浮かぶ月が夜の静かな海に光の帯を投げ、穏やかな波の音が時を刻む。

─至福のひととき。

 今まで描いてきた物語が次から次へと甦る。浮かぶ月に懐かしい人の顔が重なった。

「人との出会いが私のすべて」

夕暮れ時が似合う自家製モヒート(本人撮影)

 こんな夜は、庭で採れたミントで作るよく冷えた自家製のモヒートが、とても似合う。

(取材・文/島右近 撮影/森田晃博)