津波の爪痕が生々しく残る解体前の旧庁舎。ここで手を合わせる住民の姿もあった

 東日本大震災から8年。震災体験の風化が指摘されるようになってきた。津波にのまれるなどして、震災の教訓を伝える建造物などを「震災遺構」と呼ぶ。

「人は忘れるんですよ」

 東日本大震災では、震災遺構をめぐって保存か解体かが常に議論になっていた。例えば、宮城県気仙沼市に打ち上げられた大型漁船は撤去され、岩手県釜石市の鵜住居地区防災センターは解体された。

 一方、宮城県は震災後20年まで、職員の避難が遅れた南三陸町の防災対策庁舎を残す。多くの子どもたちと教職員が亡くなった大川小学校や、火災が発生した門脇小学校の旧校舎は、石巻市が保存を決めた。

 遺構を残す取り組みは、ほかの震災でも見られる。新潟県中越地震では、山古志村(現・長岡市)の水没家屋などを残している。阪神・淡路大震災では「野島断層」(兵庫県淡路市)が保存されている。各被災地では、語り継ぐことや教訓化する取り組みがなされている。

 そんな中で、東日本大震災の津波で当時の町長や職員計40人が死亡した岩手県大槌町の旧庁舎が保存か解体かで揺れていたが、今年2月、町の判断で解体され現在は更地となっている。

「人は忘れるんですよ」

 そう話すのは、町にある吉祥寺の住職、高橋英悟さん(46)だ。

「三陸は何度も繰り返し津波がきています。なぜ過去の教訓を生かせなかったのか。津波、自然災害が自分にふりかかることは想像できないんです」

旧庁舎の保存を求める高橋さん

 震災当日、地震が発生すると、加藤宏暉町長(当時)ら約50人は災害対策本部を立ち上げようと、町庁舎2階にある総務課に集まっていた。だが、余震が続くため駐車場に移動、同本部を設置しようとしていた。

 その後、津波の情報が入り屋上に同本部を移動するが、黒い壁のように迫る津波にのまれた。震度計は旧庁舎に設置されていたため、観測記録はない。庁舎にいた町長・職員ら28名が犠牲になった。

 町の防災計画では、「庁舎が使えない」と判断した場合、高台にある中央公民館に本部を設置することになっていた。しかし、この訓練は2003年に1度行っていただけ。また、危機意識がなかったのか、駐車場に同本部を設置しようとした。旧庁舎の時計は午後3時26分ごろを指したまま止まっていた。地震発生から40分ほどだ。

解体された旧庁舎。遺族は跡地にモニュメント設置を求めている

「大槌町東日本大震災検証報告書」('13年版)によると、3・11での揺れは2日前の地震と同程度で、庁舎に被害はなかった。その後、庁舎前に避難することになる。

《一般職員が課長に、高台に避難すべきとの主張をしたケースもあるが、課長はそれを制止した》

《消防から大津波警報(3メートル)の放送が流された。しかし、町からは大津波警報も避難指示等も出せなかった》

 庁舎前に集合すると、「以前の訓練どおりだ」と思い、幹部職員から一般職員に対し特別な指示は出されなかったという。災害対策本部から戻った部課長は、職員に担当の仕事を指示した。

 ただ、福祉課長だけは職員に対し、中央公民館への避難を指示。総務課長は余震の被害を心配し、発電機を同公民館へ移動するよう指示した。だが、その後も情報取集を優先、県内沿岸自治体では唯一、避難勧告・指示を出さなかった。

同じ苦しみを味わわせてはいけない

 こうした震災の教訓をどう伝えるべきか。

 震災後の8月、初めての町長選で当選したのは碇川豊さん(68)。当時から旧庁舎を保存するのか、解体するのか、町を二分する議論が展開されていた。解体された今となって「遺族から大切なものを失った、との連絡を受けています」と、残念がる。

 大槌町は震災で死者817人、行方不明者417人を出した。

「人口の1割が亡くなったことの重みがあります。同じ苦しみ、悲しみを将来の人に味わわせてはいけません」(碇川さん)

 町長時代、碇川さんは学識経験者や職員遺族ら11人で、旧庁舎に関する「検討委員会」を設置した。

「解体派の遺族も、保存派の遺族も入れました。結果、両論併記となりました」

 最終的には町長の判断に委ねられ、'13年3月、旧庁舎の一部保存が決まった。玄関などの正面部分と屋上付近まで津波が襲った様子を伝えるために、庁舎の2階部分を残すことを表明。止まったままの時計も、そのままにするとしていた。

「建物が大きいので、見たくない人への配慮、今後の維持管理などを考えた結果です。一部保存でも、防災教育の点で十分、津波の恐怖を後世に伝えられる」

「2度と悲劇を繰り返さないために、言葉や映像だけではなく遺構として保存することが重要です」

 とも説明していた。

 こうした一部の庁舎を保存することで、県内外から多くの人が訪れるほか、遺族ら住民としても心のよりどころになっていた面がある。しかし、話は簡単に終わらない。遺族のなかには庁舎を見るだけでつらく、思い出してしまうという声もくすぶっていた。

 その後、町長選で、平野公三氏が「庁舎解体」の公約を掲げ当選を果たす。平野氏は震災当時の総務課長で、町長の職務代理も務めていた経験がある。解体は、復興の足かせになるとの理由だった。

 碇川さんは振り返る。

「私は、町長選の争点にすべきものでないものが争点になったと思いました。壊すと言わなければ落選するとまで言われましたが、私はあえて保存を訴えた。ときが来たら、“いつか残すべき”と言われると思っていたんですが……」

遺構は教訓を伝えると前町長の碇川さん

 町議会でも議論になった。賛否は6対6の同数。そのため、議長裁定で「解体」が決まった。つまりは1票差だったのだ。

 そんな中、庁舎の保存を目指す市民団体『おおづち未来と命を考える会』が発足する。代表は前出の高橋さんだ。そして'18年8月、震災遺構としての十分な価値があるか検証をせずに解体工事に着手したのは違法だとして、遺族と高橋代表の2人が町を提訴した。

 今年1月、盛岡地裁(中村恭裁判長)は、「裁量権の範囲の著しい逸脱や乱用があるとは言えない」として、原告の請求を棄却。すでに旧庁舎は解体された。

後世の人たちを守るために行動すべき

 高橋さんは、なぜ裁判をしてまで保存を訴えたのか。

「津波の被災のたびに、町では石碑を作ったり、供養をしてはいます。しかし、いくら石碑があっても後世に伝わっていないのではないでしょうか。多くの人が亡くなったことを冷静にみつめなければなりません。しかし、後世に伝えることの議論がありませんでした」

 実は、子どもたちが声をあげたときもあった。

 平野公三町長が旧庁舎解体を表明した後、被災箇所の定点観測を続けていた県立大槌高校の『復興研究会』のメンバー有志が「子どもたちのために残してほしい」と直接訴えた。同研究会は、全校生徒の約半数が所属していた。

「建物を残すことは、映像や写真より特別なものがある」

「大槌高校には復興に強い意識を持った生徒が多い。結論を待ってもらい、みんなで考えたい」

 こうした意見が出されていた。

 三陸沿岸は将来もまた津波に見舞われる可能性が大きい。子どもたちのなかには、教訓として、旧庁舎を保存してほしいとの意見もあった。しかし、町としての結論は解体に進んだ。

「8年前の記憶がしっかりしている人は少なくなってきました。高校2年生から下は、はっきり言える子は少ない。大人になったときに津波がくるかもしれない。まだ生まれていない将来の命を守るために、どう行動するかを考えないといけない。でも、大人のなかには、高校生はいずれ(町から)いなくなると言っている人もいました。後世の人たちを守るために行動すべきだと思います」(高橋さん)

 震災遺構は被災地に人々が訪れる理由にもなっていた。いわゆる「被災地観光」だ。反面、興味本位で遺構に来る人がゼロではなく、被災者を傷つける面もあった。その意味では、解体してほしいという声も道理がないわけではない。ただ、解体されれば、震災の風化は加速する。

 碇川さんは言う。

「東日本大震災で町長が亡くなったのは大槌町だけ。負の教訓を伝えていかなければなりません。2度と繰り返さないための遺構であってほしかったですが、いずれ解体を悔やむ時代が来るだろう。そのときは復元もありなのかな」

 保存か、解体かをめぐって町は二分し、議論そのものがタブーとされるようになった。どちらの意見を持つにしても狭い地域であり、人間関係で気を使う。表立って声を上げにくい。

「分断してしまった町を修復できるかも問われます。旧庁舎なきあとの町づくりは、これからがスタートです」(高橋さん)

(取材・文/渋井哲也)


《PROFILE》
しぶい・てつや ◎ジャーナリスト。長野日報を経てフリー。東日本大震災以後、被災地で継続して取材を重ねている。『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)ほか著書多数。