'20年東京五輪のマラソン代表選考一発レース『MGC』。中村匠吾選手はラストに強靭すぎる脚力を見せつけ見事、優勝。代表権を堂々手に入れた。メディアがほぼノーマークだったこの男、大学時代には藤色の襷を胸に、箱根駅伝を3度走っている──。
大八木弘明監督の指導の熱さに惹かれて
子どものころから足が速く、小学校のマラソン大会でも常に上位。何より走ることが好きだった。5年生のとき、仲のいい友人の影響で、陸上クラブチームに入ったのが陸上人生の始まりだったという。
「小・中学生のころは、県大会では上位に入るものの、全国大会には全然行けないような選手でした」
高校は地元の強豪・上野工業高校(現・伊賀白鳳高校)へ。3年生のときにはインターハイで3位(5000m)になるなど、めきめきと頭角を現すように。いろんな大学から誘いの声がかかったが、選んだのは駒澤大学。
「高校の先輩である高林祐介さん、井上翔太さんという2人の先輩が、駒澤大で箱根駅伝を走る姿を見て“カッコいいな”“いつか自分もあの舞台で走りたいな”と憧れていました。そして、大八木弘明監督の指導の熱さに惹かれたのも理由です」
1年のときはチームのサポートにまわったが、2年('13年)で箱根デビュー。3区を任され、3人抜きを演じた。3年時('14年)は1区。大迫傑さん(早稲田大卒/ナイキ)らと競り合い、区間2位の好走。
「でも、いちばん印象深いのはやはり4年生、最後の年ですね('15年)。主将をやらせてもらいましたし、個人としては再びの1区で初の区間賞をとれたので。でも、その年の駒澤の総合順位は2位。箱根駅伝では1度も優勝できずに卒業したのは、心残りな部分ではありますね」
小学生の頃から「いずれはオリンピックに」
しかしながら、大学時代に箱根駅伝を念頭に置き、速いペースで20キロという距離を走る練習の積み重ねが、今の自分につながっていると分析する。
そもそも、オリンピックを意識したのはいつのこと?
「'04年のアテネ五輪で、地元・三重県出身の野口みずきさんが金メダルをとられて。当時、まだ小学6年生だったのではっきりとは覚えてないんですけど、周りがすごく盛り上がっていたのは記憶していて。“オリンピックにいずれは行きたいな”と子ども心に思いました」
'20年の五輪の開催が東京に決まったのは、大学3年のとき。大八木監督に“駒澤大からはまだ五輪のマラソン選手が出ていない。一緒に目指さないか”と声をかけられた。
「とてもうれしかったです。僕自身の可能性を信じ、一緒にやろうと言ってくれる指導者がいることは、とても幸せ。信じてやっていこうと思いました」
五輪への夢は、リアルな目標へと変わった。富士通に入社したのちも、練習拠点は駒澤大に置いた。大八木監督の指導を受け始め9年目、ついに五輪の代表権をつかみとり、“男だろ!”の檄で有名な闘将を男泣きさせた。
「目標は表彰台です。今は、そこまでプレッシャーを感じてはいません。精神面のコントロールは得意なほうですし、楽しみにすることができています。残りの時間、悔いのないように準備して、100%の状態でスタート地点に立ち、最高の走りができればと思っています」
誠実でまじめな人柄がひしひしと伝わってくる。好きな食べ物は、焼き肉。そして好きな芸能人は、
「……有村架純さん」
顔を赤らめながら、恥ずかしそうに答えてくれました!
【PROFILE】
富士通 陸上競技部(駒澤大OB) 中村匠吾選手 ◎なかむらしょうご。三重県四日市市出身。上野工業高校から駒澤大学へ。箱根駅伝では、2年時は3区3位(総合3位)、3年時は1区2位(総合2位)、4年時は1区区間賞(総合2位)