長引くコロナ禍で、お店の料理を配達代行する「フードデリバリー」の勢いが止まらない。そのサービスにいち早く目をつけ、業界のトップランナーになったのが出前館・会長の中村利江さん。女子大生起業家、若き営業のエース、ワンオペ育児をこなす母親……、さまざまな体験と奮闘を重ね、「箱入り娘」はスーパーウーマンになった。「世のため、人のためになる仕事がしたい」夢をかなえたくて──。
モットーは「お客様と加盟店第一」
新型コロナウイルスの感染拡大による自粛から、フードデリバリーが脚光を浴びている。街角でウーバーイーツ、 メニューなどのバイクや自転車を見ない日はないほど。なかでも、最大シェアを誇るのが出前館だ。
かつては自前の宅配網を持つお店だけを取り扱っていたが、2017年から始めた「シェアリングデリバリー(R)」が大ヒット。地域の配達拠点から、多種多様なお店の食べ物を配達代行するサービスで「自宅にいながらにして、おいしいものを食べたい」というニーズをとらえた。
その仕掛け人が出前館・代表取締役会長の中村利江さん(55)。猛暑まっただ中の8月11日、岡山県で新たに展開されたシェアリングデリバリー(R)の拠点に彼女の姿があった。
岡山市内の『Cafe&創作DINING TSUBOYAN』にポロシャツとジーンズのラフな姿で現れた中村さん。到着するやいなや駆け寄ったのは、ツボヤンの梶田博志店長のところだった。
「できる限り、現場の生の声を聞きたいと思っています。こうやって実際に提携先に行けるときには“言いにくいことがあったら直接、言ってくださいね”と声をかけさせてもらっています」
と、穏やかな口調で語る中村さんのモットーは「お客様と加盟店第一」。出前館の強いこだわりでもある。
子育てで感じた、安全な食生活の大切さ
「私は24歳で結婚し、主婦になり、子育てに邁進(まいしん)していた時期がありました。息子を育てながら強く感じたのは、安全な食生活の大切さ。加盟店さんやお客様が問題を抱えている状態では安心は守れない。両者の間に立つ私たちは、常に双方の側に立って物事を考える必要があるんです」
主婦としての生活実感を大事にしながら中村さんはこのビジネスに携わっている。
フードデリバリー市場は、'19年に7000億円をはるかに超えるなど需要が急拡大。出前館の勢いもすさまじい。この1年で加盟店の数を1万以上も増やし、今年7月には全国3万店を突破した。
「ひとつのエリアで200店舗くらいの数になると、ラーメンやカレーからハンバーガー、エスニックまで、あらゆるジャンルがそろうんです。最近、特に盛り上がっているのがスイーツ。
タピオカやドーナツ、ケーキもあって“出前館に行けば何でも頼める”という状況になる。すごくワクワクしますよね。岡山も早くそうなるといいですし、近い将来には身の回りの世話や買い物など、かゆいところに手が届くサービスも提供できればいいと思っています」
また、配達員の安全や衛生面にも配慮を欠かさない。
「出前館はドライバーさんを直接雇用して、3時間の研修を受けてから外に出てもらっています。出社時の検温、バイクに消毒液を積んで配達することも必須。配送品質は他社との大きな違いですね」
注文した人がおいしい食べ物を笑顔で受け取ってくれる姿を想像しながら、中村さんはアグレッシブに奔走する。月2万円の売り上げで倒産寸前だった出前館の立て直しに奔走して、約20年。今では年商60億円超の業界トップ企業へと引き上げた。
そんな中村さんの「スーパーウーマン伝説」は、すでに幼少期から始まっていた。
儲けている人を見抜く観察眼
中村さんが生まれたのは、国じゅうが東京オリンピックに沸いた1964年。日本海に面した富山県高岡市の、地元でも有名な老舗材木店を営む両親の長女として誕生し、にぎやかな3姉妹の中で育った。教育方針は厳しく、幼いころから習い事漬けの日々を過ごす。
「商売人の家ということで、そろばんは週2回。習字やピアノなども、ひととおりやりました。門限は6時で友達とも遊びに行けない。早く家を出たいと思っていましたね」
ただ、彼女は単なる箱入り娘にはとどまらなかった。家に出入りする職人や問屋の人々、銀行員などさまざまな人物を観察し、「実務をしていないブローカー的な人が儲(もう)けているんだ」と、社会の構造をいち早く見抜いていた。帳簿をつける母親を横目で見て、中学生のころには自分でもつけられるようになっていたという。
それでも当時は、「夢は医者」で、商売人になる気持ちは一切なかった。その道にいちばん近い地元屈指の進学校・富山県立高岡高校へ進むと、そこで出会ったバレーボールに魅せられる。
きっかけを与えたのは、当時の恩師・大塚千代先生だ。
“女子大生モーニングコール”を起業
「利江さんの学年はセッター以外、全員が高校からの初心者。最も統率力と身長がある彼女にキャプテンかつエースとして頑張ってもらおうと思って、練習もハードにやりましたね。ほかの選手は、私と利江さんと、監督が2人いるような気がしたんじゃないですかね(笑)。
ハードな練習を心配された中村さんのお母さんが、ほかの保護者とともに練習の見学に来られたこともありました。でも、意欲とリーダーシップを持って取り組んでいる彼女を見て、納得されたようでしたよ」(大塚先生)
大塚先生には人生や勝負の駆け引きを教わった、と中村さんは振り返る。
「“プロボクサーが試合前に大口を叩くのは注目度を上げてモチベーションを高めるため。自分からしかけなかったらすぐ負ける”という、千代先生の話は今も頭に焼きついています。人生も同じで自らアクションを起こさなければいけないと感じました」
そうした恩師の教えは関西大学に入ってから、おおいに生かされるようになる。
厳しく管理されていた実家を離れ、自由な暮らしを手に入れた学生は「遊びたい」と思うのが普通だろう。けれども彼女は「ビジネスがしたい」と、即座に実行に移す。仲間3人と「出資者を募って100万円集めて何かやろう」と話し合い、モーニングコール事業を立ち上げたのだ。
「遅刻常習者だった男子学生が“かわいい女子大生に起こされたら起きるのに”とボヤいていたのを聞いて、ひらめいたんです」
行動派の中村さんは、さっそく「いいアルバイトがあったら紹介する」と女子学生に声をかけ、瞬く間に3000人をかき集めた。それと同時に、大阪のオフィス街である淀屋橋や本町へ出て、テニスのスコート姿でビラ配りを実施。興味を持ったサラリーマンが月3000~5000円のモーニングコール・サービスに次々と登録してくれた。
この事業が話題になり、テレビ局やイベント会社から女子学生の派遣要請が舞い込み始めるように。すると、モーニングコール事業より収益率が高くなった。今でいう「人材派遣業」を、中村さんは20歳になる前に形にしてしまったのである。
大学1~2回生で人材派遣ビジネスをひと通りやり切り3回生になった彼女は、リクルート大阪本社が発行していた雑誌『ハウジング』編集部でアルバイトを始めた。原稿の受け渡し(トラフィック)など補助業務が仕事の中心だったが、20歳そこそこの中村さんは物怖(ものお)じせず自分の意見を次々と出し、企画や編集、校正に関わり始めたのだ。
当時の上司である隈本秀夫さんは、圧倒的なインパクトを受けたと明かす。
「最初はトラフィックのバイトさんと思っていたら、編集方針やデザインに注文をつけたり、自ら企画案やコピーを書いてきたりするんです。仕事への積極的な姿勢は尋常じゃなかったですね。それに大学生の彼女の言っていることのほうが的を射ていた。社員全員が舌を巻いていました。ずぬけて優秀だったので、僕のほうから“(就職は)リクルートに来い”と誘ったくらいです」
「愛人」と誤解され、初めての挫折
これだけ仕事に熱を入れていたら、当然のごとく学校には行けない。「教養学科だった1・2回生のころは、まだ行っていました」と本人は苦笑するが、3・4回生のころはテストだけ受けて単位を取るような状況。そのサポートをしていたひとりが、親友の山本智香子さんだ。
「私たちは文学部フランス文学科に在籍していましたけど、当時、利江ちゃんを授業で見たことはほとんどないですよ。1回生からの付き合いで、のちに旦那さんになる彼氏も、別の学部なのによく代返に来ていました。“利江ちゃんは自分のやりたいことをガンガンやる人だから”という話をした覚えがありますね」(山本さん)
こうして仕事一直線の4年間を送った中村さんだが、無事に大学を卒業。バブル最盛期の1988年春にリクルートの正社員となった。
配属先は東京本社の住宅情報事業部。しかし、彼女には結婚を約束した彼氏が関西にいたため、いきなり「大阪に戻りたい」と志願した。上司の答えは「営業成績で300%を達成したら大阪に帰してやる」。これを聞いて、並の新入社員ならあきらめるところだが、「絶対にやってやる」と思うのが中村さん。まずは、じっくりと策を練るところからスタートした。
「最初に3か月計画を立てました。1週間でターゲットを絞り込み、次の週は徹底的に相手企業を調査して、3週目から営業へ。その際には必ず相手先のメリットになるような提案も用意しましたね」
戦略家らしい一面をのぞかせる中村さんだが、入社半年が過ぎようとしたころ、大失敗をしてしまう。8月分のノルマ達成に100万円の売り上げが足りないことが判明。9月に出稿予定だった広告費150万円分の前倒しを取引先の家具メーカーに打診したところ、色よい返事をもらえなかった。
困った彼女はリクルートの先輩に相談。「(予告なく早朝に訪問する)朝駆けするしかないよ」との言葉に背中を押され、翌朝7時から担当部長の出社を待つことにした。
いざ部長が現れると、中村さんは不安や緊張などの感情が爆発。突如、涙があふれ、それを多くの社員に目撃されてしまう。これが「愛人を泣かせている」というあらぬ噂を立てられる結果を招き、部長は憤慨。中村さんに「出入り禁止」を通告してきた。お詫(わ)びに行っても話を聞いてもらえなかったという。
「自分の成績のためだけに動いていたんですよね。相手から見たら、本当にウザい(苦笑)。お客さんにメリットのない営業を絶対にしてはいけないんだと痛感したのが、あの大失敗です。お客さんの立場で考えないと商売はうまくいかないと思い知り、この一件以来、やり方をガラリと変えました」
これを境に、徹底的に相手側に立った企画や提案をするようになった中村さん。成績はグングン上がり、約束の300%を達成。入社1年目にしてMVP獲得という、全社の営業担当で最高評価を得るに至った。
当時は「妊娠したら、退社する」のが一般的
'89年4月には念願の大阪へ異動。一段とたくましくなった彼女に、前出・隈本さんは目を見張った。
「東京でやっていた仕事のノウハウを大阪で伝えるべく、勉強会を開いてもらったことがあったんです。そのときに感じたのは、視点の違い。ユーザーが何を求め、何を必要としているかを徹底調査し、斬新なアイデアをいくつも形にしていた。相手の会社にしてみればマーケティングをしてもらっているのと同じですから、それなら提案を受け入れますよね。あの頭のよさに感心するばかりでした」
ところが、若き営業のエースは半年もしないうちに退職を申し出る。結婚後、数か月して妊娠がわかったからだ。
当時の女性は「妊娠したら、退社する」のが一般的。それに中村さんも抗(あらが)おうとはしなかった。隈本さんら会社側は「抜けられると困る」と思ったが、女性社員の結婚・出産への対応が配慮された時代でもなかった。そのため彼女は、「キッパリやめて、家事や子育てに専念したほうがいい」と考えたのだ。
退職後の'90年7月、中村さんは25歳で男の子を出産する。母親としての新たな人生が始まった。
「ワンオペ育児」を貫いた理由
産後しばらくは高岡の実家に戻っていた彼女だが、半年もたたないうちに家事と子育てだけの生活に飽き足らず、仕事への渇望を感じ始めた。そこで大阪に戻って、インテリアコーディネーターの資格を取得。空いた時間に働くようになる。それだけでは満足せず、古巣・リクルートで住宅情報などのライター業に携わることもあった。
それでも息子が保育園に上がるまでは「家庭第一」のスタンスを貫いた。その中で気づいたことも少なくなかったという。
「子育てをすると人生をもう1度、ゼロから楽しめますよね。子どもと『おかあさんといっしょ』を見たり、遊園地のイベントキャラクターを身近に感じたりすることは、キャリアウーマンにはできない経験だから。“こういうビジネスもあるんだ”と、いろいろ観察する日々でした」
ビジネス志向の高い妻を大学時代から付き合ってきた夫はよくわかっていたが、「僕が子育てを手伝うから働きに行っていいよ」とは言わなかった。高度成長期に育った昭和生まれの男性は「家事と育児は女性の役割」と考えるのが一般的だったからだ。中村家は今でいう「ワンオペ育児」だったが、彼女は一切、文句を言わなかった。
「夫に“手伝ってよ”と言えば、“だったら俺の給料で食べさせるから仕事はやらなくていい”と言われるのがオチ(苦笑)。それがわかっていたので、仕事に関する話題は出さず、家族旅行や息子の成長など楽しい話をするようにしていました。息子が4~5歳のころに行ったネパール旅行は楽しかったですね」
その後も夫に多くを求めないスタンスは変わらなかった。主婦業の合間にデパ地下などを回って「中食の時代が来る」と直感した中村さんは、'98年1月、「ほっかほっか亭」の運営会社・ハークスレイに入社する。それまではフリーとして働いていたが、ひとり息子の小学校入学を機に正社員として勤め出し、半年後には営業企画の課長に昇進。最終的には部下70人を率いる責任者となった。
多忙を極める中、ありとあらゆる手段を使って、家庭と仕事の両立を全力で試みた。
当時は“働く母親”にまだまだ厳しかった
「私も主人も親が近くにいなくて頼れなかったので、息子が保育園のころは19時まで延長保育、小学校に入ってからは学童などに預け、それでも帰れないときはベビーシッターや近所の子守りの方にお願いしていました。どうしても預かり手が見つからないときは、おぶって会社に連れていくこともありました。
今でこそ男性社員も働く母親に寛容ですが、当時はまだまだ厳しかった。“なんだ、子連れなのか”と皮肉めいたことを言う人もいましたね」
そこで皮肉をサラリと受け流せるのが中村さんの強さ。前出・山本さんも、親友の立場から「どんなときも“必死感”を見せないのが利江ちゃんなんです」と話す。
「カーッとなったりヒステリックにモノを言うのは見たことがないですね。時間をムダにするより、ひとつひとつの物事を効率的にこなすことが第一だったんだと思います。
息子さんの授業参観や運動会にも時間をやりくりして行っていましたし、ママさんバレーにも参加していましたからね。本人は“そのぶん、あとから仕事をすればいい”と詰め込んでいたんでしょうけど、ホントにすべてが普通の人の倍速(笑)。お母さんも、仕事も、全部やりたかったんだと思います」
まさにスーパーウーマンだが、素顔の中村さんは鎧(よろい)を身にまとった人ではない。人を楽しませるのが大好きで、リクルート時代に企画した泊まりがけの研修では、どっきりイベントを開いて盛り上げた。
山本さんら仲間と宮古島の別荘に出かける際には、ツアーコンダクターのようにイベントを組み、得意料理でにぎやかにおもてなしをしてくれるという。出前館のスタッフも「何かあると、会長がおにぎりやおかずを作って持ってきてくれます」と話す。
初対面の筆者にも取材直後、手書きの礼状を送ってくれた。温かい人柄が人々を惹きつけて離さないのだろう。
日ごろは口を出さない夫も猛反対
仕事はもちろん、家事・育児にも全力で取り組む中村さんに2001年7月、新たな転機が訪れる。
「ウチの会社の再建を手伝ってくれないか」
出前館のサービスを立ち上げた『夢の街創造委員会』('19年12月から出前館に社名変更)の創業者・花蜜伸行さんから、そう打診を受けたのだ。ハークスレイを退社して、自身のプランニング会社を立ち上げたばかりのころだった。
「出前館」の立て直しは、取締役就任という責任の重い仕事だった。
しかも当時は社内が混乱状態で、給料遅配のおそれがあるほど経営的苦境に立たされていた。この仕事を引き受けるとなれば、彼女自身の給料は最低限に設定しなければ採算がとれない。
ほかの案件を引き受けたほうが稼げるのは自明の理。日ごろは仕事に口を出さない夫も「絶対にやめたほうがいい」と、猛反対した。
社長就任を後押しした息子の言葉
「インターネットを使って出前の注文を取るというアイデア自体は素晴らしいし、先見性や発展性を感じました。ただ、社内のゴタゴタや懸念材料は確かに多かったし、周囲もネガティブな意見でした。わが家は家計を完全折半にしていたので、収入が減れば、自分の貯金を取り崩すことも考える必要があった。
正直、人生で初めて3日ほど悩みました。そんなとき、小学校高学年だった息子が“どうせお母さん、やるんでしょ?”と、ふと言ったんです。その言葉を聞いて決断しましたね」
経営参画した中村さんが最初に取り組んだのが、大阪ガスのベンチャー支援金を確保すること。多種多様な企画書や提案書を作成し、猛然とアピールしたところ、4000万円を引き出すことに成功。これで会社は窮地から救われた。その手腕を目の当たりにした従来の幹部たちも納得。花蜜氏からも「社長になってほしい」と請われ、翌'02年1月には会社のトップに就任することになった。
新社長となった中村さんが掲げた目標は、「2年で黒字化」。ただ、当時はまだインターネット環境が整備されていない時代。「ネットで注文」のハードルは高かった。飲食店側にしても調理で油や水を使うことからパソコン操作が難しく、受けた注文をFAXで送るという手作業が求められていた。
この実情を踏まえ、ネット注文の利便性を一般に知らしめる活動に着手する。飲食店側にも「チラシで販促するよりネットを使ったほうがコストも下がるし、先々を考えるとプラスですよ」と、説明して回った。
前出・山本さんは当時、「夢の街」の社員として総務業務を担っていた。
「ホントに分刻みのスケジュール。この飛行機には絶対に乗れないと思うような時間に“予約を入れて”と言われるので、困りました(苦笑)」
その傍ら、中村さんは母親業も手を抜かず、朝5時に起きて朝食とお弁当を作り、20時までには帰って家族と夕食をともにしていた。
「息子とはよく話をしました。グレることなくまっすぐ育ってくれたので、親としては助かりました」
と、中村さんは微笑(ほほえ)む。こうして公私ともに積み重ねた小さな努力が、徐々に実を結び始める。当初計画より1年遅れの3年で黒字化を達成。
'06年8月には大阪証券取引所ヘラクレス(現ジャスダック)に株式上場し同年、雑誌『日経WOMAN』選定の「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」にも選ばれる。女性経営者として確固たる成功を収めたのだ。
凡人なら、成功を味わうとそこである程度は満足するものだが、彼女の意欲が尽きることはなかった。
'09年にはTSUTAYAの運営会社であるカルチュア・コンビニエンス・クラブ(以下、CCC)との業務提携やTポイントサービスの導入など、新たな一歩に踏み出す。そして同年12月、CCCの人材最高責任者に就任。3年間、新たな環境をカリスマ経営者の間近で見て学ぶ機会を得た。
「会社は大きくなると組織が腐る。リストラを含む改革をしてくれ」
これがCCC創業者・増田宗昭社長のオファーだった。
性別を問わず、助け合っていくことはできる
「TSUTAYAは当時、4000人の社員を抱える大企業。でも、ネット化の波が押し寄せ、アマゾンや楽天にお客さんを取られてしまう危険性があった。それを視野に入れて、外部から私を呼んで会社の体質改善を図ろうとしたのでしょう。当時60歳近いベテラン経営者が40代半ばの女性に託すのはリスクもあったと思いますが、信頼に応えようと飛び込みました」
とはいえ、改革は簡単にはいかなかった。増田社長は赤字店でも「思い入れがある店だからいいんだ」と言うが、中村さんの目線では放置できない。そういった意見のぶつかり合いが日常的にあった。
幹部の中にも彼女のやり方に賛同できない者がいた。
「いわゆる“大企業病”ですね(苦笑)。私が言ってないことを増田さんの耳に入れたり、足を引っ張ろうとしたりする幹部を何人も見ました。そのエネルギーをなぜ仕事に使わないのかと不思議に思ったほどです」
ただでさえ外部から役員に入ってきた外様。しかも年下の女性とくれば、反発が高まるのは必至。それでも中村さんは、めげずに自身の正義を貫き続けた。
「女性であるという難しさがあったのは確かですけど、有利な点もありますよね。若いときはおじさんに話を聞いてもらえるし、かわいがってもらえる。家庭と仕事の両立とか大変なこともありますけど、“女性だからできない”とは私は言ってほしくない。性別を問わず、助け合っていくことはできるはずですから」
そう話す中村さんは、女性が働きやすい環境を整えようと頑張ってきた。'12年11月に出前館の社長に戻ってからは、産休や育休などをさらに拡充し、子どもの行事の際に半休できる制度も採用。自らの経験を生かしながら子育て中の女性社員のサポート体制を整備した。
世のため、人のためになるデリバリー
「世のため、人のためになる仕事がしたい」
時間がたつごとに、そんな思いを膨らませていった中村さん。現在、最も力を注いでいるのが飲食物を配達代行するシェアリングデリバリー(R)だ。'14年に商店街でのトライアルに踏み切り'17年から本格始動。運送会社や新聞販売店などと提携しつつ拠点を全国に拡大、今年のコロナ禍をきっかけに一気に火がついた。
中村さんが「これは来る」と直感してからの動きの速さは、誰にも敵(かな)わない。そう痛感するひとりが出前館・執行役員の清村遥子デリバリーコンサルティング本部長だ。
「中村会長とは'17年に初めてお会いしたのですが、とにかく即断即決。転職で悩んでいた私に“ウチに来ちゃいなさいよ”と。あれには驚かされました。新規事業を立ち上げるときも“2000万~3000万円のことならやっちゃいなさい”と、思いきり背中を押してくれる。私もリクルート出身ですが“スピード・イズ・パワー”という当時よく聞いた言葉を地で行っているなと感じます。
シェアリングデリバリーは関わる全員がハッピーになれる仕組み。会長は、間違いなく当たると確信を持たれていました。本当に頼もしい限りです」(清村執行役員)
買い物難民に役立つサービスも展開したい
冒頭に登場した岡山の配達拠点・ツボヤンの梶田店長も、こう話す。
「ウチは6年前からデリバリーに特化した飲食店としてオープンし、その後、繁華街の一角にお店を構える形で営業してきました。今年のコロナで岡山の飲食店が大打撃を受ける中、何とか力になり、地域の飲食業を活気づけられないかと感じていたときに中村会長をテレビで拝見し、ぜひ一緒に組めないかと思い、今年5月にご連絡したんです。それで8月には本格稼働ですから、スピーディーに物事が運んで僕自身もビックリしましたね(笑)」
思い立ったら吉日で始めた配送代行事業は、いまや全国約390拠点に拡大した。空白地域である鳥取県や島根県などにも近いうちに展開していく方針だ。
全国くまなくネットワークを構築し、いずれは独居老人の見守りや、買い物難民に役立つサービスも展開したい……。それが今、中村さんが思い描く大きな夢である。
今年7月に就任した藤井英雄社長も、その思いを共有している。
「'16年に出前館とLINEが資本提携をしたのですが、初めて会った中村会長の印象はビジネスに実直な方。常に飲食店さんのほうを向いていて、“その企画じゃあ、お店のプラスになりませんよね”とキッパリ言いますね。
また、コロナを経て配送員が急増し、事故やトラブルの話題がよくニュースでも取り上げられますが、それを耳にするたび“日本全体のデリバリールールをしっかり作らないといけない”と自戒を込めて話しています。業界全体のことも考えて関わるすべての人が“ウイン・ウイン(取引する双方が利益を得られる)”状態になることを、中村会長は追い求めているんでしょう」(藤井社長)
今後は会長として、一歩引いた立場から出前館の発展に貢献する中村さん。それと同時に大阪大学の非常勤講師、ビジネス勉強会の講師など幅広い活動にも携わっていく。
前出の元上司・隈本さんは、「その実績と能力を活かし、ぜひ政治家になってほしい」と熱望するが、恩師の大塚先生や山本さんは「きっとやらないでしょうね」と笑う。
彼女はまだ55歳。ここで歩みを止めるはずがない。生粋の実業家だけに、ここから新たなビジネスを立ち上げる可能性もおおいにありそうだ。
「先のことはわかりませんけど、息子も成長して間もなく家庭を持ちますし、もう子育ては終わったので、自分の時間を楽しみます。実はここ2~3年はダイビングとスキーにはまっているんです」
さわやかな笑顔を見せるスーパーウーマンの行く末が楽しみだ。
(取材・文/元川悦子)