沖縄市より移転した那覇市田原の本店(写真/藤井千加)

 沖縄県がアメリカから日本に返還されたのは1972年5月15日、ちょうど50年前のこと─。

戦後のスーツは高級品だった

要さん・兄弟は父親の「利益よりも相手にとって何がいいのか」という考え方を引き継ぎ、仕事にいそしむ(写真/藤井千加)

 その本土復帰に伴い、大きな変化を遂げたアイテムのひとつに男性たちの『背広』がある。

「戦後の沖縄県は貧しく、スーツを着て出かける場所や仕事も限られており、高級品でした。そのため、復帰前の仕立て屋(テーラー)の主な顧客は駐留するアメリカの兵隊でした」

 そう説明するのは同県那覇市田原でオーダースーツの仕立て屋を営む『フェローズ』の佐久本要さん(50)。

「『佐久本洋服店』という屋号で父の進(2000年逝去)がコザ市(現在の沖縄市)に店を構えたのが始まりです」(佐久本さん、以下同)

 復帰10年前の1962年は、ベトナム戦争が激しさを増していたころだった。

「今よりもアメリカ兵の数は多く、うちの店の辺りはいわゆる『黒人街』でした」

 その当時、アメリカ本国で人種差別は根強く、沖縄でも『白人』と『黒人』は区別され、利用できる飲食店や商店も分けられていたのだ。

 進さんの店があった銀天街(沖縄市照屋)周辺には49軒の仕立て屋があった。アメリカ兵たちはいずれ沖縄からベトナムに派遣され、明日をも知れぬ命。“宵越しの金は持たない”と、特に給料日(ペイデイ)になると金遣いが荒くなったという。

スーツは飛ぶように売れるも経営難

創業当時の進さん(佐久本洋服店提供)

 飲食店では高い酒が次々に注文され、オーダースーツも飛ぶように売れた─。

「ですが父はアメリカ兵からの注文は頑なに受けていなかったんです。アメリカ人はずっとここにいるわけじゃないですし、兵隊を中心に商売をすれば先がないと思っていました。だからほかの店は儲けていたんですがうちの経営は厳しかったようです」

 そして沖縄は日本本土復帰を迎える─。

 復帰後、進さんに転機が訪れた。本土系の百貨店『三越』('70年に大越より改名)で紳士服やスーツのデザイナーとして採用され、社員として入社した。

 さらに'74年には三越内に佐久本洋服店の出店も果たしたのだ。

 復帰直後、コザ市の佐久本洋服店周辺の仕立て屋は13軒まで減っており、現在で残るのは同店のみ。進さんの見込みは当たっていた。

 ベトナム戦争の終結とともに多くの米兵は去り、多くの仕立て屋でアメリカ人からのオーダースーツの注文が減った。

 その代わりに米兵と一線を画していた佐久本洋服店には県民からの注文が増えた。本土系の有名百貨店・三越への出店も後押しとなり、地元でも人気の店になった。

「父は三越の支店で働いた後、コザの店でも毎晩遅くまで仕事をしていました。私たち兄弟はその背中を見て育ちました」

 要さんは5人兄弟。現在、同店の社長を務める兄の学さん(56)と要さん、ほか2人の男兄弟は父の影響もあり、服飾関係の仕事についた。

 学さんは高校卒業後、東京のテーラーに住み込みで7年間修業をし、帰沖。父とともに店を盛り上げた。要さんは高校卒業後、県外の服飾系専門学校で学んだ後、短期間渡英。帰国後、三越内の店舗に立った。2001年まで同店内の店舗に勤めた。

「かりゆしウェア」台頭による危機

復帰前、沖縄市照屋にあったかつての店舗(佐久本洋服店提供)

 変化したのは顧客の層だけではない。スーツのデザインやスタイルも、だ。

 1980年代。時代はバブルの真っただ中。

「主流はソフトスーツという、肩幅が広いいわゆるバブルスーツが主流でした。背広もズボンもサイズは大きめで丈も長い。背広のボタンはダブル。一方、2022年現在のスーツのスタイルは背広もズボンも細身で丈は短めです。ボタン位置も高いんです。ただ、ファッションは周期です。微妙に形を変えながら流行を繰り返しているので、もしかしたらゆったりめのスーツが再び流行るかもしれない」

 バブルのころにはすでに既製品のスーツが紳士服売り場を占めるようになっていった。

 そして県内の仕立て屋に危機的な状況が訪れる。『かりゆしウェア』の台頭だ。

 転機は2000年に行われた九州・沖縄サミットだった。出席した各国の首相らがかりゆしウェアを着用、その影響もあり、一気に県民に定着した。かりゆしウェアとは、沖縄を想像させる色柄の生地を使ったシャツのこと。さらに沖縄県縫製業組合に加盟している業者により縫製されたシャツを指す。

「私たちは背広の仕立て屋です。かりゆしウェアがカッコいいとは思えなかった。いくら商売とはいえ、自分たちがよい、と思えない商品をお客様には売れない。そのためスーツやシャツ、ネクタイの仕立てにこだわり続けたんです」

 だが国が推奨する『クールビズ』も追い打ちをかけ、夏場のビジネスシーンはかりゆしウェア一色に。葛藤したまま歳月は流れていった。

「私たちが引っかかっていたのは既存のかりゆしウェアで主流だったアロハシャツ的なデザイン。ですがそれに似せる必要はない。仕立て屋がプロデュースして自分たちがカッコいいと思う、夏場に着られるシャツを作ればいいんじゃないか、と考えを切り替えたんです」

『紅型夏シャツ』で挽回

紅型夏シャツ。ボタン部分のさりげない紅型のあしらいがポイント。県内外から注文が寄せられ、贈り物でも人気(写真/藤井千加)

 そこで2014年に考案されたのが『紅型夏シャツ』だ。特徴は高い襟と襟元のボタン。さらに紅型をボタンの下の生地にあしらい、さりげない沖縄らしさを演出。洗練されたデザインと、製造枚数も限られているためほかの人とかぶることも少ないことからおしゃれな男性たちが注目。県内外から注文が相次ぎ、リピーターも少なくない。

 だが一方で、スーツを取り巻く環境は依然として厳しい。沖縄県はスーツ着用率が全国で最も低く、このコロナ禍は向かい風になり、仕立て屋の数も減少している。

 しかし、希望は残る。新成人たちがオーダースーツに注目していることだ。

「沖縄の成人式は仲間と一緒におそろいの袴をレンタルする、という動きが根強かった。それが最近ではおそろいのオーダースーツを着よう、という若者たちも増えているんです、自分でバイトをして資金を貯め、注文する子もいるんです。成人式後でも、その仲間の誰かの結婚式にはほかの仲間とみんなで合わせて着るのもよい思い出になります」

 同店では2002年からインターネットでのオーダーも受ける。

「スーツをカッコよく着こなすためには自分のサイズに合うものを着ることが大前提なんです。身体に合っていないとスーツに着られてしまう。色柄やブランドも大事ですが、まずは身体に合ったものを選ぶことが大切。自分の体形に合ったスーツを着る姿はカッコいい。周囲から褒められた、とうれしそうに話す人も多いんですよ」

 歴史に翻弄されてきた沖縄県。米軍統治から日本へ、仕立て屋が見てきた50年。おしゃれを楽しむ男性たちの笑顔はいつの時代も変わらない。

教えてくれた人は……オーダースーツの「フェローズ」佐久本要さん
●佐久本洋服店取締役。進さんと同じ日本メンズアパレルアカデミーで学ぶ。兄の学さん、要さんは共にデザインと縫製も担当。

<取材・文・写真/藤井千加>