清水ちなみさん 写真提供/文藝春秋

 20代からコラムニストとして数多くの著書や連載を書きあらわしてきた清水ちなみさん(60)。2人の子どもを出産し、30代、40代は子育てに追われながら大量の締め切りを抱えていた。

大量の鼻血、激しい頭痛、46歳でくも膜下出血に

「娘を出産してから血圧が高くなり、上はいつも230くらいだったんです。頭がクラッとして歩けず、かがんで靴ひもを結ぶのもしんどい……。なんとなく、このままではまずいなぁという気持ちがありました」

 身体に異変を感じたのは2007年の秋ごろ。自宅近くを運転中に、目を開けているのに突然前が見えなくなり、スピードを落としてなんとか帰宅。すると視界はたった2m、鏡を見ると右目が寄り目になっていた。

「大学病院を受診してMRI検査を行うも、結果は『異常なし』。血圧を下げる降圧剤を処方されましたが、医者嫌い、薬嫌いの私は飲まずに過ごしていました。それから3か月後、深夜に大量の鼻血を出したのです。

 家族は就寝中で、鼻血はタラ~ッと垂れ続けて止まらない。寒いトイレの中で2時間がたち、ようやく大声で夫を呼んだときには気を失い、白目でいびきをかいていたそうです」

 身体はいろいろとサインを送っていたのに、それでも治療を先送りにしていた清水さん。2009年の46歳のとき、激しい頭痛が起こり、くも膜下出血を発症する。

「家族でテレビを見ていたときに、頭の中が破裂したのです。雷に打たれたような痛みで、例えるなら『出産の3倍くらいの痛み』。

 以前、テレビで『くも膜下出血になった10%の人が、人生の中で一番強い痛みを感じる』と医師が話していたのを思い出し、私はその10%に当てはまると思うほどの強い痛みでした」

 大学病院の脳神経外科で、破裂脳動脈瘤(りゅう)によるくも膜下出血と診断され、「すぐに手術をしないと命に関わる」と言われるが、一度は手術を拒否。帰宅してからも頭痛と吐き気が強く、数日後にようやく手術することを決めた。

「私の父も、祖母も脳梗塞で倒れて亡くなっているので、家系としてもリスクが高かったのです。それなのに病院にも行かず、薬も飲まなかったので、今思えばなるべくしてなったのかもしれません。当時、息子は中学1年生、娘は小学2年生でまだまだ手がかかる時期でした」

脳梗塞、失語症になり名前すらわからない

 清水さんが受けた手術は、カテーテルを挿入して動脈瘤を塞(ふさ)ぐ「コイル塞栓術(そくせんじゅつ)」。手術でわかったのが、くも膜下出血とはまったく別の場所で脳梗塞になっていたことだ。

「脳梗塞で左脳の4分の1が壊死して、同時に『話す・聞く・読む・書く』機能が損なわれる失語症に。集中治療室で3日間眠り続けて目を覚ますと、『お母さん』『わかんない』の2語しか話せなくなっていたのです」

 名前も数字も時間もわからない。話したいこと、伝えたいことは心の中にあるのに、言葉にすると『お母さん』『わかんない』に変換されてしまう……。

 右手もまひして指を曲げる動きができず、握力もほぼない。そんな状況にもかかわらず、清水さんだけでなく家族も悲観的になることはなかった。

「失語症の症状は重篤でしたが、絶望することはありませんでした。今までやりたいことを夢中でやってきたんだし、仕方ないかなと。私が何を話しても『お母さん』を連発するので、夫や息子、娘もおかしくて笑っていました」

 その後、リハビリ病院へ転院。発声や聴覚、日常生活のトレーニング、手足や体幹の回復を促すリハビリに取り組んだ。

通っていた治療院では天井から下がったロープに手足をのせ、筋力を強化するリハビリも行った。「まひしていた右手の握力は3か月で2倍に」 ※写真は清水さんではありません 写真提供/文藝春秋

「『雨』『犬』など絵を見て単語を読んだり書いたりするのですが、『雨』だったら『あ』と『め』の2つの音があり、頭の中でそれが分断されている感じなんです。最初は全然できなくて、簡単な単語を読み書きするのが難しいパズルのようでした。

 お風呂に入りたいときも『お風呂』という言葉が出なくて、指をさして『ここに行きたい!』と身振り手振りで訴えました」

 自分の名前と住所や1~10までの数字を書く練習、服の脱ぎ着やお風呂に入る訓練などを続け、退院。自宅に戻ってからは家族とのコミュニケーションがリハビリになり、医師も驚くほどのスピードで回復した。

「うちはみんなよくしゃべるので、日常会話で単語を覚え、子どもたちにも手伝ってもらいました。例えば私の言いたいことが『たこ足配線』だとわかったときには単語をノートに書いてくれたりして、教える側と教わる側が完全に逆転しました。

 特に娘は、『歯ブラシはこう動かしたほうがいいよ』とか、『中指が動いていないからこうしたほうがいい』とか指摘が的確。リハビリの先生のようでしたね」

失った言葉を取り戻し、再び「書く」仕事を

 ファスナーの開け閉めに2年、髪をゴムで結べるようになるまでは5年以上かかった。MRIで脳を確認すると当初より広範囲に脳梗塞が広がっているが、医師は「清水さんの脳の画像と回復度合いは乖離(かいり)している」と驚く。

「日常生活がある程度できるようになった'18年ごろ、パソコンを使いたい、キーボードを打ちたいと思いました。

 言語聴覚士の先生が、キーボードの画像をプリントアウトしてくれて、『A、I、U、E、O』から指を動かす練習をして、今では文章が打てるまでになりました」

 初心者パソコン教室にも通い始めたころ、記事執筆の依頼があり、闘病記を綴った連載がスタート。脳梗塞の発症から約10年たち、単語もわからなかった清水さんが、再び文章を書くまで回復した。

最近の手書きの文字。病気を発症する前の状態に近づいてきた。「時々思い出せない単語もありますが、失語症になった当初より脳内の単語数が増え、文章を書けるまでになりました」写真提供/文藝春秋

 現在は、多少の不自由はありながら、料理や洗濯などの家事、買い物、人との会話など何でもできる。

ベランダで野菜を栽培したり、フラメンコ、体操、テニスなどの運動をしたり、病気になって以来、いろんな趣味に挑戦しています。ミシンを使えるようになり、自分のワンピースや夫の布製財布も作りました。

 病気になる前は車に乗っていましたが運転免許は失効。その代わり地図を見ないで歩くのが楽しくなりました。自分が“いい感じ”と思う方向へ歩き、裏道や景色を楽しんでいます」

 膨大な数の仕事を抱え、寝ないで仕事をしていた30代。そのころにはできなかった暮らしを、今、味わうことができている。脳梗塞の手術をしてからは、見える景色が変わったと話す。

「病気の影響もあるかもしれませんが、夜になると空間に模様が見えたり、キラキラとした花火が見えたりすることがあります。ある年の秋、二十歳になる娘と家の近くを歩いていました。

 その日は中秋の名月。お月さまは、真ん中は黄色で、外側はただの青ではなく、つゆ草のようなきれいな青でした。私の目には病気以前よりずっと世界が美しく見えるんです」

 脳梗塞の診断から14年。書く仕事を通して再び「言葉」に向き合い始めた清水さん。

脳梗塞、失語症で言葉は一度失われ、赤ちゃんになりました。何もない状態からリハビリをしてまたスタートしたわけです。

 昔、自分が書いた文章を読むと感心することはありますが、一度言葉を失ったからこそ、今の自分から湧いてくる言葉もあるとも思います。これから私なりにいい言葉をつくり、表現していくことが楽しみです」

清水ちなみさん●1963年、東京都生まれ。会社員として働いたのち、『週刊文春』の連載『おじさん改造講座』をきっかけにコラムニストに。近著に『失くした「言葉」を取り戻すまで』(文藝春秋)。闘病記を綴った連載を『週刊文春WOMAN』で開始。写真提供/文藝春秋
清水ちなみさん●1963年、東京都生まれ。会社員として働いたのち、『週刊文春』の連載『おじさん改造講座』をきっかけにコラムニストに。近著に『失くした「言葉」を取り戻すまで』(文藝春秋)。闘病記を綴った連載を『週刊文春WOMAN』で開始。
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文/剣持陽子 協力/後藤るつ子