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 “公開処刑”と揶揄されたSMAPの謝罪会見から3週間がたとうとしている。5人はグループの存続を選択し、ジャニーズ事務所の先輩や後輩にも騒動を詫びる食事会に参加。騒動は収束に向かっているように見える。

 今でこそ日本の芸能界を代表するアイドルだが、そもそも彼らはどんな人物だったのか。そこで、デビュー前後から彼らを直接見てきた関係者たちに取材した。

「SMAPは売れると期待されていたグループでしたよ」

 そう回顧するのは、デビュー前のSMAPを知っているテレビ局関係者。磨けば光る原石に入れ込むジャニー喜多川社長は、彼らのスター性を買っていたという。

「光GENJIのバックで踊っていた彼らを、ジャニーさんは自分の車に乗せて仕事場へ送り迎えしていたくらいですから、周りは“次にデビューするのはこの子たちなんだな”と思っていました」(前出・テレビ局関係者)

 ただ、1988年に結成されたばかりのSMAPは鳴かず飛ばず。1989年のNHK朝ドラ『青春家族』に出演していた稲垣吾郎の人気は出ていたが、1991年に出した初シングルはオリコン2位。

 そこに彼らの担当マネジャーとして手を挙げたのが、今回の分裂騒動でジャニーズ事務所を退社に追い込まれた女性のIマネジャーだった。

 Iマネジャーはかつて、こんなSMAP誕生秘話を明かしたという。

「最初は『スマッブ』だったんです。ジャニーが“スポーツ・ミュージック・アッセンブル・ボーイズでどうだろう”という話をしていたんですが“B”より“P”のほうが語感がいいということで『SMAP』にして“ピープル”に変えたんです」

 人気に火がついたのは、『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)の前身と言われる1992年からスタートした番組『夢がMORIMORI』(フジ系)。

「これは当初、森口博子、森脇健児、森且行の“森”から取った番組名でしたが、途中から森口と森脇の影が薄くなり、SMAP中心の番組になっていきました」(前出・テレビ局関係者)

 1993年のフジ系ドラマ『あすなろ白書』で木村拓哉がブレイク。中居正広は、バラエティー番組の司会やキャスターとしての活動が目立つようになる。

 1996年には前述の『スマスマ』がスタート。SMAPは国民的アイドルグループへの階段を上り始めた。

 Iマネジャーは、こうも語っていたという。

「彼らはひとつひとつを中途半端にやってこなかった。お笑いをやるのにアイドルだからって“口紅はイヤ”とか、いっさい言わなかった。稲垣もドラマで超二枚目をやっていましたが、だからといって『MORIMORI』で斜に構えるわけでもなかった」

 Iマネジャーは当時、バラエティー番組のネタ探しや情報収集ができる勉強の場として、あえて彼らに電車での移動もさせていた。

「普通の感覚から生まれた子たちなんです。いわゆる“ドリーム・ボーイ”ではありません。苦労なしにここまで来たわけではなく、一人前になるための道は通ってきた」