「身内なのだから、面倒を見るのは当たり前」

 そう頭では理解していても、認知症になった家族を思い続けることは、実に難しい。介護は配偶者や子どもたちの生活の一部を確実に奪い、大きな負担をかけるからだ。時間、お金、心身をも削られ、“介護うつ”になるケースも多い。

 それでも逃げることなく、患者と向き合い続ける家族がいる。介護の現場を密着取材し、喜怒哀楽に迫った。

穏やかだった妻が叫び暴れて…豹変ぶりに“いっそ2人でどこかへ…”

「妻の顔つきが、どんどん変わっていきました。穏やかで寡黙な妻が、ものすごい目つきで、ひどい言葉を吐くようになり……ア然とするばかりでした。先のことを考えると頭が真っ白になり、“このまま2人でどこかへ……”という思いが何度もよぎりました」

 栃木県在住の小竹敏郎さん(仮名・67)は、変貌する妻の良美さん(仮名・67)の様子に当初、戸惑うばかりだったという。

 長女の智恵さん(仮名・41)と長男の聡さん(仮名・38)と一緒に良美さんを支えるが、介護の精神的負担が大きく、智恵さんはうつ病に。認知症患者は、同性に厳しく当たる傾向があり、良美さんは智恵さんの髪を引っ張ったり蹴ったりすることもあったという。

 2010年秋に若年性アルツハイマーと診断され、翌年7月には要介護3。’12年には歩行や箸を持つことが困難になり、要介護5に認定された。現在は全介護状態で、特別養護老人ホームに入所している。

 取材当日、特養を訪問したご家族の姿を目にすると、良美さんの表情がパッと明るくなった。「うふふ」と声を出して笑う一方、記者に向ける表情は硬い……。

お世話の間じゅう笑顔を絶やさない男性職員。敏郎さんも妻に優しい眼差しを向ける
お世話の間じゅう笑顔を絶やさない男性職員。敏郎さんも妻に優しい眼差しを向ける

「職員のみなさんが笑顔で細かく声がけをして、入所者の様子を見てくれています。異常に気づくと、自分の作業を途中にして、すぐに対応してくれる。失禁の対応も早い」と敏郎さんが絶賛する「理想の施設」。信頼度は高い。

 リハビリのため、病院に移動しようとしたその瞬間、良美さんがお漏らしをした。尿受けパッドがずれてしまったようだ。「あっ濡れてる!」という敏郎さんのひと言に、男性職員の反応は素早かった。

「良美さ~ん、大丈夫だからね。身体起こすよ~よいしょっと。寒かったのかな?」

 そこに、智恵さんの声が重なる。「よかったね~スッキリしたね~お母さん」──。

 強張った表情をしていた良美さんがニコッとほほ笑んだ。車での移動中も、家族が次々と良美さんに話しかける。

「妻は昔から車に乗るのが好きで、外に連れ出すと喜ぶんです」と敏郎さん。

「リハビリは筋力・体力の衰えを食い止めるほかに気分転換のためという思いもあります。乗った瞬間から、妻の表情が生き生きしてきたでしょう。最近、目の輝きが違うんです。こんな笑顔を見られると思わなかったからうれしい」

 母の症状がひどい時、大変な思いをした智恵さんも、

「今でももちろん、お母さんはかけがえのない存在。とにかく長く元気でいてほしい」

 と変わらぬ愛情を口にした。

電動車イス対応の車で病院へ。敏郎さんは慣れた手つきで固定フックを装着する
電動車イス対応の車で病院へ。敏郎さんは慣れた手つきで固定フックを装着する

家族の前で見せるとびきりの笑顔が、別れの時間が近づくにつれ…

 ほどなく車は同県内のリハビリテーション病院に到着。

「先生や指導員とはうまく連携がとれていて、細かい症状の変化も報告し合います」

 敏郎さんが語るのは安心感だ。介護職員や病院スタッフが家族の心のよりどころになっていることがわかる。

 リハビリ室に移動すると、指導員が良美さんの固く曲がったままの足の関節を伸ばし始めた。右足は左足の何倍も固く、持ち上がらない。時間をかけ、ゆっくりとほぐす。

 両足を指導員、身体の周りを智恵さんと聡さん、両腕を敏郎さんが支え「いち、に、いち、に」という掛け声に合わせ、ゆっくりと進む。

 良美さんのやる気を持続させるため、智恵さんが犬のぬいぐるみで誘導したり、聡さんが話しかけたりする。良美さんはケラケラ声をあげて笑ったりしゃべったり。良美さんのためのリハビリは家族がふれあうための時間になっている。

 足を触らせてもらうと、リハビリ前は岩のようだった右足が左足とほぼ同じくらいプニプニと柔らかくなっていた。

リハビリで歩行練習中。夫が先導し、長女が補助し、長男が見守る
リハビリで歩行練習中。夫が先導し、長女が補助し、長男が見守る

 特養に戻った。前出の男性職員は、

「最近、良美さんは表情が豊かになってきました。基本、にこやかな方です。職員にニコッと笑いかけてくれますが、ご家族の前での笑顔は違いますね。格段にうれしそうで、かなわない」

 小竹家は、頻繁に施設を訪れる。それが一家の当たり前になっていて、聡さんは、

「仕事が忙しくて、毎日会いに行けるわけではないけれど、時間ができたときには、母のところへ行くようにしています。自分ができる限りのことはしてあげたい」

 前出の男性職員は、

「小竹さん一家ほど来てくれるご家族は少ない。年に1回の場合や、音信不通になる場合もあるくらいです。“最近、孫が来ねえんだ”“私なんてもう、死んじゃったほうがいいんだよ”と荒れたり落ち着きがなくなる方も出てきます。ご家族に愛情があるかどうかって、重要なんですよね」

 家族が帰る時間が近づくと、良美さんは寂しそうな表情を見せ始める。夕方4時ごろ……。いつもなら「この時間になるとあんまり笑わなくなるんですよね」(前出の男性職員)という時間帯に、この日初めて、記者に笑いかけてくれた。

「初対面の人に対してはずっと、“誰なの?”っていう態度で終わってしまうことも多いんですよ。すごいなぁ」と敏郎さん。夫や子どもらが話しかけても、笑顔は昼間より少なくなっていく。

「お別れはしないんです。寂しがるから。切ないけれど、最後はひっそりといなくなります」と敏郎さん。

 良美さんが職員と話している間に、家族は、そっと施設を後にした。

安心させるため、良美さんの個室のテレビや配置は実家とほぼ同じ
安心させるため、良美さんの個室のテレビや配置は実家とほぼ同じ