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 11月20日、最後まで相撲界を見守って旅立った北の湖親方。彼のように、人々の記憶に残るような力士たちは数多く存在した。そんな国民に愛された力士たちを振り返ろう。

 千代の富士の天敵と言われたのが、正反対のキャラを持つ隆の里。幕下時代に糖尿病を患い、治療しながら土俵に上がった。自ら医学書を読みあさって勉強し、食事療法にも熱心に取り組んだ。そのかいあって、30歳で横綱昇進を果たす。

「初土俵から実に15年というスロー出世でした。苦心を重ねた姿から、当時人気だった朝ドラにちなんで“おしん横綱”と呼ばれたんですよ」(スポーツ紙記者)

 横綱在位は15場所と短かったが、記憶に残る力士だった。相撲のパフォーマンスは取組だけではない。豪快な塩まきで知られるのが水戸泉だ。天井めがけて大量の塩を高々とまき上げ、観客から喝采を浴びた。

「新十両の場所中、付け人から“勝ち星に恵まれないときはせめて塩だけでも景気よくまいたらどうですか”と言われてまくようになったんです。1回にとる塩の量は、何と600グラムにもなったとか」(前出・スポーツ紙記者)

 貴ノ花は若貴2人を育てたが、元関脇鶴ヶ嶺は息子3人を力士にした。それが鶴嶺山、逆鉾、寺尾の井筒三兄弟だ。末弟の寺尾は源氏山力三郎と名乗ったことがあるが、改名した途端に負け越し古くささも嫌で寺尾を四股名にした。

 昭和61年には兄・逆鉾と同時に三賞を受賞し、平成元年3月場所で2人同時に関脇に昇進する。翌年には千代の富士の土俵入りで太刀持ちと露払いを務めた。太れない体質で軽量に悩んだが、筋肉質な身体と甘いマスクで女性人気が高かった。

 超大型力士として“黒船襲来”と恐れられたのが小錦。高見山に誘われてハワイからやって来た。昭和57年の新弟子検査では上限150キロの体重計では計測できず、2台に片足ずつ乗せた。昭和59年に入幕を果たし、2場所目で千代の富士と隆の里を倒して12勝3敗の好成績を挙げる。

「いちばん重いときは体重が287キロでした。さすがに重すぎてケガが多かったんですね。昭和61年に関脇になりますが、右ひざを痛めて陥落。それでも翌年に外国人として初の大関になったんですから大したものです。最後はまったく足が出なくなって引退しました」(前出・スポーツ紙記者)

 平成10年にタレント『KONISHIKI』として再出発した。