地下鉄サリン事件から今年で20年。オウム真理教にわが子を奪われた親、自ら青春を捧げた子どもたちにも、それぞれの20年があった――。

オウム家族1
事件の後遺症で永岡さんは現在も酸素吸入器が手放せない

 2月中旬、永岡弘行さん(76)はオウム真理教の一大拠点だった山梨県旧上九一色村富士ヶ嶺(現・富士河口湖町)に出向き、慰霊碑で手を合わせた。

 出家信者だった息子を取り返すために闘っていた当時、ほかの信者の親とともに月3回、教団施設近くで「帰っておいで」と呼びかけを行っていた。

「本当に素晴らしく、牧歌的なところ。以前は風景を見る余裕がなかった」

 修行で肉は禁止と聞いていた親たちは、匂いが伝わるように、周囲でバーベキューをしたこともあった。

「考えられることのすべてはやっていたが、償うことのできない大罪を犯してしまったのは、お詫びのしようがない」

 地下鉄サリン事件が起きて20年がたった。

「端的に言えば短かった。あっという間でした」

 事件の2か月前、永岡さんは突然倒れた。運ばれた慶応病院には、’94 年の松本サリン事件を調べていた医師もいた。

「脳梗塞ではない」

 病気の症状ではない。そのためか当初は自殺未遂とみられ、交番勤務の警察官は「借金を苦にした自殺」と判断していた。

 親族や知人にしか病院に運ばれたことを知らせていないのに、電話があった。

「永岡さんと仕事をすることになった者だが、入院していると聞いた。様子はどうでしょうか?」

 刑事が警備をすることになった。

 1995年3月、地下鉄サリン事件が起きて教団施設が強制捜査されたあと、信者によって、永岡さんの後頭部に猛毒のVXガスがかけられたことが発覚した。

「どうやってかけられたのかはわからない。実行犯が語り始めたからこそわかった事件でした」

 永岡さんが狙われたのは、信者の親によって作られた『オウム真理教被害者の会』の会長だったからだ。

 1989年、坂本堤弁護士らと発起人会を持った。「世の中には誰かがやらなきゃいけないことがある」。坂本弁護士はそう言っていたが、数日後、一家3人が消息を絶った。殺害されたとわかるのは地下鉄サリン事件後だ。

 『被害者の会』にかかわったのは、長男が信者だったからだ。大学に入ったころに、出版物を通じて教団と出会った。それから大学を中退、出家した。

 息子に“どうして教団に惹かれるのか?”と聞いたことがある。“オヤジは人のために何かをしようと思ったことがあるか?”と答えた。

 何を生意気なことを言っているんだと思ったが、決めつけもよくないと、何度も麻原(死刑囚)の説法に通った。

 永岡さんは長男をどうしても脱会させたかった。麻原死刑囚は「ダライ・ラマ法王から最終解脱者だと言われた」と吹聴していた。そのため、法王に会いにいくことにした。

 直に確認すると、法王の答えは、

「自分もまだ修行中の身。人様に“あなたが最終解脱者”などとは絶対に言わない」

 このやりとりがあって、長男は表情が変わったものの、呪縛からはまだ逃れられない。

「信者は一点しか見ることしかできない人たちで、われわれからしたらみんな子ども。考え方はまじめだが」

 しかし、どうしても脱会させたいと思っていた。

「うちの息子によって自分がしている思いを、赤の他人の親御さんにさせるのは許せない。自分の頭で考えられる人間に戻すのは、親の義務だと思った」

 ‘90 年2月の衆議院選挙で教団は『真理党』をつくり、麻原死刑囚を含む25人が立候補した。この選挙期間中、長男は脱走した。ようやく永岡さんは脱会させることができた。

 信者たちが罪を犯すということは、その家族は“加害者家族”にもなる。当初は『被害者の会』としていたが、永岡さんは「おこがましい」と感じた。

「被害者と言っていても、必ず加害者側に回る。そのことを考えれば、一刻の猶予もない」

 そのため名称を『家族の会』と改め代表を務めた。妻も一緒に闘った。

「お互い我が強いけれど、悪いと気がついたら率直に謝る。意見が違うこともありますが、冷静になって考えると意見は一致している。私は今の女房をもらって幸せです。苦労をかけたが、いろいろ我慢してくれた」

 教団による一連の事件では、実行犯にも死刑判決が出ている。永岡さんは麻原死刑囚以外の死刑執行には反対の立場だ。

「“(信仰のために)よいことをしている”と言って殺人までするのは例がない。自分の頭で考えていない」

 事件はさまざまな影響をもたらしたが、年月がたてば風化もしていく。「常としてやむをえない」と静かに語った。

<取材・文/ジャーナリスト渋井哲也>