国内で唯一、一般住民を巻き込んだ地上戦が行われた沖縄では、県民の20万人以上が亡くなっている。

 元沖縄県立看護大学教授(精神保健看護学)の當山冨士子さんは、保健師を経て、大学の教員として長く学生の教育や研究に携わってきた。

「保健師は、受け持ち地域住民の健康管理をはじめ、個々の家族の相談にも関わっていきます。そのため家族の心身の健康だけでなく、背景や経済状況なども把握し、必要な支援をします」

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沖縄戦の戦没者遺族でもある當山さん

 當山さんは保健師のころ、戦争は過去の出来事としてしかとらえていなかった。しかし激戦地であった沖縄本島の南部の村から大学に移り、沖縄戦と精神保健についての研究を始めると「沖縄戦はいまだ終わっていない」と実感した。

 そのため當山さんは、担当した事例を丹念に見ることにした。すると戦争を意識しないまま書いた支援記録から、沖縄戦の影響が見えてきたことに愕然とした。

 沖縄戦のトラウマ反応は、ベトナム戦争の帰還兵の心理的な影響では言われていたが、沖縄戦では、なかなか認知されてこなかった。

 精神的な影響として、まるで目の前で体験しているように昔の記憶が思い出されたり、興奮状態に陥ったり、発作が起きたりする。沖縄戦の話題を必要以上に避けることもある。あるいは、思い出すことで眠れなくなる。命日などの特定の日時や場所、時間、環境、匂いなどによって思い出し、不快な感情が出て、日常生活に支障をきたす。

 同じく沖縄戦のトラウマを研究している精神科医の蟻塚亮二さんは、「トラウマを抱えた体験者の場合、掃除機の音が機銃掃射の音に聞こえたり、音が怖いので花火大会を見れなかったり、火薬の匂いがするのでマッチがすれなかったりもします」と指摘している。

 前出の當山さんが以前、保健師をしていたのは離島と沖縄本島南部。本島南部のある村は人口約7000人。推定戦没者は当時の村の人口の約40%と県平均の25%を上回った。

 この村で保健師が把握した精神疾患の患者は96人。支援し記録が残っていたのは40人だった。この40人に1990年、あらためて『沖縄戦と精神保健』の問題を中心に面接調査を行った。40人のうち、沖縄戦の影響が把握できたのは34人(男性20、女性14)。年齢は33歳から86歳で、平均57・3歳となっていた。

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沖縄方言で「ガマ」と呼ばれる自然洞窟や壕を火炎放射器で焼き払う米兵。生きたまま殺される人も多かった

 沖縄戦の影響(重複)は、大きく4つに分類。身内の死亡などの直接的影響が30人。死亡の内訳は、配偶者3人、両親4人、両親のいずれかは10人、長兄や長男9人、その他の同胞22人だった。また負傷は7人で、頭部の負傷は5人、このうち外傷性テンカン(疑いを含む)3人。精神疾患の発病等への直接的・間接的影響は10人。戦争そのものが誘因になったと思われるグループと、戦後の家庭問題が誘因になったと思われるグループに分けられた。

 例えば、ヨシオさん(仮名=当時40歳)は戦時中盗みの疑いで、隣の壕に入り込んで来ていた日本兵に、頭や身体を殴打され半殺しの目にあい意識を失った。家族や周りの人たちは止めることができず、黙って見ているしかなかった。

「盗みもしていないのにあの兵隊が憎らしい」と、妻は顔をこわばらせて怒りをぶちまけた。命は取りとめたものの、終戦後から1日数回の発作が出ていた。

 ヨシオさんの手足には農作業中の発作の際に作った生傷が絶えない。部屋には発作時のケガを予防するため、家具もろくに置けない。ストーブもない部屋は、冬には一層寒々としている。

 PTSD様反応や不快な感情などがあったのは19人だった。マキコ(仮名=当時19歳)は当時のことが鮮明に脳裏に残っている。戦闘協力者として飛行場作りなどの作業をさせられていたが、「軍人に殺されはしないか」「周囲の人に軍人との関係を噂されるのではないか」と作業中も終始心の休まる時はなかった。

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大量の砲爆撃を受け『鉄の暴風』と呼ばれた地上戦は3か月続き、県民の4人に1人が亡くなった

 戦況が激しくなり、村内や近くの村を家族と逃げ回った。その時、左耳の後ろに破片があたり気を失った。

 現在も時々、大発作があるため、家事や外出も制約される。人ごみの中に行くと「戦時中のドサクサの中にいるみたい」「死人がゴロゴロしているようだ」「米兵が追いかけてくる」などのトラウマ反応がひどく、ひとりで受診もできない。

 家庭問題等への直接的・間接的影響は21人いた。戦後になっても、さまざまな問題を引き起こしている。

 クミさん(仮名)は夫が戦死し、5人の子どもと姑をかかえ、行商をしながら生活していた。仕事で忙しかったために、夫が亡くなったことの行政などの手続きを近所の人がしてくれていた。やっと処理が終わり、近所の人に「ありがとう」とお礼を言うと、なかば強引に性的な関係を迫られた。その結果、妊娠。お金がなかったこともあり、堕ろすに堕ろせない。出産したトウジ(仮名)は非嫡出子として育てられた。

 それでも行商を続けていたクミさんだが、母乳を飲ませる時間もなく、トウジは姑が砂糖水を与えて育ててくれた。夫の遺族年金は入ってくるが、「これはうちの夫が亡くなったからもらえるもので、夫の子ではないあなたにあげるわけにはいかない」と、夫の子どもたちとトウジとは分けて育ててきた。

 その後、実夫の子どもが成人したため、クミさんはトウジと一緒に離れに小さな家を建て生活するようになった。頼るもののいないトウジは「お母さんが亡くなったらどうしょう」と不安がる。クミさんは「大丈夫、自分はあなたが元気になるまでは100歳でも120歳まででも絶対死なないからね」と話していた。

 この話を打ち明けることができたのは、當山さんの調査があったため。誰にも言えずに心に秘めていた。

 沖縄戦後の影響について遅れてきたのは理由があるという。前出の蟻塚医師は、

「沖縄の精神科医の中でもなかなか沖縄戦の話ができず、タブーになっていました。ただ地元紙が体験者のことを記事にしたことで、語ってもいいという素地ができた」と分析している。

 沖縄戦の記憶について調査をしてきた大阪大学大学院の北村毅准教授(文化人類学)は、「話したがらないのは、自分や家族の壮絶な体験を目撃していて、(生き残ったことに罪悪感を覚える)『サバイバーズ・ギルト』のような状態だったのではないか」と指摘する。

 ただ、近年になって話し始める人も増え始めた。2007年の高校の歴史教科書の記述で、沖縄の集団自決の部分で「日本軍の関与」部分が削除・修正されたことで、沖縄県民が怒りを表したことは記憶に新しい。

「自分たちが黙っていたために、きちんと伝わっていないと思い始めたのです」(北村さん)

 當山さんは12年に『沖縄戦体験者の精神保健』について調査した。特にトラウマとの関連について把握するためだった。沖縄本島6市町村と2離島村の介護予防事業に参加していた75歳以上の沖縄戦体験者401人で、PTSDを疑われるほどのトラウマを抱えた人が39.3%いた。

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かろうじて生き延びた人々も収容所へ強制的に送られるなど、過酷な生活が続いた

 また、思い出すきっかけでは、マスコミとの関係が8割と最多。當山さんは「理由として、凄惨な沖縄戦体験に加え、基地から派生する事件や事故などがマスコミにより報道されることが大きく影響しているものと考えられる」と話している。

 沖縄戦の影響は、戦争体験者だけにとどまらず、次世代に連鎖する。うつ病患者の静香さん(50代=仮名)の母親は、子どものころ、死体が放置された戦場を逃げ回った。成人してからうつ病となり、自殺未遂を繰り返した。静香さんも自殺未遂とリストカットを繰り返した。加えて貧困でもあった。さらに静香さんの娘は18歳で出産し、未婚の母となったが、ネグレクト(養育放棄)してしまう。親子関係のなかに愛着が生まれず、世代間で連鎖した。

 十分なケアがなければ次世代への影響も見逃せない。それと同時に、「本土の人たちが沖縄戦やその後の戦後処理についてまったく理解していないことの苛立ちが、沖縄にはあります」(北村准教授)

 沖縄にとって“戦争”はまだ終わっていない。


取材・文/渋井哲也 ●ジャーナリスト。自殺、自傷、依存症など、若者の生きづらさをめぐる問題に詳しい