■大人の女性が溺れる年下彼との偽りの恋

『蜘蛛と蝶』の主人公・多岐川瑠璃子は、清潔感のある整った容姿の33歳。歯科衛生士という堅実な仕事を持ち、都心に近い実家に健康な両親と住んでいます。しかし、妹が離婚し子連れで出戻り、職場では仲のよい同僚の結婚が決まり、いちばん年上の瑠璃子だけが独身で、家でも職場でも肩身が狭い。恵まれた環境で生まれ育っているのですが、異性には縁がなく、深く愛したことも、愛されたこともありません。

「僕から見れば、瑠璃子は奥ゆかしくて魅力的な女性ですが、それが裏目に出ている生き方をしています。思っていることが言えない、自分に自信を持てない弱さも抱えています」

 と、著者の大石圭さん。また、もうひとりの主人公である航平は、瑠璃子よりも9歳年下の24歳。ほっそりとしたスタイルのハンサムですが、実は崩壊家庭の出身。身持ちの悪い母や、腹違いの兄は常にお金に困っており、本人も含め、いわゆる底辺の生活を送っています。

 この航平がやむをえない事情から、瑠璃子に近づき結婚をチラつかせながら、お金を騙し取ろうとするのが本書のストーリー。展開だけを追えばシンプルですが、登場人物たちの揺れ動く心理や葛藤が、読者をぐいぐいと引き込みます。

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「僕は犯罪者を主人公にした小説を書くことが多いのですが、凶悪犯やストーカーであっても、“絶対的な悪”にはしません。悪いヤツなのに読者が思わず感情移入してしまう、応援したくなるようなキャラクターになるよう心がけています。例えば航平も、瑠璃子の純粋さに触れ犯罪を進めていくことに悩む優柔不断さ、しかし、きっぱりと足を洗えない弱さが、魅力になっているかと思います」

 仕組まれた偶然で航平と出会い、情熱的に口説かれる瑠璃子。“こんなうまい話があるわけがない”と思いつつ、“もしかして”という、魅力的な彼に愛されるチャンスを手放せません。

「年齢をごまかしている航平が干支をとっさに言えなかったり、大企業に勤めているはずなのに名刺の渡し方がおかしかったり。瑠璃子には嘘を見抜く機会がたくさんあったのですが、それらをどんどんスルーしていきます。平凡で取り柄のない自分だけど、航平には見える、何か特別なものが自分にはあるんだろうと言いきかせているんです。でも同時に、瑠璃子は航平のために本当に魅力的になろうと努力を始めるし、精神的にもたくましくなっていきます。この、女性が事件の中で変わっていくさまは、僕がとても書きたかったところですね」

 航平を疑いながら、幸せになろうとあがく瑠璃子。“どうかうまくいきますように”と、思わず読者が祈らずにいられない、健気さを感じます。

■持たない者は他人を傷つけてもいいのか

 瑠璃子の前向きな行動の原動力が“自分が寂しいことにも気づかなかった、本当に寂しい女性の恋”ならば、航平のすべての源は“金銭格差”です。彼が瑠璃子を陥れることになったのは、腹違いの兄の借金が原因ですが、その当の兄は“恵まれない境遇に生まれた自分たちが、恵まれた者から多少の金を巻き上げることは当然の権利なのだ”という価値観の持ち主。罪の意識でときに立ち止まる航平も、結局はその論理で自分を納得させてしまいます。

「底辺の生活に生きる人々は、僕の主流テーマであり、得意分野でもあります。僕自身、小説家デビューして会社を辞め、『呪怨』のノベライズのヒットで売れるまでの7年間は、相当お金に苦労しました。工場の派遣アルバイトに行き、リアルに航平のような日常を送る人を見てきたんですね。

 小説の中では“日陰に種が落ちて生えた草と、日なたの草は違う”という書き方をしていますが、富や幸せは残酷なことに配分が不公平。日陰の草が這い上がるのは、並大抵の努力ではありません」

 しかし、航平の本来の職場であるガソリンスタンドのオーナーのように、働き者で人のことを慮れる人材がいると、日陰の世界にも希望が見えます。

「航平に仕事を教え、自動車整備士になるようにすすめるオーナー、実はモデルがいるんです。自宅近所のガソリンスタンドの経営者なんですが、やっぱりすごく働く方で、とても尊敬しています。こういう人の存在に救われる人々は少なくないと思います」

 はたして、ふたりの関係は航平らのもくろみどおりに進んでいくのか……。ふたりの運命の歯車は絡み合い、大きなどんでん返しが読者を襲います。そして衝撃のラストシーン!

「僕はよく“絶望的ハッピーエンドを書く”と言われます。たとえるなら、嵐の夜に笑いながら出ていくふたり、という感じ(笑い)。今回のラストシーンは、読者に想像の余地を残しました。そういえばちょうど昨日、“強くなった瑠璃子の決断に、ある種の爽快感を覚えました”という感想をいただきましたよ」

 読み始めたらもう止まらない、平凡な女と弱い男の波瀾万丈の物語。瑠璃子の決断が気になるアナタ、秋の夜長の読書にどうぞ!

写真:『蜘蛛と蝶』1400円/講談社
写真:『蜘蛛と蝶』1400円/講談社

■取材後記「著者の素顔」

「瑠璃子にはモデルがいます。僕の通っている歯科医院の歯科衛生士さんで、彼女がわが家に遊びに来たときに聞いた話は、とても参考になりました」

 大石さんは元広告営業マンだけに、とても聞き上手。話が弾んだであろうことがうかがえます。

「いちばん話す女性は、やっぱり妻。本書のアイデアも、彼女が学生時代にアルバイトをしていたホテルで起こった、結婚詐欺事件がベースです」

 日常会話をエンターテイメントに変える、錬金術師のような大石さんでした。

(取材・文/中尾 巴 撮影/斎藤周造)

〈著者プロフィール〉

おおいし・けい 1961年生まれ。法政大学文学部卒。1993年『履き忘れたもう片方の靴』で第30回文藝賞佳作を受賞しデビュー。2003年映画『呪怨』のノベライズを手がけ、ベストセラーとなる。自身の作品の映画化も多く『湘南人肉医(映画名:『最後の晩餐』)』『甘い鞭』『1303号室』などがある。作品の幅はホラーから官能まで幅広く、かつ多作。女性ファンも多い。