全国の大学、会社から「講義をやって」とひっぱりだこの芸人・キングコング西野亮廣さん。“仕事の広げ方”“エンタメの仕掛け方”“イベント集客”などのノウハウを型破りな視点で語り、聴衆の度肝を抜いている。
「テレビの仕事をやめる」と宣言してから10年――。漫才師、絵本作家、イベンター、校長、村長など肩書を自由に飛び越え、上場企業の顧問にも就任しちゃった西野さん。どうやって“好きな仕事だけが舞い込む働き方”を手に入れたのか。その秘密を綴った異色のビジネス書『魔法のコンパス 道なき道の歩き方』の一部を、8月12日の発売に先駆けて特別掲載していきます。(毎週金曜更新)
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 冒頭から、僕の考えだけをダラダラと聞かされて、そろそろウサン臭い自己啓発本っぽくなってきたので、ここらで僕が実際におこなったアレコレについて話したい。

 ちなみに路上で色紙に名言を書いて売っている、相田みつをのコピペみたいなヤツが嫌いです。僕は体験談しか信用しないのです。

 20歳の頃にフジテレビの東京ローカルで深夜番組『はねるのトびら』がスタートした。あまり知られていないけど、この番組のレギュラーの座をかけて全国各地で大規模なオーディションがおこなわれ、1年目~10年目ぐらいの若手芸人は全員この番組のオーディションに参加した。

『はねるのトびら』は、『夢で逢えたら』(ダウンタウンさんやウッチャンナンチャンさんなどが出演)や『とぶくすり』(後に『めちゃイケ』)を例に出し、「お笑い界のビッグスターは8年ごとに誕生する」という『お笑い8年周期説』に則ってスタートさせようとしていた番組。

 その時のフジテレビの本気っぷりは、当時芸歴1年目だった最底辺の僕にまでビシバシと伝わってきた。

 全国オーディションを勝ち抜いた50組が、そこから更に『新しい波8』という新人発掘番組で1年間かけて5組に絞られ、めでたく『はねトびメンバー』が決まった。

 メンバーに選ばれた僕は有頂天。

 右も左も分からない芸歴1年目なもんで、「この番組を全国ネットのゴールデンに上げて人気番組に押しあげたら、僕もスターになれる」と信じて疑わなかった。

 たとえ、芸人としてはオイシクナイ役回りであろうと、「番組がゴールデンに上がって、スターになるためなら」と、率先してやり続けた。

 僕にあたえられたポジションは「まわし」で、画面の真ん中に立っているけど、芸人としてオイシイかどうかは微妙なところ。

 というのも、『はねるのトびら』では、「ボケ役」と「ツッコミ役」を明確に分けて、「この人が変な人で、この人は普通の人」と、わかりやすいキャラ設定があり、「まわし」役は、「普通の人」。つまり、基準になる人だ。

『チェ・ホンマンVSボブ・サップ戦』で喩えるなら、僕はレフェリーで、身長が低ければ低いほど周りが引き立つ。

 てなわけで、番組を演出するディレクターからは徹底して「普通の人」を演じるように指示されていた。

 近くに海があれば「皆さん、気をつけてください」とアナウンスをし、お葬式のシーンでは「静かにしようぜ」とアナウンスをする。一見すると、芸人のクセに真面目で面白くない奴なんだけど、そのアナウンスに含まれているのは、「海に落ちてね」「屁の一発でもこいてね」というパス。『はねるのトびら』はチームプレイだった。

 正直な話、そりゃ芸人だったら、自分が海に落ちたいし、屁の一発でもこいて怒られたい。しかしフリ(基準になる人)がないと、オチ(ボケ役の人)が輝かないことは分かっていたし、なにより、『はねるのトびら』をゴールデンに上げて人気番組にまで成長させたら、自分もダウンタウンさんやナインティナインさんのようなスターになれると信じていたので、自分よりも番組を優先した。

 あと、どこかで「とは言え、視聴者の皆さんも(チームプレイだということは)踏まえた上で観てくれているよね?」という考えもあった。

 しかし、その考えは脆くも崩れ去る。

暗黙の了解

『27時間テレビ』で、自分達が担当するゲームコーナーのゲストに明石家さんまさんをお招きした時の話だ。

「キムタク」や「ミニスカ」といった省略語の元になった言葉を、リズムに合わせて答えていくという単純なゲーム。

 生放送だったが、「明石家さんまを中心とした芸人チームが、僕の進行をトコトン邪魔して、結局、ゲームができなかった」という、「こういう流れになればいいな」的なザックリとした台本があって、皆、そのゴールに向かっていた。

 当然、僕は「説明を聞いて下さい!」「真面目にゲームをしましょう!」と叫ぶが、明石家さんまさんを中心とした芸人チームは、説明中に僕の前を無意味に横切ったり、「ごめん、聞いてなかった」と、とにかく茶化す、茶化す。

 僕は「もう! もう一回説明するから、次はちゃんと聞いてくださいよ! じゃないと、いつまでたってもゲームが始まりませんよ!」と憤る。もちろん、憤るところまでをひっくるめたチームプレイだ。

 結果、当初の目標は達成され、スタジオは沸きに沸き、生放送中に一度もゲームをすることなく、「さんまさんが喋りすぎたせいでゲームができなかった」という着地が見事に決まった。

 出演者もスタッフも、全員が「よしよし、上手くいった」という感じでスタジオを出たところ、視聴者の方から山のような数のFAXが届いていて、そのほとんどが「何故、西野は、そんなにゲームをしたいんだ!?」という内容だった。

 中には、「そんなにゲームをしたいなら、芸人を辞めてゲーマーになれ!」というものも。これには驚き鼻血が出た(※驚いた時に噴き出る鼻血のこと)。

 僕のことが嫌いな人達が反応しているだけだ、と思いたかったが、都内にお住まいの60代女性から「お一方だけ、ゲームに精を出そうとするあまり、芸人の本分である“お笑い”をないがしろにされている方がいて、不愉快でした」と、震えるほど丁重に殺された。

 もちろん僕はゲームをしたかったわけではない。お笑いをしたいからゲームをしようとしていたのだ。お茶の間には「暗黙の了解」などというものは存在せず、想像以上に額面通りに伝わってしまうことを知った。

「なんで分かってくれないんだよ」と思ったが、そういえば子供の頃、いかりや長介が嫌いだった。だって真面目なことばっかり言って、面白いカトちゃんケンちゃんの邪魔ばかりするんだもん。因果応報である。

絶望と呼べる景色

 そんなことがありながらも、「それで番組がゴールデンに上がるならば」と風雪に耐え、僕が25歳になった頃、ついに番組は全国ネットのゴールデンタイムに進出。視聴率は毎週20%を超えていた。

 それに引っ張られるように、他局でも、朝から深夜まで自分達の冠番組を何本も持った。

 思い描いていた結果が最高の形で出た。が、「では自分がスターになったか?」と訊かれれば、全然そんなことはなかった。

 収入も増えたし、知名度も上がったし、「人気タレント」と紹介されても恥ずかしくはない位置には立てたと思うんだけど、「スター」にはなっていなかった。僕が右を向けば、世間が右を向くようなスターに。

 上には、ダウンタウンさんやタモリさんやたけしさんや明石家さんまさんが、以前と変わらずにいた。

 世界は驚くほど変わらなかったのだ。

 打席には立たせてもらっていたし、瞬間最大風速は吹いていたのに、だ。

 それを「贅沢」と言う人もいるけれど、そこで僕が見たのは絶望とも呼べる景色だった。

 もし、売れていなかったら「俺は打席に立たせてもらえれば、ホームランを打てる」という言い訳もできたんだけど、間違いなく売れていたし、この上ない状況で打席に立たせてもらっていたし、ありえないぐらいの追い風が吹いている中で、ホームランが打てなかったのだ。言い訳の余地がない。次に打つ手がない。

「綺麗な子が好き」という情報を聞きつけた恋する女の子が、ダイエットに成功して、お料理もマスターして、ネイルも綺麗にして、ヘアメイクもオシャレもバッチリ決めて、万全を尽くした状態で意中の男性に告白したら、「ごめん。俺、ゲイ」と返された感じ。「いや、もう絶対に無理じゃん」的状況。

 すべての条件が整った上で、「スターになる」という結果が出せなかったわけだ。

 だからこそ、「いや、このタイミングでスターにならなかったら、俺、いつなるの?」と、仕事の好調ぶりとは裏腹に、精神的には随分落ち込んだ(2日ほど)。

『はねるのトびら』は、ゴールデンに上がったあと、6年間続いたが、ゴールデンに上がった瞬間に「スターを誕生させる」という意味での勝負はついていた。ザックリ言うと負けちゃったわけだ。もちろんスタッフさんには何の罪もない。

 連日、眠い目をこすって動いてくださっていたのを見ていた。デビューまもないニキビ面を拾って、ゴールデン番組まで押し上げてくださったことを今でも本当に感謝している。

 原因は僕だね。

 たしかに、他のメンバーの〝フリ役〟に徹することを言われ続けてきたけど、今思うと、そこにかまけていた部分があったのかもしれない。

 まあ、それも結果論だ。あの時は全力だったし。結果が全てで、「結果を出せなかった」というのが答えだ。

 ただ、だからと言って、「ああ、俺はスターになれない男なんだなぁ」と折り合いをつけられるほど、僕は大人ではない。

 次の瞬間に考えたのは、「じゃあ、どうすれば、ここからスターになれるか?」ということ。とにかく諦めの悪い男なのである。

身体の形をゴッソリ変える

 さて。

 八方手を尽くし、散々っぱら結果を出した上でスターになれなかったのだから、酷だけど、自分がスターになれない人間だということは認めなければならない。

 それでもスターになりたいのであれば、今の自分ではない何者かになる必要がある。まあ、「種の変更」だね。

 それは、魚が鳥になるようなムチャクチャな話で、身体の形をゴッソリ変えるということ。

 その時、僕がとった方法は「一番便利な部位を切り落とす」というヤリ方。

 はやい話、自分が全てにおいて40点で、何も突き抜けた部分がない平凡な人間であれば、皆が使っている一番便利な部位……たとえば「腕」を切り落としてしまう。

 皆が使っている一番便利な部位は、当然、自分にとっても便利な部位なので、そこを切り落としてしまうと、最初は、それはそれは苦労するけれど、僕らは動物で、それでも生きようとするから、3年後には、コップぐらいなら足で持てるようになる。腕を切り落とさなかったら起きなかった進化だ。

 足でコップを持てる奴なんて、そうそういないから、「アイツ、足でコップを持てるらしいよ」と、この時、初めて自分に視線が集まる。

 そこで25歳の頃の僕は、自分を進化させるため、思い切って一番便利な部位を切り落としてみることにした。

 テレビだ。

 梶原とマネージャーと吉本興業の偉くてエロいオジサン連中を呼びだして、「レギュラー番組以外のテレビ仕事を全部辞める」という話をした。

 当然、皆ひっくり返って、「何言ってんの? 今一番良いじゃん! なんで、このタイミングで!? 」と説教をくらったけど、「一番良くてコレだから、やめる」と返事して、屁をこいて逃げた。

 レギュラー番組以外の仕事を全部やめることは、腕を切り落とすような強引なやり方だけれど、そのことによって、身体のどこかが極端に進化すれば、希望の光が射すのではないか。そんな淡い期待を込めての決断だった。

 レギュラー番組以外のテレビの仕事を全部やめるという選択は、「新しい繋がりを切る」ということで、他所で何かをヒットさせない限り、レギュラー番組の消滅と同時に自分の活動が先細りしていくことを意味していた。

 だけど、そうでもしないと、何者にもならないまま死んでしまうという焦りがあった。

 時々、「『はねるのトびら』が終わった時、どういう心境でしたか?」という質問をされることがあるけれど、心境と環境の変化があったのは、番組が終わった時ではなく、番組がゴールデンに上がって結果を出して、僕自身の結果が出なかった、25歳のあのタイミングだった。

 そんでもって絵を描き始めたのは、ちょうどその頃。この話は、また後ほど。

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《プロフィール》
西野亮廣(にしの・あきひろ) 1980年、兵庫県生まれ。1999年、梶原雄太と漫才コンビ「キングコング」を結成。活動はお笑いだけにとどまらず、3冊の絵本執筆、ソロトークライブや舞台の脚本執筆を手がけ、海外でも個展やライブ活動を行う。また、2015年には“世界の恥”と言われた渋谷のハロウィン翌日のゴミ問題の娯楽化を提案。区長や一部企業、約500人の一般人を巻き込む異例の課題解決法が評価され、広告賞を受賞した。その他、クリエーター顔負けの「街づくり企画」、「世界一楽しい学校作り」など未来を見据えたエンタメを生み出し、注目を集めている。2016年、東証マザーズ上場企業『株式会社クラウドワークス』の“デタラメ顧問”に就任。

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