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 7月7日、七夕の日に永六輔さんは星になった。“しゃべり”を愛し、しゃべり続け、83年の生涯をアグレッシブに生きた“漢(おとこ)”の最期は静かに眠るようだったという。晩年は病気のために言葉も思うように出ない状態だったが、仕事への情熱を失うことはなく……。

 彼の人となりをよく知るのが、'91年からTBSラジオの番組でサポート役を務めたはぶ三太郎。6月27日に『六輔七転八倒九十分』が終了すると後続番組の『いち・にの三太郎~赤坂月曜宵の口』でメインパーソナリティーとなった。彼に話を聞いてみると、

「僕は初めは出演者じゃなかったんです。番組が始まったとき、永さんが“身の回りの世話をしてくれる人がほしい”と言って、毒蝮三太夫の弟子の僕に声がかかりました。永さんはすごく忙しくて、いつも地方に出かけていましたね。金曜午後4時の打ち合わせに間に合うように帰ってきて、土曜日に生放送を終えるとまた地方へ。そこで見聞きしたことを、スタジオに持ち帰って話すんです」

 はぶは“出演者”に昇格すると、永さんからラジオに出演するにあたっての心構えを伝授される。

「教わったことはたくさんあります。よく言われたのは、“ひとりひとりにわかってもらえるように放送しなければいけない”ということでした。マイクの向こうでは何千何万、あるいは何百万人もの人が聞いてくれるかもしれないけれども、集団じゃなくて、ひとりひとりに語りかけるようにしなさい、と。遠回りして路地に入ってみるように、というのも大切な教えですね。慣れ親しんだ道でも、横丁を曲がってみると、違うものが見えてくると話してくれました」(はぶ、以下同)

 仕事には厳しい人だったという。納得できないことがあると、スタッフやスポンサーとケンカして番組を降板することもたびたびだった。鼻っ柱の強さから、“ケンカ六輔”、“ゴネ六”と呼ばれたこともある。しかし、はぶはそこには誤解があるという。

「すべてに関してノーと言ってるわけじゃなくて、永さんはいつも弱い方たちの視点に立ってものを見ていらしたんですよ。社会的に弱い立場の人、すぐ浮かぶのは障がいのある方ですよね。そういう方たちの目線で物事を見ていたんです。だから一番嫌っていたのは、権力をふりかざして偉そうにしている人たち。そういう人たちには頑として自分の意見を譲らず戦っていましたね」

永さんを恩人と仰ぐはぶ三太郎
永さんを恩人と仰ぐはぶ三太郎

■自分の身体を張って証明しようとした

 自らも病を患い、身体の自由がきかなくなった。それでも番組に出続けたのには理由がある。

「パーキンソン病を患って骨折して、普通なら身を引くかもしれません。ろれつが回ってないんだから引退しろなどとも言われました。でも、永さんはラジオが好きだから、体調が悪くてもスタジオに来たんです。こんなに弱くなっても頑張れるんだぞということを見せたかったんだと思いますよ。健康で強い人たちだけが表に出て放送できるという社会になってしまうのは怖い。そういうことを、自分の身体を張って証明しようとしたんだと思います」

 番組中に弱音を吐くことはなかったが、女性アナウンサーから「元気ですか?」と聞かれると「ダメです……」と答えて笑いを誘っていたことも。ダメだけど頑張っているという思いを伝えようとしたのだ。

「2月22日、最後にスタジオにいらしたとき、声を振り絞るようにして、われわれに何か伝えようとしていましたが、聞き取れませんでした。今、あのとき何を言いたかったのか聞きたいです。永さんはラジオに復帰したくて、亡くなる前日まで言語療法をやっていたそうです。みんな残念に思っていますが、一番悔しいのは永さんです。まだまだ志半ばなんですよ」

『大往生』では、自分自身にあてた弔辞を書いていた。

《永さんがあの世へ往ったら先に往っている皆さんに、またあることないことしゃべりまくることでしょう》