戦後71年がたち、戦争体験のある政治家が急速に減ってきた。いまや衆参議員の9割を戦後生まれが占めている。

「何があっても私たちは戦争をしない、平和に生きる。そう説いて歩く国になってほしい。それが、あれだけの加害をやった日本の責任です」

 戦争を肌身で知る世代のひとりとして、そう訴えるのは村山富市元首相だ。

 1994年から'96年にかけて、社会党(当時・現社民党)と自民党、新党さきがけによる連立政権のもとで内閣総理大臣を務めた。戦後50年の節目にあたる'95年、アジア諸国への侵略と植民地支配を謝罪する『村山談話』を発表、日本の戦争責任と反省の意を明確にし、政府の歴史認識の基調となったことはよく知られている。

 大学在学中に学徒動員された村山元首相は1944年、徴兵検査を受けて宮崎県都城へ入隊した。若き村山青年の目に、軍隊はどのように映ったのだろうか?

「軍隊というのは理不尽なところ。階級が絶対。初年兵は上官や古年兵にしごかれるわけだよ。軍服のいちばん下のボタンを開けて着ていたら、上官が呼び止めて、そのボタンをもぎ取り“つけておけ”と言ったりする。一事が万事、その調子。上官の命令は陛下の命令で、絶対服従だった」

 折しも終戦から1年ほど前。敗色が日増しに濃厚になっていったころだ。

「僕らは竹でできた銃をぶら下げて、衛兵なんかも、木製の銃を持って立っている。兵器はそんなふうだし、物資は欠乏するし」

 1日3度出るとはいえ、食事も粗末なものだった。

「例えば、汁ものなんかを作ったら、下士官には肉や具をいっぱいそそぐわけだ。われわれが食べるのは、ほとんど汁ばっかり。無性にお腹がすいて餓鬼のようになる。残飯をあさって、ポケットのなかにしまってこっそり食べている兵隊もいましたよ。

 それでも軍隊にいる間はましです。一般の国民は農村へ買い出しに行ったりして、もっと困窮していたからね」

 その後、中隊命令で試験を受け、幹部候補生となった村山元首相は養成学校のあった熊本での演習中、アメリカの戦闘機グラマンがばらまいたビラを拾う。見れば、ポツダム宣言が書かれていた。

「これでもう戦争は終わるのかと思った。降伏して負けることは残念だけど、一方で、どこかでホッとした気持ちがあったことは否定できない」

 そして終戦を迎え、絶対服従の暮らしから一転、村山元首相は「東京の大学に戻って、アルバイトをしたり、北海道に3か月も無銭旅行をしたり」と青春を謳歌する。

「(GHQによる)占領の重圧なんていうものは感じなかったね。それよりも自由になったという気持ちのほうが強かった。窮屈で、決められた枠のなかでみんながしのぎ合っていた戦争中の生活から解き放たれた」

 日中戦争から太平洋戦争にかけて、約310万人が亡くなった。そんな大きな犠牲を経て獲得した自由と民主主義の危機が叫ばれて久しい。

「特定秘密保護法ができて、武器輸出三原則が閣議決定で解除され、安保関連法も作られた。特定秘密が必要になるのは、国民に知ってもらっては困るようなことが起こりうるから。危機的な状況を喧伝して恐怖を煽っても、むしろ危険が増大するだけ。

 平和憲法のもとで戦争を知らずにきた。世界からも尊敬されている。それを、なぜ変えて戦争ができる国にする必要があるのかと思う。

 ただ、昨年の安保反対デモから、子連れで集会に駆けつけるような奥さん方の動きが広がりつつある。参院選や、今度の都知事選を見ても、自分で判断をして考えなければいけないという気持ちが強くなっているのを感じます。だから、まだ間に合う。僕はそう希望を持っていますよ」