東日本大震災で甚大な被害を受けた被災地、宮城県復興の陣頭指揮を執る村井嘉浩知事。リーダータイプではなかった幼少年期を経て、防衛大、自衛官、政治家に転身した自らの経験と人生の教訓を、著書『「自分に自信がない人」を卒業する44のヒント』に込めた。“自信がない”すべての人に届けたい思いとは─。
村井嘉浩(むらい・よしひろ)/1960年8月20日、大阪府豊中市生まれ。'84年に防衛大学校卒業後、陸上自衛官、ヘリコプターパイロットに。'92年に松下政経塾入塾。'95年に宮城県議会議員に立候補し初当選。'05年に宮城県知事に出馬し当選

「小さいころは、本当に自分に自信がなくて、友達の後ろをついていく、みんなの先頭には立てないけど、全体を見て雰囲気を明るくするタイプでした。グイグイと引っ張っていく友達が、うらやましかったです」

 こう語るのは、村井嘉浩宮城県知事。県政を担って3期11年目を迎えた。5年前の東日本大震災では、災害救助活動の陣頭指揮にあたり、復旧と復興のために、先頭に立っている姿からは、ちょっと想像しにくい。

「防衛大に入学したんですが、体力も、能力も、リーダーシップもあるという友達がたくさんいました。自衛官になって、有事の際には、作戦遂行のために自分が決断することができるのか、不安でした」

 自信のなさや、不安な自分と向き合うなかで、転機となったのが、“経営の神様”といわれた松下幸之助が、次代のリーダー育成のために創立した『松下政経塾』への入塾だった。

「入塾して松下幸之助さんが、私以上に不安な思いを抱き続けた人だったということがわかったんです。でも、大事業を成し遂げられた。それは、いろんな人の知恵を集める、素直に耳を傾ける。ときには草木や鳥の声であっても、自分の師匠になりうるという思いでやってきた結果、大事業を成しえたということを知って、自信のないことは決して悪いことではないと思えるようになりました。

 いまも自信はないですよ。自信がないというのは、生まれつき持った性格なので、ずっと変わらない。だから、自信が持てるようになったわけではありません。変な言い方ですが、自信のない自分に自信を持てるようになったのです(笑)」

 著書『「自分に自信がない人」を卒業する44のヒント』は、自身の半生や経験を踏まえて、同じ思いを抱える人たちへのメッセージであり、参考になればとの思いを込めて書き上げた。

楽なほうより苦しいほうを選ぶ生き方

 “若いときの苦労は買ってでも”と先人は言うが、“自信のない”青年だった知事が、防衛大、自衛官、さらには政治家を志す環境に身を投じられたのは、なぜ?

「次から次といろんなことをやって不安でしたが、大事なのは思い切って飛び込むことではないでしょうか。そういうときに大切にしているのは、ドキドキ感。楽なほうより、苦労したほうがよくなると思えたら、そちらを選ぶ生き方をずっとしてきました。悩みますけど、ピョンと一歩を踏み出しちゃう。でも、失敗したこともいっぱいありますよ(笑)」

 大人になり、例えば、子育てに自信がない、あるいは、自信の持てない子どもを抱える親たちもいる。

「自分の子どもは立派になってほしい、健康でいてほしい、出世してほしい、などと思うのは、親として当然のことだと思います。でも、親の理想と子どもがやろうとしていることが、だんだんと乖離してくる。そういうときに、親として不安が生じると思います。私は2人の娘がいて、思春期を迎えて反抗期のときに、自分の思ったとおりにならないのが、ショックでした。でも、それからは子どもが一人前になるための過渡期という女房のアドバイスもあって、娘の思いを尊重するようにしました。子どもの声にも耳を傾けるように努力したわけです。結果、子どもは反抗期を乗り越え、立派に成長してくれたと思います」

 本のタイトルにある数字は、44年間の人生の蓄積を持って、45歳のときに知事選に出馬したことからつけた。

 宮城県議会議員選挙に最初に出馬したときに“議員は、交通違反のもみ消しをして当然”と言い放った後援者に、支援金を全額返却した“政治と金”のエピソードも。

 当時は、妻と幼い娘2人の4人家族、月17万円で生活していた。

「落ちるかもしれない選挙に出るというのは、本当に大変でした。女房はよく我慢してくれました。

 私の母は自衛隊を辞めるときも大反対でした。安定した職業で、家族がいて、パイロットにもなった。何で、政治家をやるのか。反対というより、いちばん心配していました。落選したら、どうやって食べていくのか、と。2人の子どもを、どう養うのかと言われました。そのときは、何の根拠もなかったけど“なんとかなる”と言いました(笑)。運が強いのかなぁ……。みなさんにも“運と愛嬌だけで生きている村井です”と言っていますから(笑)」

スケート場の再開と羽生選手の金メダル

 本の帯にはソチ五輪フィギュアスケート金メダリストの羽生結弦選手とのツーショットと「僕が求めている『ブレない自分のつくり方』が書かれており、感動しました!」と推薦文が添えられている。

 羽生選手とは、ジュニア時代から親交があり、成長を見守ってきた。

「女の子みたいに可愛かったです。能力もあって、(ジュニアの試合では)必ずメダルをとって、会いに来てくれました。そのときに“次は五輪で金メダルだね”と頭を撫でながら話していたことが本当になって、心からうれしく思います。いまでは、私よりも背が高くなって、私が頭を撫でられるようです(笑)」

 羽生選手が、子どものころから練習していたスケート場『アイスリンク仙台』は、村井知事が就任して再開されたものだが、逸話も。

 知事が県議会議員だったときに宮城県内にスケート場がなくなり、フィギュアスケートの練習場所を失った子どもたちと、再開を要望する署名活動をして、当時の知事に陳情した。しかし、予算がないため、あえなく却下された。その後、自身が知事に就任し、陳情される立場に。財政的な問題で二の足を踏んでいたが、職員に相談し、方策にあたらせた。結果、県と仙台市が整備費用を賄い、運営会社を誘致し、再開することができた。

「羽生選手が、“あのおかげで、金メダルをとることができました”と、言ってくれたので、そのときに奔走した職員を呼んで、一緒に写真を撮ってもらいました。スケート場が再開していなければ、羽生選手は、(練習場所を求めて)ほかに移っていたでしょうし、金メダリストを生んだスケート場にもなっていなかったと思います」

 自信がないことはコンプレックスではなく、自分らしさであることに気づき、これからも復興のリーダーとして牽引役を務める。

「松下幸之助さんは人を育てることが上手な方で、ひとりひとりの能力をつぶすことなく、どうやったら、ひとりひとりがもっと大きな仕事ができるのか、見て、育て、厳しく指導した。

 私も多くの県職員と接して、ひとりひとりのいいところを伸ばしてあげたいという思いでいます。怒るときは、ひとりのとき。ほめるときは大勢の前で。“怒り方”と“ほめ方”、本には書いてないけど、45番目のヒントがありましたね(笑)」