2011年3月の東京電力・福島第一原発事故後、保坂展人氏は世田谷区長選に立候補し、「脱原発」を掲げて当選した。1979年のスリーマイル島の原発事故以来、反原発運動に関わってきた保坂氏は首長として何に取り組むのか。

保坂展人世田谷区長は「歴史的な責任を担うべき」と区としてできることを模索してきた

区の取り組みを発表すると大反響

 区長当選後、保坂氏が取り組んだのは、区内の放射線量を計測して公表することだった。

「モニタリングポストは新宿と世田谷にあったが、情報は開示されていない。選挙中も子育て世代から“計測してください”と言われました。学校や保育園、公園だけでなく、プールの水質、砂場も計測したんです」

 こうした世田谷区の取り組みは都内に広がり、自発的に計測する区民の取り組みも生まれた。

 また、区の施設で使う電気を特定規模電気事業者(PPS)から購入。昨年、東京電力との差額は約2億円だった。今春、さらに低価格で入札したため、再び東京電力と契約している。

「制度自体が知らされていなかった。区の取り組みを発表すると大反響。その後、東京23区の多くがPPSと契約、一気に広がりました」

東京の自治体の長として事故に対する責任を考える

 福島の原発から生み出される電気の最大の消費地は東京だ。その自治体の長として事故に対する責任をどう考えているのか。

 保坂氏は「歴史的な責任を担うべきだ」と、区としてできることを模索した。例えば、区内の貸家や空きアパートを「みなし仮設住宅」に提供を呼びかけると、100軒以上が手をあげた。一時は100世帯近くが住んでいた。現在、自主避難が26世帯、避難地域から16世帯が住んでいる。

 また、被災地域の子どもたちの保養を目的とした事業『ふくしまっ子リフレッシュ in 世田谷』にも取り組んでいる。区民の団体と区・教育委員会が共催で行う。

「区民から声があがった。世田谷で福島の子どもたちを受け入れたい」

 さらに、世田谷区は来春までに、友好関係がある群馬県川場村のバイオマス発電所から電気を供給してもらうことになった。

「今後、交流のある新潟県十日町市や長野県の水力発電からも考えています。自然エネルギー由来の電気を多少高くても買いたいという人は多い。原発の電気はリスクのあるものとして、終わっていくものにしたい」

「原発は安全と言ってきた議員よりも、自分のほうが責任が重い」

 原発事故により、20キロ圏内は避難指示が出され、立ち入りが制限された。20〜30キロ圏内は屋内待機指示が出た。地震から2週間後の3月27日、保坂氏は両方の地域をまたいでいた南相馬市へ向かった。

 衆院議員時代も原発問題を追及していたことから、

「原発は安全と言ってきた議員よりも、考え方によっては自分のほうが責任が重いのではないか」と考えていたとき、30キロ圏内の人が避難しようとしていたところ、チェックポイントを通過できず避難できないとの情報が入ってきた。

「結局、その情報は確認がとれなかったが、これでは棄民ではないかと思い南相馬に行くことを決意した」

 事故後、「原発に反対してきた人たちは、救出に向かうグループと、避難するグループとに分かれた」と保坂氏。自身は「誰かが何かをしない限り、混乱が拡大していくだけ」と「救出活動」を選択し、原発事故と向き合ってきた。

「原子力事故からパーフェクトに住民を守るすべはない」

 原発事故から5年半が過ぎた。川内、伊方と再稼働が進むなか、「事故を繰り返してはいけないという意識が薄らいできている」と保坂氏は実感している。

 今夏、オバマ大統領が被爆地・広島を訪れた。原爆を投下した国の現役大統領としては初のことだ。

「広島で核軍縮への思いは伝えていたが、核の平和利用が失敗したことまでは踏み込めなかった。はっきりと認識する必要がある」

 今後は、各原発の再稼働問題に注視している。

「日本は何度も事故が起きようと、原子力産業の望むままなのか。福島事故後、ドイツは大きく転換した。原子力事故からパーフェクトに住民を守るすべはない。そのことを学んでいかないといけない。だから再稼働には反対していきたい」