今年の新年一般参賀での信子さま(左)と彬子さま。公務先でも言葉を交わされない
「DV」や「アルコール依存」など、ご長男一家のトラブルがご心労になっていた三笠宮さま。しかし、ふたりの孫娘のお住まいに飾られている在りし日の写真に、望みをかけられて……。
入院していた病院から百合子さまに付き添われ元気に退院されたときの三笠宮さま('12年)

「三笠宮さまは、3人の男のお子さまに先立たれて、つらい思いをされていたのではないでしょうか。

 なかでも、寬仁さまご一家の残された母娘の対立には、ずっと心を痛められていたと思います」

 10月27日午前、101歳のお誕生日を前に聖路加国際病院で薨去された三笠宮崇仁さまについてそう話すのは、ジャーナリストで文化学園大学客員教授の渡邉みどりさん。

 病院で最期を看取られた三笠宮妃百合子さま(93)との間に、5人の子宝に恵まれたが、

「'02年に三男の高円宮さま、'12年に長男の寬仁さま、'14年に桂宮さまと相次いで男のお子さまがお亡くなりになり、何度も涙を流されました」(宮内庁担当記者)

 病床の三笠宮さまにとって心残りだったのは、冒頭の渡邉さんが言うように、長男一家でくすぶり続ける「親子対立」であったに違いない。

 “ヒゲの殿下”“トモさん”の愛称や型破りな言動で親しまれた寬仁さまは、

「いろんな女の人と付き合ったけど、やっぱり彼女が一番いい」

 と'80年に、吉田茂元首相の孫娘で麻生太郎元首相の妹・信子さまと結婚し、寬仁親王家をご創設。

 '81年には長女の彬子さま、'83年には瑶子さま(33)がお生まれになった。

映画の試写会で、信子さまにすがりつくふたりの女王に笑顔の寬仁さま('88年7月)

 生前、16回のがんなどの手術を経験した寬仁さまに、信子さまは栄養のバランスを考えながら1日6食のメニューを考え、お支えになった時期もあったが─。

「おふたりは、'04年の夏ごろから別居状態となりました。信子さまは更年期障害と胃潰瘍と診断され、軽井沢の姉の別荘で約2年間の静養をされました」

 と解説するのは、三笠宮家関係者。

 その後、信子さまは赤坂のお住まいに戻ったが、引きこもりや入退院を繰り返し、'08年12月には『ストレス性ぜんそく』の診断で慶應病院に1年近くご入院。

「その間、“ご病気のお父さまを置いていくなんて”“公務をなおざりにして”と、彬子さまと瑶子さまの信子さまへの気持ちが悪化したようです」(同・関係者)

 退院した'09年10月から信子さまは赤坂に戻らず、千代田区内にある旧宮内庁長官公邸に移り、療養目的の別居生活をお続けに。

 ご家族との“溝”は、さらに深まったようだ。

「'12年6月に寬仁さまが薨去されたときも、直前に信子さまは入院先を訪問しましたが見舞いを拒否され、ご臨終の際もお別れの儀式もご夫妻の対面はかないませんでした。

 信子さまとの離婚を考えていた寬仁さまの強いご意思を、彬子さまと瑶子さまも共有されていたと思われます」(皇室ジャーナリスト) 

 ところが、寬仁さまの死後、信子さまの活動はにわかにご活発に。

 料理本を出版し、地方公務から園遊会や宮中祭祀まで精力的に活動されている。

 信子さまのそんな“マイペース”なご活動ぶりに、彬子さまはご不満をあらわに。

次女・瑶子さま(右)のほうが信子さまに対し“かたくな”だとも言われている

 月刊誌で母親に対して、公務に復帰するのであれば、国民への理由説明と、当主の三笠宮さまへ挨拶をするべき─という異例の手記を公表された。

「結局、信子さまの病状は発表されましたが“ストレス性ぜんそくが再発する”として、挨拶をされないままでした。

 それが原因か、この8月15日ごろに三笠宮さまの入院先を信子さまは訪問しましたが、お見舞いはできなかったようです」(三笠宮家関係者)

 7月末には現在、彬子さまと瑶子さまがお住まいの赤坂東邸(旧寬仁親王邸)に、信子さまが弁護士と鍵業者を伴いご訪問。

 お住まいに“侵入”し、私物をお持ち帰りになるという異常事態も発生。

 そこまでこじれてしまったご夫妻の「不和」の原因を、ある皇室関係者が打ち明ける。

「トモさんの『DV』(家庭内暴力)は、結婚初期のころからあったのは事実で、それは昭和天皇のお耳にも入っていたようです。

  “彼女が一番”と信子さまを選ばれて“期待”があったぶん皇族らしからぬ性格や言動に失望し、暴力やアルコールに走ってしまわれたようです」

 一方、寬仁さまがお悩みだった信子さまの「言動」について、別の関係者が証言する。この4月、イギリス大使館でエリザベス女王の90歳の誕生日を記念するパーティーが開かれたときのことだという。

「森喜朗元首相が乾杯の音頭をとることになっていましたが、直前に信子さまがされることになったのです。

 当日の報道が流れるとしたら、乾杯の部分だと考えたうえでの信子さまの“戦略的”なお考えだったと思います。

 そのような信子さまの性格に、寬仁さまは不満をお持ちだったようです。

 信子さまは、“自己顕示欲が強い”などと報じられたこともありますが、決して否定できることではありません」

 金銭トラブルも生じているようで、両者の関係は修復不可能なようにも思えるが、赤坂東邸に出入りする関係者は“和解”の希望を捨てていないという。

「実は邸内には、寬仁さまと信子さま、彬子さま、瑶子さまの4人で仲よく写っている昔の写真が何十枚と飾られているスペースがあるのです。

 女王おふたりがお母さまを心底嫌っていたら、そのような写真はお飾りにならないと思います。それを拝見したとき、いつかは時間が解決してくれるのではないかと感じました。三笠宮さまも同じお気持ちだったと思います」

 すでに寬仁さまが眠る東京・文京区の豊島岡墓地に三笠宮さまも埋葬されるが、母娘3人でおふたりの墓地にお参りする日は来るのだろうか。