市川右近

「急に決まった話じゃないんですよ」

 そう笑顔で話すのは、来年1月に三代目市川右團次を襲名する市川右近。今年5月に行われた記者会見では、6歳になった長男タケルくんとそろって出席。息子が“二代目市川右近”を継ぐことも併せて発表された。

 この右團次襲名には、実はある人物が大きく関わっているという。

8年ほど前の'08年に市川海老蔵さんから“市川宗家に市川右團次という名前があります。右近さんどうですか”という話をいただいたんです。右團次というのは上方の名跡で、僕が大阪出身であること。また“右”という字が共通していること。

 そして、宙乗りとか早変わりなど奇をてらった“けれん”の演出のプロフェッショナルだったんです。この3点に海老蔵さんが気づいてくださったんです。私もこの3つの理由を聞いたときにご縁を感じましたし非常にうれしく思いました

 宙乗り、早変わり、本水などを使った派手な演出の“けれん”は近代の歌舞伎ではあまり行われなくなっていた。それを大々的に復活させたのが、右近の師匠である三代目市川猿之助(現、猿翁)である。つまり“けれん”の申し子の右近に対し、海老蔵が右團次の襲名をすすめたのだ。そして、襲名が本格化したのが、'14年のことだった。

「2年前の7月に初めて新しい歌舞伎座に出させていただいたとき、息子が楽屋に来ていたんです。そこに海老蔵さんがいらっしゃって、“息子さんを役者にするんですか?”ってお尋ねになったんで、“当人も好きなようですし、役者にしようと思っています”と話をしたんです。そうしたら、“わかりました。でしたら、あの襲名の話は急がないといけないですね”とおっしゃられて……。

 海老蔵さんは市川右團次という80年近く途絶えてしまっていた名跡を復活させることによって、市川家と歌舞伎界の未来のことを考えていらっしゃったのかもしれません」

将来の夢について聞かれたタケルくんは、“歌舞伎役者”と即答した

 親から子へ、子から孫へ。芸と名跡を伝承していくのが、伝統芸能だ。そして、来年1月の襲名披露公演では、父から右近の名を継いでタケルくんが初舞台を踏む。

「あまり子どもを子どもとして扱えない人間だったんです。子どもを抱くということも怖くて、人形の子どもは舞台で何度も抱いているんですが、人形以外の子どもは抱いたことがなかったんです。

 46歳で授かったもんですから、やはり自分の子どもっていうのはまったく違うんですね(笑)。いまとなっては人様のお子さんも抱っこできるし、あやしたりできるんですけど、最初はどうなるものかと。

 成長するうちに、私のまねをしてみたり、立ち回りの稽古を一緒にしてくれとか言いだしまして、この子は歌舞伎が好きなんだなと。それで3歳くらいのときに“歌舞伎をやりたいの?”と尋ねたら、“やりたい”と言ってくれたんです」

31年前に猿之助が演じた役を…

 初お目見えは今年6月に本名の武田タケルで行っている。だが、今回は右近としての初舞台。歌舞伎役者としての第一歩だけに、父親も気が気でないようだ。

「(セリフを)よく覚えてくれていますよ。かなりしゃべっているんです。『雙生隅田川』というお芝居なんですけど、その中で梅若丸、松若丸という両役を早変わりでやるんです。'85年には、今の四代目猿之助さんが、10歳になる1か月前にやってらっしゃるんですよ。

 それで、猿之助さんが“タケルくんの初舞台は『雙生隅田川』がいいんじゃないか”とおっしゃってくださって。四代目さんからのおすすめでもあり、その演目に決定したんですね。まあ、その当時の四代目は名子役でしたからね。

 10歳の名子役と駆け出しの6歳では、本当どうなっちゃうんでしょう(笑)。ただ、タケルは歌舞伎が好きで一生懸命、覚えてくれています。でも、自分のことと違って子どものことは大変ですね。生みの苦しみといいますか……

 息子の初舞台を心配している右近だが、彼は歌舞伎の家の出身ではない。11歳で三代目猿之助のもとに入門し、小学校卒業と同時に上京する。

「師匠のもとに行きたいという一心で自分から東京に行きたいと言いだしたんですね。そうしたら、師匠が“僕は慶応だから受けてみたら”って言われたんです。でも、学校の先生に相談したら、“何バカなこと言ってるんだ”と。

 そりゃ、6年生の秋ですからね(笑)。でも、それから一心不乱に勉強しまして、おかげで合格しました。だけど、合格してなくても東京に出てきたと思うんですよ。ただ、師匠のことを大崇拝していたので、頑張りました(笑)」

 上京すると、赤坂にあった先代猿翁の奥様が経営するアパートで、ひとり暮らし。そこは師の書斎もあり、右近少年にとって刺激的な毎日だったようだ。

2階には銀座のママさんが住んでいたり、お隣は赤坂の有名キャバレー『ミカド』のナンバーワンホステスさん。学校から帰ってくると1号室の奥様に先代の芝居のお話をうかがったり、ノーメイクのミカドのお姉さんが“パチンコ行くよ”って付き合わされて赤坂東急にある蕎麦屋にお姉さんは遅いランチを食べて、それで帰ってきてね。

 でも、夕方になるとパリッとメイクし着物をばっちり着て“行ってくるよ、右近ちゃん!”って。これがまたカッコいいんですよ。でも、朝になって学校へ行こうとすると、お姉さんがフラフラになりながら帰ってくるというね。上京していきなり花柳界に囲まれちゃった感じですよ(笑)

独立、そして香川照之との確執は

 今回は、猿之助一門である澤瀉屋から離れ、新しく高嶋屋に屋号が変わる。40年以上も籍を置いていただけに、寂しさはないのだろうか─。

「澤瀉屋から高嶋屋に変わるわけですが、師匠と弟子の関係はまったく変わるものではありません。師匠の創造の精神や理念というのは屋号や名前を超えても広く歌舞伎界に伝えていかなければなと。

 それが、未来に師の名前を残すことになるんじゃないかなと思っています。ですから、まったく澤瀉屋から離れるわけではありません。市川右近という名前をここまで育ててくださいましたし、当然、息子は澤瀉屋として修業させます」

澤瀉屋の十八番『義経千本桜』の狐忠信を熱演する右近('11年7月)

 澤瀉屋の一番弟子であった右近の独立。一部週刊誌などでは、四代目や市川中車こと香川照之との確執ではと報じられているのだが……。

ご心配しないでいただきたいのは、まったく澤瀉屋と離れてやっていくということではないということ。

 もしそれが事実だったら猿之助さんが子どものころやった役をうちの息子にどうですかとは言っていただけないでしょう。

 それどころか、猿之助さんも中車さんも襲名興行に出てくださらないと思います。このたびの襲名は澤瀉屋一門のバックアップがあってこそです

 そして、右近は歌舞伎役者を目指す人たちに対し、こう思いを述べてくれた。

歌舞伎はとかく世襲制と言われますが、どの名跡にも初代がいます。歌舞伎の家柄でない私が右團次を襲名させていただくことで歌舞伎の未来にとって新しい兆しになれればと思っています。これから歌舞伎を目指す若者の道しるべになるような役者になりたいなと思いますね。それが未来の歌舞伎界を明るく照らすと信じています」