かまやつさん

「かまやつさんとのすべてが思い出になってしまった。まだまだ思い出を作れるんじゃないか、という気持ちでいたのが僕の本心です。すべてを納得するまでにはまだ時間がたっていない。気持ちの整理には何日もかかります」

 3月3日、かまやつひろしさんの訃報を受けて、会見を行った堺正章。『ザ・スパイダース』として'61年にデビュー。GS全盛期を引っ張り、青春時代をともに過ごした“戦友”の他界に悔しさをにじませた。

 昨年9月に肝臓がんを公表、「絶対に復活するから心配しないでください!」との力強いコメントを寄せていたかまやつさん。一方で、なじみの店に“顔出し”をするようにもなっていた。

昨年の6月28日ですね。松任谷由実さんと一緒に来店されたのが、私がお会いした最後でした。かなりおやせになられて、今までとは明らかに違う雰囲気でした。私も父をがんで亡くしていますので、少々不安に思っていたんです。見送りのときも“今、いろんな思い出のところを巡って顔を出しているんだ”と、おっしゃっていました

 そう話すのは、'60年に港区麻布台に開業したイタリアンレストラン『キャンティ』社長の川添隆太郎氏。かまやつさんが“キャンティ族”として、当時から通い詰めた店だ。かつては、堺も連れられてきていたという。

結成前からかまやつさんが通った『キャンティ』

 同店の創業時の話や、創業者である祖父・川添浩史さんの話をよくかまやつさんから聞いていたという隆太郎氏。

私にとってかまやつさんは家族でしたね。そうそう、父の葬儀のとき、帰国子女の義理の弟が誤ってかまやつさんを親族席にお通ししてしまったんです。するとそのまま“親族”として私たちと一緒にご焼香してくださって、さらに結びつきが強くなったと思いました

 最後の日も、いつものキャンティワインの赤を片手に松任谷と音楽の話などで盛り上がっていた。付け合わせのコーンを多めにした『若鶏のタバスコソース煮込みメキシコ風』、『スパゲッティバジリコ』をよく好んで食べていたという。

「見送りの際に“また来てくださいよ!”と声をかけさせていただいたんですが、やはり余命といいますか、お身体のことはご自身でわかっていたでしょうし、覚悟というものもあったのだと思います」

大好きだった蕎麦店

 こちらも50年近く足繁く通ったという赤坂の老舗蕎麦店『室町砂場』。女将の村松ヨシ子さんが話す。

いつもニコニコされている人でね。お店の中で目が合うとニコッと笑い返してくれるんです。かまぼこと青柳の小柱をおつまみに、ビールとお酒をお銚子で飲まれていました。お蕎麦はざる、天ざるも召し上がっていましたね。

 今年に入ってからも2、3度いらしております。病院の帰りで、少しつらそうにしていましたが、次にいらしたときはお元気そうに見えました。ですからこんなに早く亡くなったなんて信じられないです」

  『新チューボーですよ!』(TBS系)でも紹介されたことがある蕎麦店、『神田まつや』にも今年に入ってなお来店していたようだ。

かまやつさんが30年通った、趣のある外観の蕎麦店『神田まつや』

「プライベートでも全然飾らない、穏やかな方でした。お店でも静かに飲んでいらっしゃいましたね。焼き鳥などを召し上がってそれからお蕎麦を食べたり。がんを公表されてからも、やはり普段と変わらない様子でお酒を飲まれていました。もう自分の(身体の状態)ペースというものをわかってらしたんじゃないかな」

 6代目の小高孝之氏は故人のこんなエピソードを明かす。

いつだったか、“ちょっと飲ませてもらっていいかな”と開店前にいらしたんです。少しして、かまやつさんが出演された番組を偶然に見たんですけど、“今ここに来る前に、まつやに行って飲んできたんだよ”という話を夏木マリさんとされていて。あのときは収録前だったんだと、あとで納得しました。本当にいろいろとお世話になりました

 大人数を連れて来店したり、ほかのメディアでも同店を紹介していたという世話好きの一面もあった。

 まつやから数十メートルの距離にある甘味処『竹むら』の『御ぜんしるこ(こしあん)』にも目がなかった。

甘味処『竹むら』では、かまやつさんは“指定席”で『御ぜんしるこ』を好んで食べた

 かまやつさんと同い年の主人の堀田喜久雄氏によると、

「10年以上も前ですかね。夕方くらいに、ひとりでふらりといらっしゃって。いつも同じ席で静かに召し上がってお帰りになられていました。

 私も道楽でボーカルをやっているものですから、初めてかまやつさんがいらしたときに内心は(うれしさは)ありましたけども、お客様ですからね。こちらからお声をかけることはいたしませんでした。お会計のときに“ごちそうさま”と、笑顔を見せられるのが印象に残っております」

 千代田区三番町の隠れ家レストラン『さとう』でも、6年ほど前から月に1、2回のランチを楽しんだ。

「お昼ごろにひとりで来て、ハウスワインを1杯飲んで魚介系のリゾットを食べて静かに帰られていました。新聞などでがんであることを知ったのですが、なんとなく身体の調子は悪いのかなとは思っていました。最後にいらしたのは去年の秋ごろのお昼だったと思います」(従業員)

 お酒が大好きだったかまやつさん。ホテルオークラ別館のスコティッシュバー『バー ハイランダー』の常連でもあった。マネージャーの萩俊一氏に聞くと、

本館にあったころからなので、もう何十年も通っていただいていました。ムッシュは夜6時や7時と、比較的早い時間にいらっしゃることが多かったですね。ひとりで来られることが多く、といってもムッシュ同様、古くからのお客様とは顔なじみで、カウンターでウイスキーやスピリッツ、ワインを飲みながらお話しされていました。

 言い方は悪いですが、本当に普通の人。気さくで飾りなく、いつもニコニコして私や若いスタッフにも気軽に話しかけてくださり、優しく接してくださいました。私たちはバーともども、とてもかわいがってもらいました」

 取材をしたどの店でも、「いつもニコニコしていた」かまやつさん。そんな彼がもうひとつ、満面の笑みを見せた愛すべき“名店”があった。

 それは毎年正月に新年会が行われている堺の自宅だった。

正月に『カレーうどんを食べる会』という会があって、従妹の森山良子さんに付き添われて、かまやつさんがいらしたんです。彼女に支えられながらも、しっかりとご自身の足で歩かれていました。

 森山さんは“いい療法があったら何でもやってみたい”と、それまでの治療方法を変えて食事療法に切り替えたそうで、かまやつさんの顔色も悪くはなかったです。堺さんは気遣いを感じさせない自然な様子で、かまやつさんの隣にいらしてお話しして笑い合っていました」(居合わせた客)

 ザ・スパイダースの中でも、穏やかな性格から、“緩衝材”のような役割だったというかまやつさん。そんな彼には自然と、「我が良き友」が集まっていたのだった。