年月とともに震災の記憶は風化する。復興の槌音(つちおと)が聞こえる一方で、得られた教訓が薄らいでいく。それに抗(あらが)う形で語り継ぐ人々の姿がそこにある。

教員の遺族とは言えない日々が続いた

「(あの高台には)住宅がありませんでしたし、道路も変わっていますね」

 宮城教育大学3年の佐々木奏太さん(21)=仙台市宮城野区=は、宮城県南三陸町の志津川中学校がある高台から市街地を見た。

志津川中がある高台に立つ佐々木さん。6年前の震災翌日も、この場所から眺めた

 震災当時、中3だった。その日は校舎内で避難していたが、翌日、津波にのみ込まれた街を見た。

「まだ家族の安否は知りませんでしたし、街がないのでつらいんですが、頑張らないといけないと思った」

 母親とは志津川小の避難所で会えたが、父親(当時55)は1か月後、遺体で見つかった。DNA鑑定で確認されたときは震災から1年4か月が過ぎていた。

 父親は、児童74人、教職員10人が死亡・行方不明となった石巻市立大川小学校2年生の担任だった。

 大川小の避難をめぐっては、第三者委員会で検証された。納得いかない遺族たちは県と市を相手に裁判を起こした。仙台地裁は教員の過失を認めたが、原告、被告とも控訴した。

 佐々木さんにとって、教員の遺族とは言えない日々が続いた。

 昨年春、うつになった。教育実習で父親が担任した学年と同じ小2を担当、いろいろと考え込んでしまった。

「ドクターストップになりました。父親のことを周囲に言えなかったこともあり、これまで本質的に向き合ってこなかったんだな、と」

 教師を目指していたが、「大川小のことは自分には重い」と感じ、教員の道はあきらめようと考えた。

「去年9月、自分から大川小の遺族と会い、向き合い方を見つけました。教員の遺族として一生、向き合うことになると思います」

 現在は、大川小と、南三陸町で語り部をしている。

 取材日も、関東の大学生に対して、町内で町のことを伝えていた。

「月日の流れと自分の歩み、町の変わりようを見て、これから未来が開かれると感じています」

 卒業後はどうするのか。

「南三陸は愛するふるさとです。戻って、魅力だけでなく、課題も含めて町の情報を発信していきたい」

悲劇の象徴だけで残ってしまうのも嫌だった

 震災当時、石巻市の大川中2年だった佐藤そのみさん(20)は高校を卒業後、日本大学に進学。4月で3年生になる。大川小の6年生だった妹のみずほちゃん(当時12)は、津波にのまれ、亡くなった。

 なぜ、大川小の子どもたちは避難できなかったのか。自宅では、毎晩のように遺族たちが集まって、避難の検証や、話し合いをする日々だった。

 あわただしい中、受験期を迎えていたが、ボランティアの人たちとの交流で落ち着きを取り戻す。

「ひとりひとりの写真を撮りました。帰ってしまっても忘れたくなかったので」

大川小の校舎を残したいと訴えていた佐藤さん(’14年当時、仙台市内)

 2年を過ぎたころ、被災した校舎を残したいと思い始めた。同じ考えを持った後輩たちと意思を表明。保存に反対の声もあったが、地域の復興協議会でも意見を発表。’15年3月、仙台市で開かれた「国連防災世界会議」でもプレゼンテーションをした。保存の声は高まっていき、思いが届いたのか’16年3月、石巻市は校舎保存を決めた。

「あのころは保存問題ばかり考えていました。今よりも大川のことを知っていました。ただ、母校なので悲劇の象徴だけで残ってしまうのも嫌だった」

 そんな思いもあり、校舎保存の意見を発表する際には、震災前に撮影した大川小と周辺の写真も使った。思い出の場所だ。

 昨年8月、被爆地・広島を初めて訪問した。原爆ドームの保存やその後の活動について話が聞けた。

「校舎は残せましたが、どう活動していけばいいのかはまだわかりません」

 ふるさとを伝え残すため映画を作りたい、と佐藤さん。現在は自主制作で取り組んでいる。

「妹が喜ぶことがしたい。震災には直接触れず、身近な死を描きたい。意識的に直後に書いていた日記を見て思い出す。ただ、納得がいかず、書いた脚本4本ともボツにしました」

 映画だからこそ伝わる震災やふるさとがある。今、挑戦中だ。

今でも仏壇で手を合わせられません

「最初は涙を流しながらしゃべりました」

 宮城県名取市の保育士・松崎江里子さん(29)は「たくさんの人に知ってもらいたい」と、閖上(ゆりあげ)地区で特定NPO法人『地球のステージ』が主催する語り部の活動に参加している。

 震災当日、仙台市中心部で仕事中だった。バイクや自転車も倒れた。それでも自宅に帰れると思った。職場の近くから途中まではバスで来たが、そこからは歩いて閖上に向かった。

 その途中、「どこへ行くんだ?」と声をかけられ、津波がきているのを知った。閖上に津波がくるとは想像もしていなかった。家族を探したが、携帯電話は通じない。

 2日後、祖母と母、弟とは会えた。しかし、父は1か月後、自宅の近所で遺体となって発見された。

「(震災があった)金曜日は、父は仕事が休みで、その日は起きてこなかったので出勤前に会っていません。最後の会話も覚えていない。亡くなったと聞いたときは直視できませんでした。今でも仏壇で手を合わせられません」

 気分が落ち込んでいたが、ひとりの精神科医との出会いで向き合えるようになった。震災後、閖上に行けたのも医師と一緒だったからだ。

つらいときに、シクラメンに話しかけることがあると話してくれた松崎さん

 そのとき、ピンクのシクラメンが咲いていた。中学校の担任がくれたものだ。

「落ち込んでいた私を勇気づけてくれました。震災後も2年間は咲き続けました。引っ越しで環境が変わったため、枯れてしまいました。いまは別のシクラメンを育てています」

 また、閖上ではマンホールの蓋を見つけた。

「小さいころに遊んだ記憶があります。それを題材にした絵本もできました」

 自費出版された絵本は、マンホールの蓋をステージにして、近所の人たちに歌を披露していた女の子・エミリの物語。津波が起き、父親は行方不明。ただ、マンホールのステージは残され希望を抱くという内容だ。

「震災当時よりは前を向いていられる」

 語り部は震災を伝えることと同時に、心のケアにもなっている。

みんなに、俺みたいな遺族になってほしくない

 かさ上げ工事や防潮堤建設が進む岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)。震災当時、200人以上が避難し、津波にのまれて死亡した防災センター跡地に美容師の片桐浩一さん(47)は立っていた。

『震災メモリアルパーク』の設置予定地でもある。

「面影もないし、風景も変わりました。ここだったのかな」

 妻の理香子さん(当時31)も防災センターに避難し死亡したひとりだ。隣接する鵜住居幼稚園の臨時職員で、幼稚園に残っていた園児とともに避難。もうすぐ生まれるはずだった陽彩芽(ひいめ)ちゃんを身ごもっていた。

釜石市鵜住居の防災センターがあった場所で思いにふける片桐さん

 悲劇や教訓を伝えたいと、防災センターを残してほしいと願ったが、市は震災から3年目を前にした14年2月、解体した。’19年、ラグビーのワールドカップで、鵜住居地区に建設中のラグビー場が試合会場となる。JRも開通予定だ。

「ここを訪れるきっかけとしてワールドカップがあり、(被災地として)認知が広がるでしょう。ただ、いずれは遺族だけの場所になるのではないでしょうか」

 避難行動をめぐって、裁判も起こしている。すでに結審しており、4月に判決を待つだけだ。

「みんなに、俺みたいな遺族になってほしくない。教訓は残したい」

 一方、震災の日は美容室の開店記念日でもある。今年は20周年。イベントを開いて震災後、初めて髪を切る。

「あの日のままでいたい」

 と言っていたが、

「復興ムードの中で自分の気持ちとのギャップも感じてきました。髪を切ることは過去を断ち切る意味もあります。心の中にはいろいろありますが、これまでの気持ちは封印します」

 震災に遭い、被災後をどう生きてきたのか。今だから聞ける「記憶」がある。

<取材・文/渋井哲也>
ジャーナリスト。長野日報を経てフリー。東日本大震災以後、被災地で継続して取材を重ねている。新著『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)が3月8日に発売