放送開始から19年目に突入したフジテレビ『とくダネ!』のメイン司会を務める、おなじみの小倉智昭さん。「吃音症」に悩んだ過去、売れなかった極貧時代、がん闘病……困難を“強さ”と“やさしさ”に変換してきた小倉さんの知られざる素顔に迫る──。

 フジテレビの情報番組『情報プレゼンター とくダネ!』は、今年4月で19年目に突入した。その司会を務めるのは、ご存じフリーアナウンサーの小倉智昭さん(69)。

『とくダネ!』は昨年7月28日、それまで同じフジテレビの『小川宏ショー』が持っていた同一司会者による全国ネットの情報番組の最多放送回数を超え、新記録(4452回)を達成した。小倉さんが語る。

「フジテレビの入社試験で『小川宏ショー』みたいなのをやりたいと言ったら、落とされたんです。それなのに小川宏さんの番組を超えられたというのはうれしいことですよね。フジテレビはそのとき僕を採用していたら、今ごろ高いギャラを払わなくてすんだのに(笑)」

撮影/坂本利幸

 小倉さんは『とくダネ!』の中で、オリンピックやサッカーのワールドカップなどのスポーツや音楽、エンタメに関する話題を取り上げ、それまでのワイドショーとは異なる新しい情報番組をつくった。

 冒頭のロングトークやユニークな視点によるトピック紹介など独自のスタイルを貫き、民放同時間帯視聴率で3年連続首位をキープしている。

 現在は『直撃LIVE グッディ!』のフィールドキャスターで、『とくダネ!』開始から12年間、現場レポートを担当した大村正樹さん(49)は、小倉さんのオンエア以外の様子をこう話す。

「いつも背中を丸めて、スーッと空気のようにスタジオに入ってくるんですよ。スタッフに対して、よし行くぞ! みたいな派手なテンションではないんですね。シャイな人で、目立とうとしないし、オンエアでメッセージを送ればいいという感じなんで。

 でも視聴率がよかったら、スタッフを温泉旅行に連れて行ってくれるんです。あんなことやっているのは小倉さんしかいないと思いますよ。旅館では仲居さんの代表に個々の部屋の分まで心づけを渡してましたね。人に対するお金の使い方がすごいんです」

 大村さんが昨年7月の最多放送回数記録が出た日のエピソードを話してくれた。

「あの日は局内でパーティーがあったり、お祝いムード一色でした。そんな大事な日だったのに、僕の出演している『グッディ!』が4時で終わるのを待っていてくれて、小倉さんが年間ボックスシートを持っている西武球場へ日本ハム戦を見に行ったんです。小倉さんの好物のフライドチキンを1人6、7本ずつ食べながらお祝いしました(笑)」

 西武ライオンズの快勝で、小倉さんもご機嫌だったという。ただ、小倉さんが高校時代から応援してきた日本ハムファイターズの斎藤佑樹投手が久々に先発登板したが、5失点した後、4回で途中降板するというひと幕があった。

「小倉さんが“佑樹を送ろう”って言いだして。その日は朝から大変な1日でしたし、僕ともしゃべりっぱなしでそうとう疲れていたと思うんですが。

 斎藤選手は打たれちゃったんで、球団のバスにも乗らず、みんなが帰った後、いちばん最後に出てきました。“佑樹、お疲れ!”と、小倉さんが出迎えると、斎藤選手も涙ぐんでいましたね。肩を抱いて“大変だけどさ、今が踏んばりどきだから。頑張れよ、応援してるから”と。そういう温かい人なんです。僕もことあるごとに親身になって話を聞いていただいて、救われています」

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 小倉さんはいつも『とくダネ!』終了後、フジテレビの18階にある書店で本を選び、その横にあるレストランで読書をする。その後はデパートやCDショップで買い物をしたり、美術展やコンサートに足を運んだりするそうだ。

 毎日、本を3冊読み、CDを3枚聴いて、映画を1本見ることを心がけているという。

「若いころ、先輩アナウンサーが“引き出しをいっぱい持って、その中に薄くてもいいから資料がたくさん入っているとアナウンサーとして役立つよ”と教えてくれたんです。それならできるだけ詳しい資料が入っていたほうがいいなと思って、いろいろなことに目を向けるようになりました」

 平均睡眠時間は3時間で、サッカーのワールドカップや野球のWBCをテレビ観戦するときは、1時間しか眠らないこともあるそう。

 芸能活動だけでなく、国内外で飲食店を経営するなど実業家の顔も持ち、ゴルフ、オーディオビジュアル、カメラ、クレー射撃などを極める趣味人としても知られる。

 小倉さんとはゴルフレッスンで知り合ったという20年来の親友、寛受院の住職・中村宣樹さん(61)は、普段の小倉さんについてこう話す。

「ゴルフ場を歩いていても、草木や鳥を観察したりして、全身受動態になって研鑽してるという感じなんです。ありとあらゆるものに造詣が深いですし、こんなに勉強していれば、そりゃあ寝る時間ないわなと(笑)。ゴルフをして食事してるとコテッと寝ちゃうときもありますよ」

 誰もが知ってる朝の顔の、知られていない意外な素顔。それをかたちづくったものを少年時代からたどる。

朝起きると、枕元に雪が…

「僕はとにかく物心ついたときから親父が大好きだったんです。寡黙で怒ると怖い親父でしたが、今でも尊敬していますし、多分に影響を受けていますね」

 そう語るとおり小倉さんの半生は父親との思い出に彩られている。

 帝国石油の技術者だった父と看護師だった母との間に小倉さんは昭和22(1947)年に生まれる。6つ上に姉がいた。

 小倉さんが幼少期を過ごしたのは、父の赴任地であった秋田県秋田市。動物園の跡地に建てられた社宅の中の元入場券売り場がある事務棟が一家の住まいだった。

7歳のとき。故郷・秋田でスキーをはいて

「建てつけが悪くて、切符売り場の手を出す穴から風や雪が吹き込んできて、朝起きると枕元に雪が積もっていました(笑)。土間が広かったので、そこに紙芝居屋さんが来て、近所の子どもたちと一緒に見た記憶があります。敷地内には戦争中に生き残った猿やヤギ、鶏などがいて、動物が大好きになりましたね」

 社宅のそばにあった試験室で、父は室長としてガスや石油の研究や実験をしていた。小倉さんはその様子を見に行くのが楽しみだったと言う。

 父は小学生のときは勉強よりも身体を鍛えて友達をつくりなさいと話していた。小倉少年は野山を駆け回って育つ。

 そんな元気な小倉さんだったが、悩みがあった。吃音で人と会話をするのもままならなかったこと。小学校低学年の学芸会で与えられた役は木の役。セリフはなかった。

 小学校3、4年は父の転勤で東京都新宿区の小学校に通った。転校生についたあだ名は“どもきん”。吃音で目が飛び出ていたからだった。おまけに秋田弁で言葉が通じないとばかにされた。

「でも、運動会があると誰にもいじめられなくなりました。ケタ違いに足が速くて運動が何でも得意だったので、みんな一目置いてくれたんですね」

 給食のときにクラス単位で発表をする場があり、『マッチ売りの少女』を上演することになった。小倉さんはマッチを買う男の役。今度はひと言だがセリフがついた。

「そのマッチはいくらですか?」

 繰り返し練習してちゃんと言えることを確認した。ところが本番当日、小倉さんの出番になったら言葉が出ない。マッチ売りの少女が「1円です」と先に言い、セリフを飛ばされてしまった。

 毎年、七夕の短冊には「治りますように」と書いていた。あるとき、

「父ちゃん、七夕はうそだ! 願い事なんて何も叶わない」

 と訴えると、父は、

「智昭、夢は持つな。夢は夢で終わる。そのかわり目標を持ちなさい。手が届く目標を立てて、それができたら、また次の目標を立てるんだよ」

 と語った。

「その教えが僕にはずっとあって、夢より目標を持とうというのがいまだにあります」

 また父に常に諭されたのは、人を差別しないこと。当時、社宅のそばに貧しい在日韓国人の人たちが住む長屋があった。そこに仲よしの友達が住んでいた小倉さんは、たびたび遊びに行っていたのだが、あるとき母が社宅の人たちに、そのことを咎められる。それを聞いた父は烈火のごとく怒り、「その子の家にどんどん遊びに行きなさい。家にも連れておいで」と話したという。

小倉さんを小倉さんたらしめているのは、大好きだった父の教えの賜物 撮影/坂本利幸

「僕はいつも人のいいところを見るように心がけたり、仕事をするときも、先輩だろうと後輩だろうと常に同じように見て分け隔てなくお付き合いしようと思っているんです。やっぱり、それも父親の教えなんでしょうね。

 ただ人にだまされたこともありますし、痛い目にあったこともあります。でもそれは全然、後悔しないんですね。自分がその人を信頼して好きでやったことだからいいじゃないかって」

 前述の住職・中村さんは小倉さんの人柄をこう話す。

「小倉さんは頑ななまでに実直で言葉は悪いですけど、だまされても気がつかないような人ですよ。いったん自分が面倒を見ると決めたら、とことん面倒を見ますからね。それは小倉さん自身の持っている仏性的本能、寛容さがそうさせるのかもしれませんね」

浪人時代に「国体」出場!

 小倉さんは東京都世田谷区の梅が丘中学に進学し、陸上や演劇、生徒会の活動に精を出す。陸上では走り幅跳びで東京大会優勝を果たした。中央大学付属高校に陸上で推薦入学する。

 高校時代はインターハイや国体に出場して活躍した。しかし五厘刈りも合宿所生活も嫌で中央大学へは進学しないことにした。そこでかねてから憧れていた上智大学を受験するが不合格に。浪人生活を送ることとなった。

「3日で予備校通いに飽きて、毎朝、予備校へ通うのと同じ時間に家を出て永福町の図書館へ行き、勉強もせずに好きな本を読み漁るようになりました。午後は東京体育館横の陸上トラックで走って。

 先輩たちの抑圧から逃れたせいか記録が伸びて、100mを10秒台で走っていました。それでまた国体に出ることになったのですが、その通知書を見た親父に叱られましたね。“貴様! 勉強もしないで浪人中に何やってるんだー”って(笑)」

19歳。浪人中にもかかわらず、出場することになった別府国体にて

 国体出場後、上智大学を再受験するがはねられる。受験誌の2次募集の広告で見つけた獨協大学外国語学部英文科を受験し、補欠でフランス語学科に入った。

「なんで俺がフランス語と思ったんだけど、そこなら入れてくれるというから(笑)」

 父がお祝いにと四谷の中華料理店でご馳走してくれた。小倉さんが懐かしそうに呟く。

「それが父としたたった1度の外食でした。だから、そのときのことはよく覚えています。餃子と焼きそばと瓶ビールでね……。その店も2、3年前になくなってしまいましたが」

 大学でも陸上部に入るが、ケガをきっかけに次第に部活から遠ざかる。浪人時代から始めていたバンド活動に傾倒するようになった。

 フランス語学科の仲間と組んだバンドでは、ベースとボーカルを担当し、小倉さんの司会も面白いと人気が出た。ビアホールやキャバレーで演奏するようになる。

学生時代、バンド活動ではベースとボーカルを担当

「当時、クレイジーキャッツのような音楽レベルの高いコミックバンドが全盛で、自分もそれで食べていきたいと思うようになりました。バンドの仲間もついてきてくれると思ったのですが、群馬テレビに入ったとか朝日新聞に決まったとか、1人だけ取り残されたんですよ。やっぱり就職しないとダメかなと……」

 掲示板でフジテレビのアナウンサー募集を見て、それもいいなと思ったという。ところが吃音症を心配して家族が反対した。唯一、反対しなかったのが共同通信社でカメラマンとして活躍していた姉の夫。義兄は幼いころの事故で左目を失明していた。

「片方が見えればカメラマンはできる。智昭だってダメなことはない。大丈夫だよ」

 その言葉に励まされ、フジテレビを受験し7次試験まで進むが、役員面接で不合格になってしまう。ほかに数社受けるもすべて通らずじまい。途方に暮れていると朝日新聞に東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のアナウンサー募集の小さな広告を見つけた。

「競馬」ネタで局アナ合格!

「東京12チャンネルの役員面接では、吃音症を克服したくてしゃべる職業に就こうと応募したと話しました。びっくりされましたね。フリートークのお題が“競馬”で、その段階で合格を確信しました」

 というのも、小倉さんは高校時代から近所の府中競馬場の芝や砂の上をトラックがわりに走っていたというのだ。

「当時は今と違い自由に出入りができたんです。馬が可愛くってね。ジョッキーや馬名、馬主の服の色まで覚えていました」

 持っている知識を駆使したスピーチは大成功し見事、合格を果たす。

若き日のプロフィール写真

「入社2か月目の研修で、先輩がふざけて次のレースをしゃべってみてと双眼鏡を渡すので、10数頭の未勝利戦を平然と実況したら驚かれ、来週からやってと(笑)」

 競馬の実況アナは通常2年以上の経験を要すると言われていたが、小倉さんは次の週から全レースを担当することになる。

「ただ吃音というのはそのときどきによって言葉が変わるんです。競馬放送を始めたころ、僕はカ行がダメでね。でも、よりによってカで始まる馬名が多かったんです。ですから、それをごまかすためにいろんな修飾語をくっつけました。例えばジョッキーの名前を入れて“郷原の右鞭飛んだカネミノブ”とか。そうすると自然に出てくるんですよ。それをきっかけとして、自分の感情も入れてレースをしゃべっていたら、それが名実況になっちゃったんです」

 その評判を聞きつけて、当時、大人の娯楽番組『11PM』の名司会者として鳴らしていた大橋巨泉さんに競馬場で呼び止められた。

「僕の競馬番組を手伝ってくれないか」

フリー転身後の「貧乏暮らし」

 29歳のとき、東京12チャンネルを退社し、フリーで活動することを決意し、大橋巨泉事務所に移った。

「入ったらてっきり仕事をたくさんもらえるものと思っていたら、そこが巨泉さんの実力主義のところで、競馬以外の仕事はまったくもらえず、8年くらい食えない時代が続きました」

競馬の実況中継が評判を呼んで、大橋巨泉さんからスカウトを受けた

 大学の同級生と25歳で結婚し、長男も生まれていたが、それまでの借金もかさんだうえに生活が逼迫し、30歳のとき離婚する。

「早い話が僕が悪いやつだったんで5年でうまくいかなくなっちゃって。子どもが小さいときに別れることになりました。

 養育費を月々支払うのも大変で事務所にも借金をして。ガスや電気が止まるのはしょっちゅうで、新聞も買えないので、電車の吊り棚やゴミ箱から拾ったものを読みました。新聞の真ん中にガムが貼りついていたり……」

 ある年の暮れ、ひとり暮らしのアパートに帰るとドアノブに紙袋がかけてあった。中には母の手製のおせち料理と缶ビールが。父からの手紙には「せめて正月らしい気分になりなさい」とあった。

「糖尿病がすすみ、脚も目も悪くなっていた父が訪ねてきてくれたかと思うと胸がつまって……。でも、みじめな自分を見せたくなくて、ますます実家へは足が遠のきました」

 父は小倉さんが33歳のとき、75歳で他界した。葬儀の後、実家のテレビをつけたら緑色と赤色が極端に強い画面が映った。それは失明寸前だった父がたまにテレビに出る息子を見ようと調整したものだった。顔を見せに帰れなかったことが悔やまれたという。

 4年の歳月が流れ、チャンスはようやく巡ってきた。

 大橋巨泉さんの人気番組『世界まるごとHOWマッチ』のナレーションを担当することになったのだ。

「その仕事をもらえたときはうれしかった。ただ出演者は石坂浩二さんやビートたけしさんなど個性派ぞろいだったので、当初、小倉のナレーションは普通でいいと言われました。またほかにもナレーション担当がいたので、毎回1~2本しかなくて。

 あるとき甲高い声でまくしたてるようにアドリブを入れてやってみたらウケて、巨泉さんが“その声、面白いぞ! 小倉はそれでいこう”と言ってくれたんです」

 小倉さんは七色の声が出せるナレーターとして脚光を浴びるようになる。ラジオのパーソナリティーとしても頭角を現し、文化放送『小倉智昭のとことん気になる11時』など平日の帯番組を担当し、日本テレビ『キャッチ』、フジテレビ『どうーなってるの?!』などのワイドショーにメイン司会で起用されるようになる。

「ハウマッチの開始直前に今の女房のさゆりと結婚したので、巨泉さんが“小倉のツキが回ってきたのは、さゆりのおかげ”とよく話していました。僕の努力はどうなんだって(笑)」

 小倉さんが15歳年下のさゆりさんと再婚したのは37歳のとき。まだ日本大学芸術学部演劇科1年生だったさゆりさんが、仲間とパソコンのスタジオを見学しに来たことがきっかけだった。さゆりさんの卒業とともにゴールインした。

「小柄で若く見えるので、結婚当初、ゴルフ場に連れて行くと、よく娘さんと言われました(笑)」

 そんなさゆりさんとも30余年。ゴルフのシングルプレーヤー同士、平日の午後にのんびりとラウンドを楽しむこともあると話す。

がんの治療法は自分で選ぶ

 1999年の『とくダネ!』スタート以来、病欠を取ったことはなかったが、昨年5月、膀胱がんの治療のため初めて1週間の休みを取った。

「僕は37歳のときに糖尿病を発症してからインシュリンを打つ生活を送っているのですが、血圧や食べた物を記録し、自分の排泄したものを観察するなどして健康管理をしてきたんです。ですから一昨年の12月に尿の中にほんの小さな血の塊があったのに気づきました」

 細胞診の結果、膀胱がんであることがわかった。

「医師からは筋肉に入り込んだあまりよくない浸潤がんだと言われて、膀胱を全摘することをすすめられました。でも、僕は嫌ですと言ったんです。男として男性機能を失うのも抵抗がありましたし、生活の質を下げてまで、膀胱のかわりにパックをつけたくなかったですから」

 小倉さんは自分でも膀胱がんについて調べ、セカンドオピニオンを受けるなどして、内視鏡手術でがんの一部を切除した後は、点滴による遺伝子治療に賭けることにした。

 予定どおり手術後6日目に番組に復帰し、7月にはリオデジャネイロオリンピックを現地から伝えていた。

 残っていたがんは昨年暮れにすべて消えていたという。

「今のところ身体の心配はほぼなくなったので、本格的にゴルフをしたり、自転車に乗ったり少しずつ運動しようかなと思っています。まぁ、また再発するかもしれませんが、自分の身体ですから自分の納得がいく方法で治療したい、そう思うんです」

「吃音症」は恥ずかしくない!

 小倉さんは自らの経験をオープンにすることで、吃音症に悩む人たちを勇気づけたいと、NPO法人全国言友会連絡協議会などで講演活動などを行っている。

「最初に、吃音は治りませんよといきなり言うんです。するとみんな、えーってがっかりするんですが。ただ僕くらいにはなれますって言うと、目がキラキラしてくる。

 それと、なんで今ふつうに話しているかというと、それはお金をもらっているからです! と言うとウケるんですが、実際にそんなもんなんですよ」

 小倉さんは今でも吃音症を克服してないと話す。さゆりさんやマネージャーと日常の会話をするときは、いつもその癖が出るのだとか。吃音にはさまざまなケースがあって、どう対処すべきかは、それぞれの立場に立たないとわからないのだと言う。

「犬に話しかけているときは吃音はない。ひとり言を言っているときも、歌を歌っているときも……。気持ちの問題もあるのかなと気づいて」

 小学生のころ、犬と河原を散歩しながら大きな声で話したり、歌を歌いながら吃音が出にくい声の出し方やコツをつかんでいったという。

当時飼っていた秋田犬のテルに話しかけ吃音を克服する練習に励んだ小学生時代

「小学校5年の担任の先生が連れて行ってくれたNHK秋田の児童劇団で演劇をしたり人前で話すようになったら、さらに自信がつきました」

 その後もDJコンテストやバンドの司会など、積極的にマイクの前に立つ機会を増やしていった。

「講演のとき、つっかえながら質問する人に、“恥ずかしいことじゃないよ”と言うんです。アメリカ人なんて、カッコつけるためにわざとそうやってるじゃないですか? ちょっと考えるときのポーズみたいにね。

 それで“あなたの話し方は大丈夫! こういうふうにしてごらんなさい”って言うんですよ。吃音でもいいから自信を持って話しなさい、内容が大事なんだからと。

 その後“面接に通りました!”なんてお手紙をもらうと、すごくうれしいですよね」

生涯現役。目標は2020年!

 現在、小倉さんは平日の帯番組を持つ司会者の中で最年長となった。そして来月70の年を迎える。

 師弟関係にあった大橋巨泉さんは、56歳でセミリタイア宣言し、メインの仕事を降りて、ゴルフや釣りをするなど悠々自適の生活を送っていたが、小倉さんはその師の教えをどう受け止めているのだろう?

「僕も最初は憧れていたんですよ。でもね、あるとき巨泉さんが“セミリタイアは飽きる”って言いだして(笑)。

 やっぱり何かやってないとダメなんでしょうね。巨泉さんのそういうのを見ていたから、働けるうちは働いたほうがいいかなぁって。

 それと同窓会へ行くとね、同期のやつらがみんな老けちゃってるわけですよ(笑)。それでみんなに“お前は俺たちの星だから頑張ってくれよ。お前がテレビに映っているのを見ると、俺たちも頑張れる気がするからさ”なんてよく言われてね。生涯現役でやろうと思い始めました」

 最後に、父の教えを貫いてきた小倉さんに、次なる目標を聞いてみると……。

「とりあえずは2020年のオリンピックまで『とくダネ!』を続けること。そして1964年の東京五輪のときに聖火ランナーをしたので、また聖火を持ちたいってことですかね!」

 そう笑顔で答えてくれた。吃音症も下積み時代もがんもすべてをバネにしてきた団塊のトップランナー。再び聖火を手にして何を伝えてくれるのか? その日を待ちたい。

取材・文/森きわこ