静岡県ではスペイン国王夫妻を案内された(4月7日)。国際親善の活動も“最終局面”に

 天皇陛下と皇后美智子さまのご予定について「両陛下は5月17日から、取りやめになっていた栃木県日光を私的に訪問されることが決まりました」と話すのは、ある宮内庁関係者。

 今回のご旅行は、両陛下に四季の移り変わりを楽しんでもらうことを目的に、'13年に始まった「私的旅行」で今回が8回目となる。

日光への旅行は当初、'15年9月に計画されましたが、直前に栃木県・茨城県で大きな被害がでた『東日本豪雨』があり、両陛下は自粛されていました」(宮内庁担当記者)

 太平洋戦争の末期、日本各地で米軍機による空襲が激しくなると、子どもたちを地方に避難させる「疎開」が行われることに。

 陛下も美智子さまも例外ではなく、陛下は当初沼津へ。そこからさらに疎開されたのは、栃木県日光市だった。

 日光でも陛下と机を並べた学習院時代の同級生で、元共同通信記者の橋本明さんが振り返る。

「陛下の朱塗りの盆にのった弁当には卵や肉類もあり豪華で、おいしそうだった。ただ年に数度、私たちには家族が疎開先に来て面会し、ごちそうにありつけたものです。

 お立場上、昭和天皇や香淳皇后が会いに来るはずはなく、たいへん寂しい思いをされていたと思います」

 やがて、宇都宮が空襲にあい奥日光に再び疎開すると、陛下の食卓からは卵もなくなり、同級生たちと野草や木の実を採りに行かれたという。

玉音放送を聞かれたのも、昭和天皇から戦争の敗因を説明された手紙を受け取ったのも奥日光でした。そんな地を再訪することで、平和を願い戦争を繰り返してはならないというメッセージを示される意義は深いと思います」(橋本さん)

 陛下に同行する美智子さまも、疎開先への郷愁が募っておられることだろう。

「美智子さまは、1944年春に神奈川県の鵠沼にあった日清製粉の寮に疎開されました。

 その後、'45年3月に群馬県館林へ。さらに6月下旬には長野県軽井沢に移り、終戦は軽井沢で迎え、9月に再び館林に戻られました」(皇室ジャーナリスト)

館林は深い思い入れのある土地

 群馬県館林市は、美智子さまのご実家・正田家の本家もあるので、とりわけ思い入れの深い土地─。

 クルッとカールしたような髪の毛の“都会的”な小学生だったという美智子さま。慣れない地方生活や食糧難でつらい時期もあったが、リレーでは、はだしのアンカーとしても活躍された。

館林での疎開時代、友達とリレーの賞品のノートを持たれる美智子さま(右・'45年ごろ)

実は2年前の日光訪問の次は、館林を訪問する構想もあったようですが、お取りやめで流れてしまいました。今回のご訪問の後、美智子さまの疎開先へという計画になるはずです。最近、軽井沢は夏休みに訪問し鵠沼は東京から遠くないので、館林が選ばれると思います」(同・関係者)

 両陛下のそんな姿勢について、皇室を長年取材するジャーナリストで文化学園大学客員教授の渡邉みどりさんは、次のように話す。

両陛下は、海外にまで足を延ばし戦争の犠牲者を慰霊してきました。しかし、1年半後にはご退位となりそうで、このようなテーマに主体的に取り組むことは難しくなります。

 それまでに、ご自身たちが先の戦争中に過ごしていた場所を訪ね、戦争体験の継承や平和祈念というおふたりの共通テーマの集大成にされようとしているのだと思います

 来年の今ごろ、美智子さまは、'08年4月以来の館林の地を踏み、「祈り」の“総仕上げ”をされることになるかもしれない。