写真はイメージです
在宅看取り医の千場純さんは、医師となって40年。そのうち20年以上を在宅医療に力を入れてきました。患者さんにはさまざまな人生があり、命のとじ方があります。これまでに出会った患者さんの心に残ったエピソードを、その方ご本人に語りかける形で紹介してもらいました。「素直に死を受け入れて、安らかな気持ちで往く」享年59歳の女性のお話です。

 病気を受け入れるのは、むずかしいことです。年齢が若ければなおさらのことでしょう。

 ちょっとした風邪だと思って診療所へ行き、レントゲンを撮ったらーーそれはすでに進行した肺がんでした。2年半ほど前のことになります。

 あなたは、いきなりの「肺がん」の宣告をどんなふうに聞いたのでしょうか。そして、それから何度もくり返される抗がん剤や放射線の治療を受け、なにを思って悩み、なにを感じて過ごしたことでしょう。

 2か月あまり入院していた病院から、長年住み慣れた自宅にようやく戻ったあなたですが、肺がんや、脳への転移によってこれから起こる、あまりにもかんばしくない病状変化をそれなりに聞かされていたはずです。

 そして、実際にちょっと動いただけでも出現する息苦しさと、右腕の付け根あたりの重苦しい痛みや、しだいに脱力していく右の手や足の感覚などから、もう間もなく終わるかもしれない自分の命の限界をも予感していたはずです。

 それなのに、どうして間に合うかどうかもわからない住宅改修を強引に依頼したのでしょう。ケアマネさんは(生きているうちに工事が終わらないと、その費用は介護保険の適用外になり、自費になってしまうので)とってもひやひやしていました。

自宅に戻って慣れない娘さんの介護がはじまった

 あなたは、ご主人と別れてからもう20年このかた、女手ひとつで娘さんを育て、彼女が嫁いだあとは、ずっとひとり暮らしだったそうですね。その娘さんが、看病のために一時的に、7歳と10歳の二人の孫娘といっしょに戻ってきていました。あなたにとって、そのことがどんなにか心強く、またうれしかったことでしょう。

 でもなぜかあなたはいつも、小柄で優しい娘さんには強過ぎる口調で、「それ、とって!」、とか「これ、片づけて!!」などと、次から次へと指示や小言を連発し、その一方で私たちには「娘がちっとも役に立たないーー」と苦言ばかりをもらしていました。

 たしかに最初のころ、はためから見ても娘さんは、母親になにかやってあげたい気持ちはあるけど、どうしたらよいかもわからない様子でした。ずっしり湿ったおむつや尿瓶のあと片付けもできず、汚れたシーツの処理も遅かったから、あなたにはそんなふうにしか動けない娘さんがとても歯がゆかったのでしょう。

かけがえのない日々

 そんな思いが伝わってか、その後は少しずつでしたが、ベテランの訪問看護師さんたちから介護や看護技術のコツを教えてもらいながら、娘さんの介護の手際はどんどんよくなっていきました。

 けれどその一方で、あなたの呼吸困難はどんどん強くなり、在宅酸素療法を余儀なくされました。さらに、やがて脳転移が進行して眼球の動きも制限され、うまくしゃべれなくなっていきました。

 そんなふうに短時間に次から次へと辛さと不自由さが増していったはずなのに、あなたは不思議なくらい素直に、そのひとつひとつを受け入れていったのです。

 1週間ごとの訪問診療のたびに、あなたの病状は悪くなっていきました。にもかかわらず、その中での娘さんと孫娘との暮らしはとてもほほえましく、シッカリとした絆で結ばれ、たいそう幸せそうな時間が流れていたように思えます。

 やがて徐々に自分で体を動かすことも大儀になって、少しずつ呼吸が荒くなりはじめたころ、苦痛緩和のために体験していただいたのが、アロマトリートメントと音楽療法でした。

 残念ながらいずれもたった1回ずつでしたけれど、それをあなたはとても喜んで受け入れてくださいました。ほんの少し垣間見えた安らぎや満足の表情に、私たちのほうがかえってなぐさめられたような気がしています。

近所の人に偲ばれてにぎやかに

 それから数日して、あなたの命の灯はフッと静かに消えました。朝からよく晴れた日曜日の午後のことでした。

「呼吸が止まった!」と娘さんから連絡を受けて駆けつけたとき、そこには私がまったく予測しなかった光景がありました。いつもひっそりとした部屋にはなんと10人近くの人たちが集っていて、たいそうにぎやかだったのです。

 “そのとき”を知って、それとなく近所の人たちが集ってきたのでした。私はその人たちの中を分け入るようにしてあなたのかたわらにたどり着き、いつもと違うそんな衆人環視のもと、いつもより緊張して死亡確認を行いました。

 それにしても、親せきでもないご近所のみなさんがごく自然に、この臨終の場に集っている空間は、永年の私の訪問診療体験の中でもはじめての遭遇でしたが、妙にしっくりとなじんでいたのには驚かされました。

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 とにかく、あなたの人生の最終章は、肺がんという病のおそろしさや苦しさと、さまざまな恨みつらみでその2年半の数ページが埋めつくされていてもおかしくなかったはずです。それなのに、そこに書きこまれていったのは、娘さんやお孫さんに囲まれ、そして最後の最後にやおら登場した大勢の近隣の方たちとの知られざる絆の物語だったようです。

 あなたから私たちが教えられたのは、具体的な言葉を用いることなく伝えられた、娘さん家族への教えであり、私たちへの気づかいでした。

 そのおかげで、娘さんは、まだ十分に年老いていない母親との最も辛い別れを通じて、見事に一人前以上の看取り介護の役割を果たし切ったのです。

 追伸 あなたの“そのとき”はあなたの娘さんに「もしこれからなれるものなら、私は看護師になりたい」という言葉をもいわせたことも、知っておいてください。

看取り医のひとりごと 
 進行性の肺がんで急速に体がむしばまれていったあなた。自宅に戻ってからは、脳の転移も起こり、目も不自由になり、しゃべれなくなり、食事もとれなくなりましたね。肉体的にも精神的にも、とても苦しかったろうと思います。
 しかし、次々と現れる病状悪化の波にあらがわず、自分の運命を呪い、不平や不満をもらすことなく、あなたは素直に病状を受け入れていたように思えました。亡くなるほんの3日前の音楽療法でも、動かしにくい口でくったくなく歌をうたわれていましたよね。
 体の中で起こったことはしょうがない、というあきらめからなのかもしれませんが、私にはあなたが、がんを受け入れ共存し、最後は死をも受け入れて、安らかな気持ちで亡くなっていったように思えてなりません。

千場純(ちば・じゅん)◎社会福祉法人心の会 三輪医院院長。2025年問題を見据えて、在宅死率全国1位の神奈川県横須賀市で「在宅看取り」の普及に取り組む。地域住民と多職種が自由に集まる、くらしのリエゾンステーション「しろいにじの家」を開設。多くのイベントを通じて、住み慣れた家で安らかに最期を迎える「看取りの形」を考える。