■事故当時を思い出すと、まだ胸が苦しくなる
JR発足後の事故としては、史上最悪の惨事となったJR福知山線脱線事故。今年の4月25日で事故発生から10年目を迎えるが、身体的な後遺症やPTSDに悩まされている被害者もいまだに多い。当日、事故車両の3両目に乗り、事故にあった元タカラジェンヌの万理沙ひとみもそのひとり。
「あの一瞬で、それまでの日常がすべて変わってしまいましたね」
事故当時を思い出すと、まだ胸が苦しくなることもある、と言いながらも、当時をこう振り返る。
’87年に75期生として宝塚に入団、娘役として数々の演目に出演し、’98年に退団した彼女。事故当日は、知り合いが立ち上げた人間ドックの事務所へ、電話番のアルバイトをするために向かっているところだったという。
「普段、あまりあの線は使わないんですよ。アルバイトも毎日ではなく、たまたま私があの日の午前中の当番だったというだけです。私、いつもなら時間ギリギリで動いているんですけど、あの日は早めに家を出たんです。最寄りの駅から阪急電車でJRの川西池田駅に出たら、止まっていた電車が乗り換えなしでいける電車だったので飛び乗りました。掲示板に出ている電車とは違っていたのですが、あの時は遅れているのかな、くらいしか思いませんでした」
その電車は事故の予兆のように、次の伊丹駅で70メートルのオーバーランをする。
「停車した時、何かいつもと風景が違うな、って。そうしたらジェットコースターみたいな感じでバックして。乗っていたお客さんはザワついていましたね。伊丹駅からはけっこう人が乗ってきて、ほぼ満員になりました。事故の瞬間は……、何が起こったかわからなかったです。身体が横にグググッと流される感じがして、急ブレーキかな、と思ったら人が上から降ってきて。次に気がついたら人の下敷きになっていました」
1両目は片輪走行で左に傾き脱線した後、線路脇のマンション1階の駐車場部分へ突入。2両目は車体側面をマンションに叩きつけられた状態で3両目に追突された。万理沙が乗っていた3両目は、この衝撃で180度回転。
「私の下にも人がいて、人が積み重なっている状態で、その中に私も挟まれて。でも足の先は宙ぶらりんで浮いている状態でした。自分の足も出血していましたが、その浮いている足にポトポトと、おそらく誰かの血でしょうね、したたり落ちてくるのを感じて。自力で何とかしなきゃ、こんなところで死ぬなんて冗談じゃないって。でも、身体が動かないんです」
そんな中、動ける乗客たちが救助活動を始め、彼女も人の手を借りて車外へと出た。
「気持ちが高揚していたのだと思います。痛みは感じてなかったんですよ。そこから近所の方々が車で負傷者を病院に運び始めて、私もバンの荷台に乗せてもらい、現場を離れたんです。車が揺れるので、全然知らない男性が手を握ってくれていたんですけどそのとき安心したんでしょうね……涙があふれてきて。そこで泣きじゃくりました」
病院に運ばれ、治療を受けた彼女、右足は粉砕骨折。左足も剥離骨折で入院。その後転院し、3度の手術を受け、入院生活は半年に及んだ。
「右足は今もボルトが入っています。最初は何も思わなかったんですけど、手術後の尋常でない痛みと、両足をギプスで固定され、ベッドの上にいるだけの自分が受け入れられなくなって……。気が狂いそうになりましたね」
■今は、完全に治らないともう踊れない、とわかっています
そんな彼女を待っていたのは、つらいリハビリの日々。
「“治すんだ”と必死でした。普通ならリハビリは毎日午前と午後だけですが、それに夜を加えた3回。プラス、東京で気功療法というのがあると聞いて、月に2〜3回週末に行ったり。今思えば、しんどいことしていました(笑い)」
その治療費は補償として、JR西日本が負担していたのだが次第に対応が……。
「当時、東京までの交通費も含め、すべて払ってもらいました。ただ、黙っていると“会社の決定です”と、治療費などの諸経費を切ろうとするんです。治療を始めて1年もたたないうちに“座ってできる仕事もありますよ”とも、言われて。事故がなければ、こんなイヤな思いをしないですんでいるのに……。
今は完全に治らないことはわかってきています。でも、どこまで戻れるか、現状維持だけでも、と今もリハビリを続けています。宝塚のころはゼロからどれだけプラスにできるかだったけど、今はものすごくマイナスなものをゼロにどれだけ近づけるか、なんです。もう踊れないんだなと思うと涙が出るときもありますよ。後ろ向きなことを考えてはいけないとわかっているんですけどね」
事故の責任について、業務上過失致死傷罪で強制起訴されていたJR西日本の歴代3社長に対し、今年3月、大阪高裁は1審の無罪判決を支持し控訴を棄却した。
「不思議ですよね。じゃあ、誰が悪いんですか? 死亡した運転士だけが悪いんですか? 私は不祥事を起こしたなら、その企業のトップが責任をとるのが普通だと思いますけど。JRともずっと話し合いをしてきていますが“会社としてあなたにかなりのお金を使っているんですよ”なんて言われました。私は治したい一心でやっているのに。社長からは“誠心誠意を込めて”なんて言われましたが、本当にそうしてほしいと思います」
10年という時間が流れても、いまだ癒えない心と身体の傷。
彼女は過ごしてきたその時間を、こう振り返る。
「この10年、ほとんど治療とリハビリ、JRとの交渉に悩まされてきました。でも、私自身も年をとっていくわけでこんなことだけじゃ人生がもったいないですよね。あっという間とも思うし、長かったな、とも思います。でも10年という節目でちゃんと区切りをつけて、次のステップに移れるようにしたいですね」
◎JR福知山線脱線事故の“真相”は?
2005年4月25日、JR塚口駅・尼崎駅間の右カーブ区間(尼崎駅の手前約1.4km地点)で、午前9時18分ごろ福知山線の宝塚発JR東西線・片町線経由同志社前行きの上り快速列車の前5両が脱線。先頭車両2両が線路脇のマンションに激突し、死者107人、負傷者562人を出した。事故調査委員会は、単純転覆脱線と結論づけたが、メディアからはその原因として運行ダイヤの過密化、乗務員に対する懲罰的な日勤教育などが取り上げられた。