なぜ、どのようにして「戦後最大の犯罪」は起きたのか……。その謎はまだ十分に解き明かされていない。

 社会を震撼させた地下鉄サリン事件の発生から20年。節目を迎える今、ここからオウム真理教に迫る。

河野さん (1)
河野さんはひかりの輪の外部監査委員長も務めている

 1994 年6月27日、長野県松本市で発生した『松本サリン事件』。被害は死者8人、重軽傷者660人。事件直後、被害者ながら事件への関与を疑われ“犯人”扱いされた元会社員がいた。河野義行さん(65)だ。

 警察は執拗に取り調べを行い、マスコミも連日のように河野さんへの疑いを記事にした。

「入院中は大勢の記者が病院に押しかけ、退院後は毎日自宅を取り囲みました。取材依頼の電話や嫌がらせの電話、脅迫状まで送られパニック状態でした」

 河野さんは妻の名誉のためにもと、さまざまな手段を講じて無実を訴えた。そして翌年、地下鉄サリン事件が発生。松本の事件もオウム真理教の犯行の関与が明らかになり、ようやく潔白が証明される。

 オウム事件後、河野さんは講演などで、広く犯罪被害者支援を訴えてきた。

「被害者にとって、まず経済的な被害がある。例えば治療費。入院から1週間で総額300万円の請求が来ました。事件から10年間の自己負担は、実に2000万円を超えていたのです」

 河野さんは『NPO法人リカバリー・サポート・センター』の設立に関わり、犯罪被害者への支援の充実を訴えてきた。ようやく世論も高まり、2004年には『犯罪被害者等基本法』が成立する。

「私も給付金を請求したのですが、裁定された金額は417万円。妻を東京の病院に4か月間入院させた時の差額ベッド代とほぼ同額でした。また、付帯私訴といって被害者が被告人に損害賠償を求める訴えを民事で起こせるのですが、被告人に財力がなければ、1億円の判決であろうと結局ゼロ。それどころか、印紙代と弁護士費用でマイナスになってしまうのです」

 そんな状況の改善には、犯罪被害者保険制度の確立しかないと河野さんは言う。

「市民に広く薄く原資を求めて付帯私訴を担保に保険が下りるようにする。そんな補償金が確保できるようなシステムがあれば、いつまでも加害者を恨むようなことはなくなるはず」

 河野さんは、服役を終えた元オウム信者と交流し、また元幹部の死刑囚たちとも面会をしている。彼らの印象は「ごく普通のまじめな青年たち」だった。

「一連の裁判でもっとも問題なのは、再発防止が大切だと言いながら麻原彰晃氏の控訴審を打ち切ってしまったこと。肝心の首謀者の考えを聞き出さずに、死刑確定だから事件は終わったとするのはあんまりです。なぜ事件が起きたのかを徹底的に探り、それに対して恒久的な対策をしていくことが事件の終わりなんです。今のままだとどんな手を打てば再発防止になるのか、まるでわからない」

 河野さんは一貫して死刑反対を訴えている。

「麻原氏の死刑にも反対です。命そのものが何物にもかえがたい大事なものだというのに、2人以上殺害したから死刑、というのはおかしい。さらに、私も体験した冤罪の問題もある。人間は間違いを犯すんです。だから、死刑を認めてはいけないんです、絶対に」

 事件から14年後の’08 年、河野さんの妻は、サリン中毒による低酸素脳症のため意識が戻らぬまま、8人目の犠牲者となった。

 妻の死後、河野さんは鹿児島市に転居し、昨年7月には霧島市の海の近くに移住。“隠居生活”を送りながら講演活動も続けている。その表情はいたって穏やかである。

「死はいつも隣り合わせにある。そしてそれは突然やって来る。そんな中で、少なくとも生きている間は楽しく生きたほうがいい。被害を受けてつらい思いをし、特定された加害者を毎日毎日、恨んで過ごす─そんな日々が楽しいですか? 過去が変えられないのなら、受け入れるしかないんですよ」