天皇・皇后両陛下は鬼怒川の水害をうけて、17日から18日にかけて、プライベートで訪問予定だった栃木県日光市行きをお取りやめになった。そして、今回の記録的な豪雨によって、実現が不透明になったほかの”ご訪問”もあるという。両陛下に近い関係者が明かす。

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友達をうらやましがらせたパーマをかけたような髪の美智子さま(1940年・6歳ごろ)

「実は日光訪問後に両陛下は、美智子さまの戦争中の疎開先だった群馬県館林市を訪問される構想もありましたが、今回の中止で、さらに先延ばしされることになりました」

 陛下と同様に、太平洋戦争中は疎開のため各地を転々とされていた皇后美智子さま。

 苦難の時代から70年がたち厳しかった田舎での生活の思い出を陛下と分かち合いたかったはずで、「残念」な思いもひとしおに違いない─。

《疎開先での日々は、それまでののどかな暮らしからは想像もできなかったものでした》

 昨年10月のお誕生日に際しての文書回答で、そう振り返っていた美智子さま。

《終戦後もしばらく田舎にとどまり、6年生の3学期に東京に戻りましたが、疎開中と戦後の3年近くの間に5度の転校を経験し、その都度進度の違う教科についていくことがなかなか難しく……》(同・文書)

 と回想されているように、1学年上の陛下が、三里塚、沼津、日光、奥日光へと疎開を繰り返していたときに、美智子さまも関東各地を転居していた。

「終戦前年の1944年に、美智子さまは神奈川県藤沢市の鵠沼にあった日清製粉の寮に疎開されました。その後、鵠沼周辺も攻撃される危険性が高まり、各地の空襲が激しくなると、1945年3月に群馬県館林へ疎開されることになりました。さらに夏ごろには長野県軽井沢に移り、8月15日の終戦は軽井沢で迎え、9月に再び館林に戻り、東京に帰られたのは1947年のことでした」(皇室ジャーナリスト)

 館林は美智子さまのご実家・正田家の本家もあり、美智子さまにとっては思い入れの深い土地。

 ’08年4月に群馬県を訪問されたときには急きょ、正田家に立ち寄り、疎開中の美智子さまがよく遊んでもらったという親戚の正田芳子さんにも挨拶をされている。

 美智子さまが館林時代に通われていた館林南国民学校(現・館林市立第二小学校)で、3学年後輩だった新井喜代子さん(78)が当時の様子を語る。

「美智子さまとは学年は離れていましたが、髪の毛がクルクルッとカールして、すらっとした、あか抜けた可愛らしい人だったことを覚えています。確か運動会で私は同じチームになりましたが、美智子さまはリレーの選手に選ばれ活躍していました。美智子さまには、その後、婚約発表された後、お里帰りしたときにお見かけしたときには、ふっくらとした印象でした」

 そして7年前に美智子さまと直接、お目にかかる機会があったと新井さん。

「夫の叙勲で『秋の園遊会』に出席したときに“館林から来ました”と申し上げると、“ありがとう”という言葉をいただきました。昔に比べほっそりされていましたが、品のある雰囲気は小学生時代から変わりませんね。館林にお帰りの際には、またお見かけすることができればと思います」

 同窓生や懐かしい人々が待ち受ける“故郷”に再び帰ることを、美智子さまも楽しみにされていることだろう─。