近年はSNSの充実で、地方からも全国的な人気を獲得するコンテンツが誕生している。これからも確実に地方からスターは生まれ、それらの命は、東京のエンタメ観では見つけられない場所で産声をあげています。そんな輝きや面白さを、いち早く北海道からお届けします。(北海道在住フリーライター/乗田綾子)

 ジャニーさんが天国に旅立ってから、もうすぐ2か月。ジャニーズ事務所の現役タレントによる『家族葬』に続いて、9月4日には東京ドームで『お別れの会』が予定されており、『お別れの会』ではすでにジャニーズ事務所を離れているタレントたちにも、招待状が送られたと報じられました。

退所組が語るジャニーさん

 ジャニーズの現役タレントがジャニーさんのエピソードを話す機会は、特に平成後期以降、飛躍的に増えています。しかしその一方で、事務所を離れてしまった元所属タレントたちはというと、表立って思い出話をする機会がほとんどなくなっているのが現実。そのため、ジャニーズを辞めた彼らが見ていた“ジャニーさん”については、あまりよく知らないという方が、時間を追うごとに増えていっているのではないでしょうか。

 そこで今回はあえて「ジャニーズの退所組」に照準を合わせ、エッセイや出演番組の中から、彼らが語っていたジャニーさんの思い出をピックアップ。

 人生の一時をともに歩み、そして“巣立っていった子どもたち”の視点から、改めてジャニーさんの軌跡を振り返ります。

若かりしジャニーさんを語る、元フォーリーブス・江木俊夫

 まず最初にご紹介するのは、かつて『フォーリーブス』の一員として活動していた、江木俊夫さんの記憶。1960年代から1970年代にかけてジャニーズ事務所に所属していた江木さんは、事務所を立ち上げて間もないころのジャニーさんを知っている、今となってはかなり貴重な存在でもあります。

 そんな江木さんがかつて自著で語っていた、「若かりしころのジャニーさん」の記憶がこちら。

《ジャニーさんは、黒々とした髪、色白の頬にいつも青々としたヒゲの剃りあと、小柄でよく気がつき、いつも動きまわっている……。そのころ三十代前半であり、精力的で、終始早口であれこれ指示し、疲れを知らないようでちょっと圧倒されました》(KKベストセラーズ『ジャニー喜多川さんを知ってますか - 初めて語る伝説の実像』江木俊夫:著)

 平成育ちのジャニーズファンにとってはなかなか想像のつかない、「黒々とした髪」のジャニーさん。しかし「早口であれこれ指示し、疲れを知らないよう」な姿は、晩年もなお、尽きることのなかったジャニーさんの情熱を思えば、なんとなく想像ができます。

 また江木さんは同じ本の中でもうひとつ、ジャニーさんにまつわる「驚きの記憶」にも触れていました。

《わたしがジャニーさんを単純にスゴイと思ったのは、アメリカの番組プロデューサーと対等の立場で話し合っている後ろ姿を見たときです。ジャニーさんはアメリカ国籍ですから、英語がしゃべれるのは当然。それでも、細かいニュアンスまで理解して応えている態度に、驚きを感じたものです。しかも、ジャニーさんはまったく引け目を感じることなく、対等に向き合っていたのが印象的でした》(同著)

 アメリカのプロデューサーとも堂々渡り合うジャニーさんを江木さんが目撃する少し前、アメリカでは坂本九さんの『上を向いて歩こう』(英題:SUKIYAKI)が全米1位を獲得していたのですが、当時、坂本さんと親交があった黒柳徹子さんは「『全米ビルボード1位』というのがどれほどすごいことなのかなんて全然わからなかった」「『よくやった!』なんて、誰ひとり言わなかった」と話していたことがありました。

 つまり当時の日本とアメリカは、まだエンターテインメントの評価ですら分断状態という、かなり遠い関係性にあったわけです。それでもジャニーさんは、当時の常識になんら飲み込まれることなく、自分の信じた才能を真摯(しんし)に売り込んでいたことが江木さんの「驚きの記憶」からは伝わります。