ファッション雑誌『CanCam』の専属モデルとしてデビューし、フジテレビ総合格闘技番組『SRS』の5代目レギュラーMC、バラエティ番組などでも活躍する西山茉希。'13年に大衆演劇スターと結婚するも'19年に離婚。現在はシングルマザーとしても奮闘する彼女が娘に抱く想いとは──? デビュー秘話から恋愛観、現在の生活についてまで語ってもらった。(以下、「」内は西山の発言)

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 西山茉希は'85年、新潟生まれ。芸能界デビューのきっかけはスカウトだが、そのシチュエーションはユニークだ。

「大学受験で上京する友達に、私は“卒業旅行”としてくっついて行ったんです。本当に、単なる思い出作りぐらいの気持ちで。でもそこで銀座駅の中で迷子になっちゃって(笑)。そこで私に声をかけてくれたおじさんがいたんです。のちのマネージャーさんなんですけど」

 だが芸能界にはまったく興味がない西山は「早く解放してもらいたい」想いで連絡先だけを渡して帰郷。その後も同スカウトマンからの誘いをずっと断り続けていたが、「18歳のあなたがやってないことに決めつけて答えを出しているのが今。経験しないと分からないことは多い。だからやってみては。それでダメだったら辞めればいい」との言葉が転機に。自身を試すために上京した。

「右も左も分からなかった。東京に着いたらモデル人生の“電車”は走り出している。本能的に“もう降りられない”と悟りました」と当時の狂騒と戸惑いを振り返る西山。ファッション雑誌『CanCam』のヘアページからスタート、数カ月後に蛯原友里や大桑マイミたち先輩たちと混ざって表紙にも登場したが、もともと古着好きで『CanCam』とはファッション傾向も違ったため相当な苦労と努力を重ねたという。

仕事も人生も恋に支えられて

 当時は、撮影があるときだけ新潟から東京に通っていた。だが新潟県中越地震の時、両親から「あなたの職業は“笑顔”でいなくちゃいけない」と諭された。「私は『CanCam』でもハッピー担当みたいなところがありましたから。だから余震に怯える生活を送るのは仕事にマイナスだと。東京に兄が住んでいるのでそこから通いなさいと言われました。事務所へも私からではなく『西山家のわがままですが』と話をしましたね。そして東京での兄との同居生活が始まったんです」

 仕事は多忙を極めた。モデルの自分と実際の自分──。何が本当か分からなくなり、自分が何をしているかも分からなくなる瞬間もあったという。

いつの間にかに、朝4時から長い時で夜中の2時とかまでの仕事をやって、その間にバラエティに出演するようになりました。そしたら本来の“人と過ごしたい、人と一緒に笑いたい”って欲求がわからなくなっちゃって

 芸能界に興味なく育ってきた“田舎娘”にとって、華やかさの中を走り続ける“電車”から一歩も降りられないのはあまりに酷なことだった。そんな西山を救ってくれたのが、玉袋筋太郎や水道橋博士の浅草キッドだった。

『SRS』のビジュアルクイーンに就任し、共演させていただいたのが浅草キッドさんでした。おふたりは収録以外でなんとなく話している私を見て、素の私を見つけてくれたんです。それを番組でも引き出してくれて。収録中に“私”が帰ってきた瞬間でした。そして思ったんです。『私はお仕事が好きだ。テレビも好きだ。お喋りも大好きなんだ』と

 そんな西山は自身のことを「ある意味、恋愛体質だった」と語る。「本能で人を好きになるんです。例えば芸能界で仕事をしている人だと“この人と付き合ったらこういうメリットがあるな、デメリットがあるな”という風に考える人は少なからずいらっしゃると思います。でも、私は人を好きになったら100%じゃなく120%好きになってしまう(笑)。まるで小学生。“オトナの恋愛”ではありませんでしたね(笑)」

 西山は“奉仕されるより、奉仕して満たされる”タイプだったという。すごく素敵なプレゼントをくれる人より、「お腹が空いた」って弱っている人の方へ行ってしまう恋愛観の持ち主だ。その一方では、本当の意味で人と向き合うことを恐れる臆病な自分もいた。新潟の田舎育ちの西山にとって、華やかで大人のビジネスでもある芸能界はまぶしすぎ、大きすぎる自分へのプロジェクトがどこか、身の丈に合ってない感も覚えていた。

 プライベートでは食事や、友達との付き合いも拒否。それは仲の良いモデルの山田優にさえ「茉希は、すぐに携帯の電源を切ってつかまらなくなっちゃう」と言われるほどだった。なのになぜか、恋愛では、本能的に人を愛せた。「恋をすると2、3年止まっていた生理が突然来たりするほどで、人間ってメンタルが大事というか、私は恋に支えられて人生も、仕事も、頑張れていた気がします」と振り返る。