愛知県を中心に、日本全国で68店舗、海外で3店舗を展開している人気居酒屋「世界の山ちゃん」。現在、そのトップは1度も経営に携わった経験のなかった山本久美さん(53)が務めている。そんな彼女の社員とアルバイト合わせて1700名近い人間をまとめる経営の基礎は全国制覇を成し遂げたバスケットボールの部活で培われていた―。

山ちゃんの急死

 4年前の、2016年8月21日の朝6時─。

 気象庁の記録によれば、この日、名古屋の気温はすでに25・2度。昨日までの雨も上がり、蒸し暑い1日となることは確実だった。

 自宅2階の寝室で、山本久美さん(当時49歳)が目を覚ました。

 夫の山本重雄さんは、スパイシーな手羽のから揚げを看板に、一代で『世界の山ちゃん』全国61店舗網(当時)を築き上げた飲食業界のカリスマ。やり手経営者の常として、4時か5時には起床。誰よりも早く仕事を始めるのが日課だったから、この時間なら、もう出社しているはずだ。前日は、知人が開いた『ゆかたの会』に参加。大勢のゆかた美人に囲まれて、ごきげんなひとときを過ごしたばかりであったという。

 久美さんが寝室から1階のリビングへ向かう。目に入ってきたのは、床に横たわる重雄さんの姿だった。

 久美さんが言う。

「ふざけて寝たふりをしているんだと思いました。うちの子どもは、起こしたあとによく2度寝しちゃうんです、リビングで。

 主人はそれがすごく嫌いで、“1度起きたら寝るな”と言っていたのに主人が寝ている。だから冗談でやっているんだと。それで、“お父さん、いつも2度寝はダメだって言っているじゃない”そう言いながら起こしにいって……」

 冗談どころか、大ごとだと気づいた久美さんがあわてて救急車を呼ぶ。

 病院に運ばれたが、重雄さんが目を覚ますことは2度となかった。享年59。死因は大動脈解離だった。

『決して悪いようにはせんから─』

 久美さんにも従業員にも、そう語りかけるのが常だったというカリスマ経営者の突然の死去。

「“決して悪いようにせんから”が、いちばん悪いことになっちゃったな、って……」

 久美さんはこのときはまだ、自分が全国68店舗、社員約180名とアルバイト約1500名('20年3月末)を率いる立場になろうとは、考えてもいなかった─。

常にバスケットボールとともにあった人生

『世界の山ちゃん』代表取締役の山本久美さんこと旧姓・塩澤久美さんの人生は、常にバスケットボールとともにあった。

 本格的な関わりあいは、名古屋市立守山中学に入学してからだったという。

「小学6年でバスケを始めたものの、中学ではバレー部に入ろうと決めていたんです。ところが、たまたま姉がバスケ部の井上眞一先生の学年で。春休みに姉に、“妹がバスケをやっているんなら、練習に連れてこい”と指令が下った」

 井上先生は守山中学を経て1986年に名古屋短期大学付属高校(現・桜花学園高校)のバスケ部監督に就任。以来、インターハイに24回、国体で21回など計67回の優勝を果たし、1988年からは全日本ジュニア(現U―18)のヘッドコーチも務めたという名伯楽からの誘いだった。

「練習に行ったら、先生からTシャツとか短パンとかソックスとかをプレゼントされて。“ワイロだな”って思って返したんですけど(笑)、そうしたら先生が“こんなものただの運動着だからもらっておきなさい。別にどの部活に入っても使えるんだから”って」

 現在は桜花学園高等学校の教諭兼監督で、いまでも月に1回程度は電話で話すと語る井上先生も、

「ありましたね(笑)。僕は今、高校(の教諭)なんですけど、中学生の有望な選手にはTシャツをあげたりしていますから。彼女は小柄でしたが、バスケのスキルは当時からありました」

 当時、全国的に中学校は荒れていて、バレー部には不良の先輩がいると井上先生に吹き込まれた結果、久美さんはバスケ部への入部を決心する。

 バスケはこののちも高校大学と続け、社会人となってからは監督を10年以上にわたって続けることとなるが、このバスケを通じての経験と自信が、久美さんの『キャプテンシー経営』の礎となっていく。