幾度、暗殺されかけようとも屈せず。ブッダを説き続ける。仏教発祥の地、インドで1億5千万人の信徒を導く、日本出身の僧・佐々井秀嶺。若いころ、人生に絶望し自殺を図るが僧となる。数奇な運命からインドに導かれ、仏教復興と“不可触民(※)”という最下層の人々のために半世紀以上も闘ってきた、その激動の人生と日本への思いとは──。

※不可触民(ふかしょくみん)とは、厳しい身分制度で知られるインドのカースト制度にあって、最底辺のシュードラにすら入れない、カースト外の最下層に置かれ「触れると穢れる」と差別されてきた人々。

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小さな村の式典に呼ばれ、花びらの上を歩く佐々井さん。どこに行っても人気がある。インドのお坊さんは庶民から、大変に尊敬される存在だ 撮影/白石あづさ

 肌の白い僧がひとり、大ステージへと向かう。足取りはゆっくりだが、その眼光は虎のように鋭く、全身からは熱情がみなぎっている。日本の穏やかな高僧とは対照的なその姿に、ここが灼熱のインドであり、混沌とした国であると思い知らされる。

 インドのど真ん中、デカン高原にある街、ナグプール。この地で年に1度、開催される仏教の式典「大改宗式」にインド人僧を従え、式の総責任者である佐々井秀嶺(81)が登場した時、日もすっかり暮れていた。朝から各地を駆けずり回り、満身創痍(そうい)で最後の大会場に到着したのだ。主役の登場を今か今かと待っていた改宗広場を埋め尽くす数十万人の信者が、インド仏教の挨拶である「ジャイ・ビーム!」と歓声を上げ、佐々井を熱狂的に迎える。

「みなさん、私は小さな坊主である。インド全仏教の会長に選んでいただいたのは、私が普段からまじめであり、強固な精神の持ち主だとみなさんが考えてくれたからであろう。金集めも経営もできないが、これからも小さな坊主として命がけで差別や貧困と闘っていく所存である」

 佐々井の全身から絞り出すような言葉のひとつひとつが、さざ波のように人の海に広がっていく。

 大多数がヒンドゥー教徒であるインドで、カースト(身分制度)のない仏教に改宗する人が爆発的に増えている。

 改宗式には3日間で約100万人もの仏教徒や改宗希望者が参加するが、その多くは不可触民と呼ばれる人々だ。半世紀ほど前、数十万人しかいなかった信者が今では約1億5千万人を超えた。その仏教復興の中心的な役割を果たしたのが、1967年、32歳でインドにひとりでやってきた佐々井なのである。

「インド12億人のうち一番下の奴隷カーストにすら入れない不可触民と呼ばれるアウトカーストの人々は約2割おる。3千年間も触れれば穢(けが)れると人間扱いされてこなかった人々だ。学校にも行けず、仕事も選べず、井戸を使うことすら許されない。そんな悲惨な状況だからこそ、人は何かにすがらないと生きていけない。だから自分を差別するヒンドゥー教の神様でもけなげに信じてきたんだ。しかし平等主義の仏教を知ることで彼らは『自分は人間である』と目覚め始めたのです」

改宗式に集まった仏教徒。理不尽な目に遭ったとき泣き寝入りせず、みんなで抗議できるように、佐々井さんの指導のもと組織や団体を各地で作った 撮影/白石あづさ

色情因縁「私には黒い血が流れてる」

 1億5千万人のインド仏教徒を率いる佐々井が生まれたのは、岡山県新見市別所の小さな山村である。父は左官業や炭焼きなどを営んでおり、小さいころから家の仕事をよく手伝い、成績は優秀で反骨心は人一倍、強かった。9歳で終戦を迎えた時、村の大人が戦場での残虐な行為を自慢げに話す様子を聞き「人を苦しませることの何が楽しいのだ」と子ども心に憤りを感じた。

 未来の宗教家らしき正義感を持つ一方で、無類の女好きの血に苦しんだ。男性なら誰もが悩んだ経験はあるだろうが、佐々井は「そんなかわいいものではないわ!」と苦笑する。

「同級生でも学校の先生でも女を見ただけで好きになる。触りたい、押し倒したい。けれども、それができないから苦しくてしょうがないわけだ。祖父も父もよそに女がいた。色情因縁、私には黒い血が流れているのです」

 青年時代は、思い詰めて酒を飲んで暴れ、金に困って血を売ったり、仲間にそそのかされて悪さを働き牢獄に入れられることもあった。彼女ができれば、勉強も仕事も手につかず、はたから見れば異常なほど執着してしまう。

「もう顔を焼いて誰も振り返らなくなれば、愛欲を卒業できるのか」。出家して僧になろうといくつかの寺を訪ねたが、「大学くらい出ていないと」と一蹴され絶望。死に場所を探して倒れたところを山梨県にある大善寺の井上秀祐住職に拾われ寺男となる。師と仰げる住職に出会えたことで、水を得たように修行に励み、25歳にして高尾山薬王院で住職の兄弟子にあたる山本秀順貫主より得度を受けた。

 貫主は誰よりも熱心に学ぶ佐々井をかわいがり、仏教の交換留学生に推薦しタイに送り出した。期待に応えて帰国すれば、これまでの迷走を吹き飛ばす順風満帆な僧侶人生が待っていたはずだったのだが……。

「信仰の厚いタイでは坊さんは大事にされる。それが私にはよくなかった。暑いタイではコーラがうまい。いくらでも寄進をしてくれるから1日20本も飲み続けてコーラ中毒になった。おまけに抑えていた女性への感情がむくむくと湧き上がり、気がつけば、タイの尼さんで一番の美人と恋に落ちてな。さらには中国娘も加わり三角関係だ。日本のお師匠様の耳にも入り、もう恥ずかしくて帰国できない。それで、お釈迦様が生まれたインドにしばらく行ってほとぼりをさまそうと。女からも日本からも逃げたんだ

満月の夜のお告げ「汝、龍宮へ行け」

 僧になっても色情因縁から逃れられないのか。しかし、苦しみやつらい経験はすべて試されていたのかもしれない。渡印から1年たった満月の美しい晩、思いもよらない奇跡が佐々井の身に起きたのだ。

 インド東部のラージギルにある日本山妙法寺の八木天摂上人のもとでお世話になり、帰国を考え始めたころ、真夜中に肩をものすごい力で押さえられハッと目を覚ました。

「夢じゃないよ。みんな信用してないんだから! 声は出ないし身体は震え、もう恐ろしくて。白ヒゲの老人が現れ、『われは龍樹なり。汝(なんじ)、速やかに南天龍宮城へ行け、南天鉄塔もまたそこに在り』と言い残して姿を消した。あわてふためき、上人をゆすって起こすと“こら、何を寝ぼけているんだ?”とまた寝てしまったんだ

 龍樹菩薩とは大乗仏教の祖となる人物。しかし、龍宮城とは? 朝を待ち上人に改めて相談すると、「龍はナーガ、宮はプーラ……インドのど真ん中にあるマハラシュトラ州のナグプールのことではないか? 南天鉄塔とは文殊菩薩から授かったといわれる経典を所蔵する伝説の塔だろう」と教えてくれた。

 ナグプールとはアンベードカル博士というインドの偉人が、亡くなる2か月前の1956年、数十万人の不可触民とともに仏教に改宗した地であった。博士自身、不可触民の出だが大変な苦労をして学び、奨学金を得てイギリスやアメリカに留学。インド独立後、初の法務大臣となり差別を撤廃した新憲法を制定した。それでも差別はなくならない。そこで人間平等を説く仏教に望みを託したのだ。

「差別と闘ったのはガンジーだと思い込んでいたんだ。ところがナグプールに着いてわかったのは、不可触民の間で絶大な人気を誇るのはアンベードカル博士。ガンジーは不可触民を『ハリ・ジャン(神の子)』ときれいな名前をつけてごまかし、むしろカースト社会を残そうとしていた。博士は国際的にも評価され今では国内でもカーストにかかわらずガンジーよりも偉業が知られている。もっと日本でも研究されてもいいのだが」

 博士の死から12年後、アンベードカルのアの名前も知らなかった佐々井がナグプールに向かったのは、ただの偶然ではなく仏様のお導きだったのかもしれない。

アンベードカル博士を称えるレリーフ。不可触民は、井戸や湧き水に近寄ることを許されなかった 撮影/白石あづさ

生まれ変わったスラム街

「金もないし、知り合いもいない。仏教徒のいる地区を聞いて訪ねたら、バラックのような建物が並んでおる。裸足で太鼓を叩きながら、お題目を唱えて街を歩くと、犬には吠えられ、人々には怪しまれ、石を投げつけられた。それでも雨の日も風の日も休まず家々を回っていたら、次第に聞いてくれるようになったんだ」

 いつしか佐々井に食事を提供するお母さんたちが現れ、冠婚葬祭にも呼ばれるようになったが、不可触民出身の家を訪れるたび、差別や貧困、衛生状態がどれほどひどいか思い知らされた。ゴミ集めや屍体(したい)処理、泥にまみれたきつい仕事しか与えられず、井戸水を飲むことも許されない。ため池の濁った水を飲み残飯をあさり、住む場所も指定され犬のように扱われる。もし反抗すれば殴り殺され、焼き討ちに遭うこともあるが、犯人は、罪に問われず闇に葬られることも多いという。

 仏教に改宗しただけでは、生活そのものはよくならないのだ。そこで佐々井は寄付を集め、学校や病院、養老院などを作り、上位カーストから嫌がらせを受ける人々が団結して抗議できるよう組織作りを進めた。自分に自信を持ち、礼儀を身につけてほしいと日本から空手家を呼んで人々に稽古をつけてもらったこともある。

 当時の佐々井を知るモドガレ・アルチャナさんは語る。

「小さい時、日本とはどんな国かと聞いたら、安全でカースト制度もない国だと。アンベードカル博士は改宗式のすぐ後に亡くなってしまったので、どうしていいかわからない。佐々井さんが来るまで仏教は停滞してたんです。豊かな日本の出身なのに、貧しいインドにわざわざ来て、差別される私たちに寄り添い、闘ってくれました。国籍は関係ないんだ、困っている人がいれば助けるのだと。みんなのお父さんです

 街に希望が生まれた。佐々井は、3千年も支配されてきて、それが当たり前と思い込まされていた人々に「仏教はカーストなんてない。人間らしく生きる権利がある」と説いて回った。特に力を入れたのが子どもの未来だ。「大事なのは教育。自分で考える力だ。お金がないなら、1食、抜いてでも子どもを学校にやりなさい」と親に言い続けた。学ぶことで今を知り未来を考える。いい仕事に就けるし、自分で会社を興すこともできるようになる。治安最悪といわれたバラックの街が半世紀で、お寺を中心として清潔で安全な街に生まれ変わったのだ。

インドラ寺の近所はほとんどが仏教徒。昔、スラム街だったとは信じられないほど美しい街に生まれ変わった。子どもたちも元気よく「ジャイ・ビーム!」と挨拶してくれる 撮影/白石あづさ

 街の変化を見て育ったミリンダ・グダデさんは、「大学を出て日本で就職できたのは、佐々井さんの活動や支援があったから。日本は佐々井さんという偉大な人を生んだ国。夢を叶えた今、今度は自分が村の子たちを支える番だと、15年前、仲間とアンベードカル博士国際教育協会の日本支部を立ち上げ、みんなで給料を村に送り補習授業を始めました。今までに千人の子を受け入れ12人の先生の給料をサポートしてきたんですよ。頼るだけではなく、自分たちで祖国を変えたいという思いは、佐々井さんの背中を見て学びました」と微笑む。

 佐々井は差別と闘う一方で、仏教の聖地であるブッダガヤーの大菩提寺がヒンドゥーの手にあることを知ると、何万人もの仏教徒を引き連れて座り込みのデモや壮絶なハンストを決行した。また、地下核実験が行われた時には弟子たちとともに首都に乗り込んだ。

「国会の前で拡声器から言ってやったんだ。世界で原爆体験をした唯一の国、日本から私は来た。大バカ者の首相よ、出てこーい! 仏陀は笑っているぞ! 人を殺すならまず私を殺せ! ってな。そしたら国会前はシーンと静まり返った。苦しむのはいつの時代も罪なき市民。その市民を命がけで守るのが本当の菩薩道だ」

佐々井一家、ここにあり!

 インドでは佐々井を知らぬ歴代の首相はいない。強きをくじき、弱きを助ける。破天荒な行動力、義理人情、それでいてユーモアのある性格が愛され、インドラ寺の一角にある佐々井の小さな部屋の前には、毎日、行列ができる。

インドラ寺にある10畳ほどの佐々井さんの部屋。ついたての裏にベッドがある。毎日のように人々が陳情に訪れる 撮影/白石あづさ

「もう、いろんなやつが来るよ。弁護士から医者に泥棒、酒飲みまで。貧しさから悪の道に進んでしまう者もおるが、根が悪いわけではない。1度、30人も殺したという大悪党の男を改心させて頭を丸めさせたことがある。泣く子も黙る佐々井親分だって? おう、佐々井一家には違いないな!

 精悍(せいかん)な顔が一瞬でしわくちゃになり、ガッハッハ、と豪快に笑いだした。普段、佐々井の身の回りの世話をしている青年、ゴータマさんも佐々井一家のひとりだ。

「両親ともに仏教徒で、ゴータマとは佐々井さんがつけてくれたブッディストネームです。ブッダガヤーのデモに連れて行ってもらった時、一歩も引かずすごい人だなあ、と。でも僕は高校生の時に、仏教で禁止されている酒を隠れて飲んで荒れていた。佐々井さんからもらったお小遣いも嘘をついて酒に使ったんです。でも前から知っていたんでしょう。ある時、真剣に怒られキッパリやめた。本気で心配してくれているのが伝わったからです。道に迷ったとき導いてくれる。誰に対してもそう」

 知名度が上がるにつれ、忍び寄ってくるのが敵だ。人気を妬(ねた)み、悪い噂を吹聴する者や、急に増えた仏教徒に恐れをなし暗殺をくわだてる者もいる。食事に毒を入れられ意識を失ったり、壇上から突き落とされ病院に運ばれたことも1度や2度ではない。日本でも、「佐々井のやっていることは仏教ではない。ただの社会運動だ」と批判されたことがあった。

「ただ静かにお経を上げ、お布施をもらうだけが僧侶ではない。何もせんやつに何を言われようとかまわん」と意に介さない。

 ところが、そんな肝の据わった佐々井に一大事が起きた。1987年、不法滞在で逮捕されてしまったのである。

 インドに渡って20年、とっくに滞在ビザは切れている。帰らなかった、というより困っている民衆を見捨てて帰ることができなかったのだ。一歩も引けない問題が山積みで、途中で自分が抜けたらガタガタに崩れてしまうことを知っていた。

「シューレイ・ササイ逮捕!」という新聞各紙の見出しに、民衆は立ち上がった。「今度は自分たちが守る番だ!」と、仏教徒は署名運動に奔走。首相のもとに60万人分の署名が持ち込まれ、ヒンドゥーやキリスト教徒にも応援してくれる人が現れた。そしてついに国籍を取得。数十万の市民が街に繰り出しパレードをして佐々井を祝福した。

剃りたての頭に新しい僧衣を身につけた“新人坊主”たちを前にして、眼光鋭くひとりひとりの顔を見つめる佐々井さん 撮影/白石あづさ

 インドでは全国紙に顔が出る佐々井だが、日本ではほとんど知られてこなかった。ずっと孤軍奮闘してきたのだが、最近、祖国でも支援の輪が広がり始めた。

 映像ジャーナリストの小林三旅さんが佐々井を知ったのは、1冊の古い週刊誌だ。「この破天荒な坊さんは何者なのか?」とひとりでカメラを抱えてインドに飛び1か月に及ぶ密着取材を敢行。2004年、『男一代菩薩道』と題した番組が放送されると、深夜番組ながら反響を呼び5回も再放送されたという。

「次の仕事が始まれば、前の仕事など次第に忘れてしまうものですが、佐々井さんの生涯を追い、支援することがライフワークになりました。うまく言えないけど、とにかくおもしろいんですよ。四六時中、人の幸せしか考えていない。今まで坊さんというと葬式くらいにしか会わないし興味もなかったのですが、ああ、これが本当の宗教家なんだと」

 最初の放送から10年後、岡山の住職、佐伯隆快さんとともに、佐々井の支援団体「南天会」を立ち上げた。会費を集め活動資金をインドに送ったり、会報『龍族』の発行や会員の交流のほか、最近では体調管理などをする人を日本から派遣している。

 佐々井一家が日本でも着々と増え始めた。

そして祖国へ。44年ぶりの帰還

 それでも1度くらい帰国して、家族や友人に会いに帰りたいとは思わなかったのだろうか。いくら遠いとはいえ、24時間もあれば着くのだから。

「お坊さんになった瞬間から自分の母も人の母も平等の存在になる。だからインドの坊さんは離縁するか、一生、結婚しない誓いを立てる。出家というのは、家を出ること。日本男児たるもの、目の前に弱っている人がいるのに、どうして帰れようか。礼儀に忠義……私の心にはいつも武士道がある」

 そんな義理人情に厚い佐々井が、帰国を決意したのは2009年。実に44年ぶりである。インドでの活動が一段落したタイミングで、日本の支援者や恩人たちが生きている間にお礼が言いたかったのだ。インドよりも豊かで平等な日本へ。ところが、久しぶりに祖国の地を踏んだ佐々井を待っていたのは、「人の匂いがしない」現代日本の空虚感であった。

「インドの子と比べ、日本の子は覇気がない。大人も顔が沈んでいる。自殺が年間3万人と聞いて驚いたが、いったい祖国はどうなってしまったのか?」

 1度きりの帰国のつもりだったが、東日本大震災が起きると、被災地に飛び、お経をあげ人々を勇気づけた。以来、定期的に帰国するようになり、各地で講演会が開催されると、若い人たちもたくさん詰めかけるようになった。

在日インド人で組織するアンベードカル博士国際教育協会日本支部で、佐々井さんの歓迎会が開かれた。「みんなの元気な様子に安心しました」と佐々井さん 撮影/渡邉智弘

「昔は“駆け込み寺”という言葉どおり、お寺は悩める人の相談所であった。実際、私も寺に助けられ、僧となったんだ。どこかに今も親身になって世話をしてくれる寺もあるだろう。アンベードカル博士のような偉人の伝記をたくさん読んでほしい。何が正しいか、自分の使命とは何か。苦しい時、本は人生の助けになるだろう」

まだまだ死ぬことができん

 御年81歳。世間では静かに余生を過ごす年だが、佐々井にそんな老後は訪れそうにない。

「休んでいる暇はないのだが、3年前に1度、意識不明の重体となってな。病院のまわりは何千人もの市民が取り囲んで警察が出る騒ぎだ。ところが、ナグプールの病院にいるはずが、私はなぜか意識の中ではヒマラヤの病院にいたんだ。担当の看護師は顔を見せてくれないが、後ろ姿から美人とわかる。それでこんなことを言うんだ。

『あなたは、今まで頑張ったから極楽に行けます』

『俺は死ぬのか? まだやらねばならないことが3つもあるんだ!』

『生き返ると何倍も苦しいことが起きるから、もう死んだほうが楽でしょう』

『ダメだ、シャバに戻せ!』

 すると、スーッと私の身体の中に入ってきた。看護師の格好をしていたが、観音様だったんだな。大変なのは取り囲んでいた市民だ。私の呼吸が止まった時、“ササイが死んだー!”と大泣きしていたら、“生き返ったー!”“えー!?”と。わっはっは! それから州知事の命で救急ヘリが迎えにきて、ボンベイに移送されたんだが……」

 龍樹のお告げといい、看護師の観音様といい、常人にはすぐには理解しがたい出来事であるが、佐々井はいたって真顔である。ところで、そのまだ死ねない3つの理由を聞いてみた。

 ひとつはアンベードカル博士の平等の精神をもっと世に伝えねばならない。2つ目は悲願であるヒンドゥーからのブッダガヤーの大菩提寺奪還だ。早ければ今年、最高裁判で争うことになる。最後に、龍樹が告げた「南天鉄塔」らしき遺跡が本当に出土したので、その発掘を進めたいのだという。

「だから、夢ではないと言っただろう。ナグプールから約40キロ離れたマンセルという地区に龍樹連峰と呼ばれる山々があることがわかり、その土地の一部を買い許可を取って10年かけて発掘した。そしたら首のない仏像や寺、そして鉄塔らしき遺跡も発見したんだ。しかし、まだ塔の内側は発掘できていない。黄金の像がでるか、経典がでるかまだわからん。発掘許可を得ようと、日本からも偉い考古学者さんらが来てくれて、一緒に政府の考古学調査研究所に交渉したんだが、上位カーストのバラモンのやつらがね、仏教の遺跡であると証明されたくないわけだ。

 私の死んだ後になるかもしれないが、いつか掘れる日が来るだろう」

龍樹菩薩のお告げを聞き、ナグプール近郊で佐々井さんが発見した仏教遺跡。広大な広さで週末には訪れる人も多い 撮影/白石あづさ

小さな坊主、荒波を越えて

 苦しみが続くとわかっても、民衆のため生きることを選んだ。若い時、3度の自殺未遂をした“死にたがり”の佐々井を“生きたがり”に変えたのは、インドの貧しいお母さんたちだ。

「日本と違い、インドでは僧侶の命は民衆が握っている。このお坊さんはいい人だから、食事を与えよう、お布施を出そうと考える。自分の子どもにすらろくなものを与えられないというのに、一文なしでやって来たこの汚い坊主に、お母さんたちが自分のご飯を差し出して半世紀も私を生かしてくれたんだ」

 冒頭の大改宗式で語った「小さな坊主」とは、謙遜ではなく本心からなのだろう。インド仏教の頂点に立った今でも、10畳程度の小さな自室にはボロボロのイスや扉の取れかかった冷蔵庫が置かれ、年代もののクーラーはひどい音を立てる。本や資料が山積みで、相談に来る人が2人も入ればいっぱいだ。

「後継者はおらん。男一代で終わり。私はこれからも小さな坊主としてインドに同化し生きていく。真理に向かい、ただひとり、ボロボロになっても杖をついて歩き倒れてもまた立ち上がる。いつかインドの大地に野垂れ死ぬまでな」

 佐々井は、そうつぶやくと大好きな日本の歌、坂本九さんの『上を向いて歩こう』を口ずさみ始めた。どんな荒波にも負けず、大衆を正しく導く強い人である。しかし、本当は涙をこらえながら必死で自分を奮い立たせ生きてきたのだろう。

「小さなお坊さん」が自分の生涯をかけ、粉骨砕身して切り開いた一本の道は、多くの人の未来を照らしている。

◎取材・文/白石あづさ

しらいしあづさ 日本大学芸術学部卒業後、地域誌の記者に。3年間、約100か国の世界一周を経てフリーに。グルメや旅雑誌などへの執筆のほか、週刊誌で旅や人物のグラビア写真を発表。著書に『世界のへんな肉』(新潮社)、『世界のへんなおじさん』(小学館)がある。