ソチ五輪で悲願のメダルを日本にもたらしたノルディック複合のエース渡部暁斗さん。同じく平昌を目指す、スキー・ハーフパイプ選手である妻と二人三脚で支え合いながら、さらなる高みへの飛翔を目指すキング・オブ・スキーの素顔に迫った──。

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ノルディック複合・ソチ五輪銀メダリスト 渡部暁斗さん

 2014年2月12日に行われたソチ五輪・ノルディック複合ノーマルヒル(旧70m級)。前半のジャンプで2位につけた日本のエース・渡部暁斗(北野建設)は後半のクロスカントリーで逆転金メダルに挑んだ。1番スタートは同い年で10代のころからしのぎを削ってきたライバル、エリック・フレンツェル(ドイツ)。彼との差はわずか6秒。「正直、20秒くらいあいてもしょうがないと思っていたので6秒は上出来だった」と渡部は述懐する。

 ソチのコースは林を切り開いて作られたため、幅が規定ギリギリしかなく、狭い中に何人もの選手がひしめく状態になる。カーブも非常に多く、前の選手を抜くポイントがほとんどない。高度な技術を要求される世界屈指の難コースだ。ここを4周走って勝負を決める形だが、渡部は1周目から宿敵にピタリとつき、チャンスをうかがった。3位以下に20秒差をつけて2周目に入ると、その後は一騎打ちに。抜きつ抜かれつを繰り返しながら迎えたラスト4周目、渡部が一気に前に出る。日本中の期待も大きく膨らんだ。が、ゴール目前のスタジアム勝負になったところでフレンツェルがスパート。そのままゴールに飛び込む。渡部は4秒差の2位に入った。

「彼は僕が最後のスプリントに弱いことをわかったうえで、わざとペースを落とし、余力を保ってきた。僕は追いつかれたくないから懸命に引っ張ったけど、最後に逆転されてしまった。その心理戦こそ、クロスカントリーの醍醐味なんです」と渡部は笑みをのぞかせた。

 日本のノルディック複合に20年ぶりのメダルをもたらした安堵感とライバルに敗れた悔しさ……。その両方を抱えながら、彼はこの3年半、休むことなく前進を続けてきた。荻原健司(北野建設スキー部部長)・次晴(タレント)兄弟も成し得なかった’11~’17シーズンのワールドカップ(W杯)6年連続表彰台という偉業も達成。次に見据えるのは、もちろん2018年平昌五輪の頂点だ。

「僕はもう1つ上のレベルに上がった自分を見たいという好奇心が人一倍強いんです。ジャンプもクロカンも着実に進化して最後の鍵穴をあけるところまで来ている。その鍵をあけることができたら、平昌の金メダルに手が届く。今はそんな気がしています」

 そうやって新たなものを追い求めるのが渡部暁斗の生き方。どこまでも自分らしく自然体で4度目の大舞台に向かおうとしている。

長野五輪で日本ジャンプチームの金メダルを目撃して

ソチ五輪 表彰台に上がる渡部(写真提供:産経ビジュアル)

 八方尾根を筆頭に日本有数のスキー場が連なる長野県白馬村。この地に渡部暁斗が生を受けたのは、日本がバブル絶頂期に突入しつつある’88年5月だった。

 3つ下の弟・善斗とともに逞しく育った彼にとって、スキーは「日常的な遊び」の延長。通っていた白馬北小学校に5、10、15mの3種類のジャンプ台が設置されていたこともあり、宙を舞い始めたのも早かった。

 大きな転機が訪れたのは小学校3年の2月。地元で開催された’98年長野五輪だ。日本ジャンプチームはラージヒル(旧90m級)団体で金メダルを獲得。原田雅彦(雪印監督)の号泣シーンは今も人々の脳裏に焼きついている。暁斗少年は、その現場にいたのである。

「ブレーキングゾーンというジャンプした選手が着地して止まる枠の前にいたんですけど、雪がすごくて何も見えなかった(苦笑)。それでも歓声と熱気はすごかったですね。白馬のジャンプ競技場にあんなに人が入ったのは後にも先にもあの時だけ。その印象は今も鮮明に残っています」

 子ども心にスイッチが入ったのか、彼は小4に上がった同年4月に白馬村スキージャンプ少年団に入り、本格的に競技を始める。白馬中学校に入った時点ではジャンプ専門の選手になることを夢見ていた。が、スキー部ではジャンプのみならず、クロカンにも取り組むことが決まっていて、渡部もあまり気が進まない中、雪上を走り始めた。

「そのころは週末に飛ぶジャンプが楽しみでやってたようなもんです。クロカンは中学生が5km、高校生になると今と同じ10kmになるんですが、中学生の初めはすごく遅かったし、きつかった(苦笑)。でも学年が上がるにつれて速くなっていったんで、白馬高校に進んだ時、自ら複合を選びました」

 兄の背中を追うように善斗も同じ複合の道へと進んだ。

「暁斗が高校生の時は自分が中学生と常に別のカテゴリーにいたので、それぞれの場所からお互いを見るような関係でした。僕自身は兄という感覚はほとんどない。両親も応援してくれましたが、競技のことはわからなかったので口は出さなかった。自由にやりたいようにやれる環境でした」と弟は当時を語る。

 家族のバックアップを受け、トントン拍子にスターダムにのし上がった渡部は高2だった2006年、トリノ五輪代表に選ばれる。’05-’06シーズンはW杯よりレベルの下がるコンチネンタルカップ(当時はW杯B)を転戦していたのだが、成績が急上昇し、五輪代表枠に滑り込む格好となった。

「トリノへ行ったらテレビで見ていたような人たちが周りにいて、同じ会場で競技ができることがうれしくてたまらなかった。成績は個人スプリント19位。“まあいいんじゃないか”という感じで見物的な感覚だった。日本勢のメダルは女子フィギュアの荒川静香さんの金1つ。全体が沈んだムードだったのに、僕ひとりでへらへらしてました」と苦笑する。高校生で五輪に出れば、そういう感覚になるのもやむをえないだろう。

手首の骨折から恐怖心が生まれて

夏場の地元・白馬でのトレーニング。ローラースキー後のクールダウン

「手はすぐに治ったけど、無意識にかばうせいで、ジャンプのバランス感覚がおかしくなり、次第に恐怖心が生まれていったんです。負傷後の2シーズンは全くダメでしたね。 彼が真の意味でアスリートの苦労を知るのはその先のこと。最初の大きな挫折は高3の時の手首骨折である。’06-’07シーズンを棒に振り、早稲田大学に進学後も不振が続く。

“ジャンプがダメならクロカンで何とかしなきゃいけない”と考えた。世界を回るようになってクロカンのうまい選手を見ると、彼らは緩急のつけ方が非常に長けている。そういう選手の技術やリズムのとり方をまねしながら、ガムシャラなレースを繰り返していくうちに自然と走力は上がりました」

 ’92年アルベールビル、’94年リレハンメル両五輪で団体金、’94年個人銀メダルをとった河野孝典・全日本複合チームヘッドコーチとの出会いも大きかった。

「河野さんが“身体が小さくてパワーのない選手が世界に通じる走りをするにはテクニックの改善をするのが一番早い”とアドバイスをしてくれたのも大きかった。2人でいろんな動画を見ながら、いかに力を使わずにスキーを滑らせるかを熱心に研究しました。一番参考になったのが、バイアスロンの走り方。バイアスロンの選手は銃をブラさずにスーッと走る。それに近づこうとしたんです。荷重のかけ方、足のさばき方といった細かい部分も見直したことで一気に成績が上がり、’09年世界選手権の団体金メダルもとれた。2度目の五輪だった2010年バンクーバーは個人ノーマルヒルこそ21位と出遅れたけど、ラージヒルは9位。前回より順位が上がりました」と渡部は急成長した大学時代を述懐する。

最高のライバルとの死闘

 早稲田時代には人生を大きく左右する出会いがもうひとつあった。それが同期の妻・由梨恵さん(28)だ。彼女もまたフリースタイルスキー・ハーフパイプで平昌五輪有力候補のトップアスリートである。

「暁斗と付き合い始めたのは大学3年の時。同期はみんな仲がよくて、彼も仲間のひとりでした。世界選手権で団体金メダルをとったころでしたけど、プライベートではあまり競技の話はしなかったですね」と由梨恵さんは笑う。

 2011年に渡部はかつて荻原兄弟がそろって在籍し、同じ白馬村出身のモーグル選手・上村愛子さんも所属していた北野建設へ入社。長野市に居を構えた。同じころ、アルペンスキーからスキー・ハーフパイプへ転向した由梨恵さんは、東京でアルバイトをしながら練習する環境を選んだが、体調を崩してしまう。そこで渡部から意外な申し出があったという。

「“ウチの実家に来ればいいんじゃない”と言ってくれたんです。暁斗は長野、善斗も東京にいて白馬にいるのはご両親だけだし、部屋が空いているから……ということで、私自身には本当にありがたい話でした。ご両親も暁斗の彼女とかそういうことは関係なしに温かい目で見守ってくれました。白馬のお土産屋さんでアルバイトもしましたが、“家賃も生活費は一切いらないよ”と言ってサポートしてくださった。1年後には暁斗のいる長野市へ行って、ユニクロでアルバイトしながらひとりで暮らしましたが、彼とご両親の存在があったから今まで競技を続けてこれたと思います」と、由梨恵さんはしみじみ語る。

 当時の彼女は全日本スキー連盟(SAJ)強化選手でありながら、活動費や遠征費は自己負担。恵まれた環境にいる自分とは異なる形で努力する由梨恵さんの存在も励みに、渡部は世界トップを目指した。W杯総合ランキングは’11-’12シーズンの2位を皮切りに’12-’13、’13-’14シーズンが3位と表彰台をキープ。’09-’12年にかけてW杯3連覇を果たしたジャゾン・ラミ=シャプイ(フランス)やフレンツェルら世界トップに肩を並べた。自信を深めた彼は’13年春に「ソチでは金メダルをとる」と宣言。自らにプレッシャーをかけることで、有言実行を果たそうとしたのだ。

 同じころ、由梨恵さんが左ひざ前十字じん帯断裂の重傷を負ってソチを断念したことも、渡部を奮起させる材料になったに違いない。

 冒頭のとおりソチの最高成績は2位。渡部がゴールした瞬間、テレビで解説していた荻原次晴氏が号泣するほど、ノルディック複合界にとっては悲願のメダルだった。最大目標の金メダルには手が届かなかったものの、フレンツェルという尊敬できる選手との死闘を彼は前向きにとらえていた。

「フレンツェルは勝負強さで勝てる選手。ひとつのレースの流れを見て、どこで勢いをつけるか、波に乗るかを的確にかぎ分けられる。そのうえ礼儀正しく正々堂々と戦う姿勢やメンタルも素晴らしい。本当に王者にふさわしいリスペクトすべき存在だと思います」と渡部は心からの敬意を表している。最高のライバルと持てるすべてを賭けて戦える機会を得られる競技者はそうそういない。清々しく晴れやかな思いもあったはずだ。

国際電話でプロポーズ。夫婦で五輪へ

 歴史的出来事を体験した翌日、渡部は由梨恵さんに1本の電話をかけた。

「結婚してくれないか」

「はい」

 彼女は思わず、そう答えていた。

「本当は日本に帰ってメダルを私に見せながらプロポーズしようと思ってたみたい(笑)。でも暁斗はソチの後もワールドカップ転戦でしばらく日本には帰れなかった。それで“とりあえず電話で”ということになったようです。それまでも会えないことが多くて、最長で5か月という時もあった。私が“会いたい”と言ったら“お互い好きなことをやってるのに(競技と自分の)どっちもとりたいというのは贅沢だ”って諭されたこともありました。それくらい冷静な暁斗が結婚を決意してくれた。それが何よりもうれしかったですね」と由梨恵さんは微笑んだ。

妻・由梨恵さんと。時間がある時は2人でカフェに出かけることが多い。自然体の夫婦だ

 ’14年9月に結婚式を挙げ、二人三脚で4年後の平昌へと進み始めた渡部夫妻。夫のほうは家事をこなしてくれるパートナーができて競技により邁進できるようになった。が、妻は活動費捻出のため結婚前同様にアルバイトを続け、主婦業と練習も掛け持ちしていたから、どうしてもアスリートとしての時間が不足する。約1年が経過したある日、多忙すぎる様子を見かねた夫がこんな提案をした。

「今のままでは(五輪を目指すのは)ムリだよね。スキー1本でやったらどう。ご飯さえ作ってくれれば、遠征費は出すよ」

 これを機に由梨恵さんはアルバイトをやめ、’15-’16シーズンから練習に集中。成績が格段に上向いた。’16-’17シーズンは東京と長野を行き来してトレーニングにいそしみ、「’16-’17、’17-’18シーズンのワールドカップで12位以内3回、10位以内2回、8位以内1回」というSAJの平昌派遣基準を1年でクリアするまでになった。そして五輪を翌年に控えた2017年5月、由梨恵さんは日本オリンピック委員会(JOC)の就職支援を活用して、ルネッサンスキャピタルグループと契約。東京に拠点を移してラストスパートをかけている。2人で過ごせるのはオフシーズンの週末だけになったが、渡部のポジティブシンキングはどんな時も変わらない。

2人がお互いに理解し、リスペクトしあいながら暮らすことで、人としての器も広がったかなと感じます。今は一緒にいられるのが年間100日もないけど、これが永遠に続くわけじゃないですからね。たまに僕が食事を作ることもあります。最近のブームは無水鍋で作ったカレー。簡単だし、奥さんも喜んでくれてます」と彼は目を細める。

冬冬冬夏! 毎日でもスキーをしていたい

 ともに高みを目指す妻に刺激をもらいながら渡部は着々と金メダルへと邁進している。「ソチからの3年半ですべてが変わった。自分自身が別人のレベルに達している」と本人が言い切るほどの変化があったという。

驚異的な心肺機能の原動力はこの練習にある

 精力的に取り組んだのがトレーニングの改善。ソチの直後からロードバイク、マウンテンバイクを導入。クロカンにつながる持久力のベースアップを図った。さらに身体の使い方、筋肉の動かし方も根本から見直そうとヨガやピラティス、TRX(ファンクショナルトレーニング)などにもチャレンジ。細かい部分までメンテナンスをして、より大きなパワーを出せるように仕向けてきた。

「僕は“変わることへの好奇心”がすごく旺盛なんで、ホントにいろんな練習に手を出しました。身体能力の数値自体はそんなに変わっていないけど、自分の持てる力をより効果的に使えるようになった。意図しているわけじゃないけど、五輪前の2年間は毎回いいサイクルできている。今回も2017年2月のW杯札幌大会、3月のオスロ大会の個人ラージヒルで優勝し、その間に行われたフィンランド・ラハティでの世界選手権の同種目で銀メダルをとれた。それは自分にとってすごくいいことですね」と平昌を1年後に控えた2017年春、彼は目を輝かせた。

 迎えた2017年夏。渡部は勝負の半年間をどう過ごすべきか思いを巡らせていた。北野建設には横川朝治監督と荻原健司部長、全日本にも河野コーチといった指導者はいるが、トレーニングの流れとメニューを自ら考え、実践するのが渡部流。自らアクションを起こせる選手こそが強い。それが彼の哲学である。

「オフシーズンは週6日、合計10時間練習するのが基本。長い日は3時間やって、ほかの日を少なくするとか、無計画計画(笑)。すべて自分で判断します。すべてコーチの指示に従うというのは僕は好きじゃない。一般社会でもそうですけど、自己判断できる人間じゃないと結果は残せない。自分に何が必要かを考え、掘り下げる作業が大事だと思ってます」

 頭を使う作業が行きすぎて7月上旬に地元・白馬で行われたサマージャンプ大会のクロカン競技中に熱中症でダウンするというアクシデントに見舞われたが、それもひとつの経験と前向きにとらえている。多少の困難があってもくじけないのは、根っからスキーが好きだから。五輪もW杯も「遊びの延長」という意識があるからこそ、渡部は常に前進を続けていられるのだ。

「五輪のためにスイッチを入れる選手ってたくさんいますけど、僕にはその感覚がわからない。いつも自然体だからスイッチがいらないというか、毎日でもスキーをしていたいんですよ(笑)。四季も“冬冬冬夏”くらいがちょうどいい。マウンテンバイクもやってるから夏も好きだけど、雪が解ける春とか降らない秋はいらない。引退したらノルウェーとか北欧に住めってことですかね」と本人は冗談まじりに話したが、そのくらいジャンプとクロカンが生活の一部になっている。

 夏場には、地元・八方尾根で1時間半かけて約1000mの高さをローラースキーで上がっていくという想像を絶するハードメニューを日常的にこなしていた。高い負荷をかけているのに心拍135~140を維持して平然とやってのけるのが渡部のすごさ。連日、ともに走っている弟・善斗も「暁斗は強い」と、しみじみ口にしていたほどだ。

「暁斗の安定した強さは本当に参考になります。でも複合選手としてまだ世界一ではない。それを彼自身もよく理解し試行錯誤を重ねているから進化できる。身近にいる暁斗が“さらに上がいる”と思わせてくれるのは非常にありがたいこと。それぞれが理想とする選手像を突き詰めていく中で、複合を面白いと思って見てもらえるような影響力のある選手になれたらいいですね」と自らも世界トップを目指す弟も兄に敬意を表している。

 こうして苦しみを厭わず、好きなものをトコトン追求し続けた先に、平昌の金メダルがあれば、まさにベストだろう。

侍の矜持で真のキング・オブ・スキーに

渡部を見守り、的確なアドバイスを送る荻原健司スキー部長

「暁斗はまずスキーが抜群にうまい。デコボコの斜面をスムーズに滑れるのも操作が巧みだから。足裏感覚にも長けているので、雪の感覚をつかみながら進める。そこは白馬という雪国で育った優位性でしょう。加えて素直さ、まじめさ、純粋さ、努力家という人間的長所がある。彼を見ていると、僕の全盛期のはるか先を行っているなと実感します。 その可能性は十分だとノルディック複合のレジェンド・荻原健司部長は太鼓判を押す。

 実際、自分は五輪の団体金、W杯の個人総合の金、世界選手権の個人・団体の金をとりましたけど、五輪の個人のメダルだけはとれなかった。前回銀メダルを暁斗がとってくれた時は心底、うれしかったですけど、次に金をとれれば、彼の言う“五輪の頂点に立つための鍵”がやっと開くんだと思います。それを一緒に探す作業ができるのは本当にありがたいこと。勝負はラスト半年だと思います」

 荻原健司部長の描くシナリオは、まず’17-’18シーズンにうまく入ること。「W杯序盤の1、2戦で表彰台に上り、じわじわと調子を上げていって、2月を迎えられたら理想的です。平昌直前には地元・白馬でW杯があるので、そこで勝って弾みをつけて本番に入り、長い間、勝てなかったフレンツェルを倒してくれればいい。僕らノルディック複合関係者にとって五輪の個人金メダルは絶対にクリアしなければならないハードル。暁斗ならやってくれると信じてます」と、かつてキング・オブ・スキー(W杯王者のみに与えられる称号)に君臨した男は後輩に夢を託す。

「1位と2位はほんのちょっとの差だけど、負け癖がついているのかな……。運とか才能とか足りないものはいろいろあるんだろうけど、何とか脱しないといけないですね。

 だからといって、僕は誰かの後ろでエネルギーを温存しながら戦うといった姑息な作戦はとりたくない。レース展開はもちろんジャンプ次第ですけど、僕は“フェアな試合をする”っていうポリシーを頑なに守ってるんです。前に出て引っ張ると風よけに使われるんで、すごく負担にはなるんですよ。そういうマイナス面があるから、どの選手も前に出たがらない。でもフェアに勝負するために、自分が前を引っ張っていくのが大事なんです。

“お前、バカだな”とか“もっと後ろに引けよ”とか“下がって体力温存してたら勝てたかもしれないのに”とよく言われるけど、自分が納得するレースをして勝ち切る。それが僕の考える真のチャンピオン。自分が五輪金メダルやW杯総合優勝をまだ手にできていないのは、その地位にふさわしい選手になれていないから。自分らしさを貫いて、平昌の表彰台の一番高いところ、そして『キング・オブ・スキー』を狙います」

 まさに『白馬の侍』ともいうべき渡部暁斗の矜持……。それを妻・由梨恵さんはよく理解している。

「暁斗には理想とするレース内容がある。表彰台に上がれても、いいレースじゃなかったケースもあったと思います。だから私は“今日はいいレースができた”と彼が笑顔で言う時が一番うれしい。それが平昌だったら本当に最高ですよね」

 力強い戦友である妻と手を取り合って、迎える4度目の五輪。はたして、そこには何が待っているのか……。エース・渡部暁斗の一挙手一投足から目が離せない。

ジャンプ練習中の渡部。飛型の美しさが印象的

取材・文/元川悦子 撮影/齋藤周造

元川悦子(もとかわ・えつこ)◎1967年、長野県松本市生まれ。サッカーを中心としたスポーツ取材を主に手がけており、ワールドカップは’94年アメリカ大会から’14年ブラジル大会まで6回連続で現地取材。著書に『黄金世代』(スキージャーナル社)、『僕らがサッカーボーイズだった頃1・2』(カンゼン)、『勝利の街に響け凱歌、松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか