乾杯する石澤修英さん(中央)と次男の優路さん(右)に松永功さん(左)

「必死で生きてきたので短く感じますが、浪江に帰りたいと思って亡くなった人が何人もいます。そう考えると、7年という月日はあまりにも長い時間だったのだなと感じます。復興は全然、進んでいません」

 福島県浪江町で被災した石澤修英さん(54)は、避難所で数日間過ごした後、千葉県の親戚の家に身を寄せた。その後、春日部市のUR住宅に入居。2015年8月、東武春日部駅前の雑居ビルの4階に、アメリカンバー「ファニーガンズ」をオープンした。

 東京電力福島第一原発事故で全域が避難区域になったが、

「数か月で帰れるだろう」と楽観視。ところが震災後の5月には、浪江町への立ち入りが制限され、希望は断たれた。

「防護服を着て一時帰宅をしていましたが、帰るたびに自宅が荒れていくんです。ねずみやイノシシの糞尿。泥棒にも入られました。思い出の詰まった家が壊れていくこと、育った浪江の町が変わってしまったこと。もう元には戻らないんだと思うと、自然と涙があふれてきました……」

 派遣社員として食品工場で働き、休みの日には親戚の建設会社を手伝う中、復興支援の活動に参加するように。

「避難してきた方々をなるべく孤立させないようにという思いがありました」

いつか浪江で店をやりたい

 バーをやろうよ、そう提案したのは次男の優路さん(24)だった。

「コンセプトを決めてオープンしました。どうしたらお客さんが来てくれるか、楽しんでもらえるか、そればかり考えていました」

 ところが店は閑古鳥が鳴く一方。路上でビラを配ったりする中、周囲の飲食店とのつながりも徐々にでき始めた。

「優しいですし、何より人を大切にする。だから安心してお客さんを紹介できますよね」

 そう人柄に太鼓判を押すのは、「串焼呑屋 山蕗」の松永功店主(52)だ。春日部の活性化と被災地を支援する目的で市民活動団体を立ち上げた人物で、石澤さんも今では、同団体の役員を務める。

 春日部に溶け込みつつも、望郷の念は強まり、

「春日部も好きだけど、やっぱり浪江に戻りたい。浪江が一番なんです。いつかは浪江でもバーをやりたいですね」

 と希望を語る。

 避難指示解除から間もなく1年。今年2月には7年ぶりに地元の祭り「安波祭」が復活し、避難先から多くの町民が駆けつけた。

'09年8月に浪江町で行われた音楽イベントでギターを弾く石澤さん(右)

 震災前、町では毎年、音楽イベントが開催され、石澤さんはバンド仲間と参加していたという。

「毎週のように音楽仲間と飲んで、即興でライブをしたり楽しかったですね。今はみんなバラバラで、1年に1度会うか会わないかです。会えばみんな明るく振る舞っていますが、ふっと暗い表情になったりします。あの日常が一瞬にして奪われてしまったことが、悔しいですよ」

 そう吐露し、無念さを噛みしめる石澤さん。一緒にバーを切り盛りする優路さんは、昨年9月に結婚した。

「浪江は好きですし、いつかは帰りたいと思っています。嘆いても始まらない。一から新たな浪江を作っていくしかないと思っています」

 もう戻らない失われた故郷を、若い世代が取り戻すその日まで復興は続く。