写真はイメージです

 稚拙なパクリグッズや危険な毒食品、PM2.5といった公害問題などのワードで語られがちだった中国のイメージが、この1年ほどの間に刷新されつつあります。

 領土問題や歴史問題は一時的に棚上げされている一方、「スマホで何でも決済できるフィンテック大国」、「シェア自転車や無人コンビニが普及するイノベーション国家」といったポジティブなニュースが目立つようになり、日本よりも進んだ面があるのではないかという見方も増えてきました。ただ、そうかと思えば五ツ星ホテルで調度品のコップをトイレブラシで洗うなど“旧態依然”の中国像も報じられ、かの国の姿を正確に捉えることはますます困難になっています。

 そうしたなか、『ルポ 中国「潜入バイト」日記』の著者である西谷格氏は、中国現地で反日ドラマの撮影現場、パクリ遊園地などにライターという身分を隠して潜入。今回は中国・上海市のとある寿司屋の実態について紹介します。

 中国人の衛生感覚は、日本人とは根本的に異なるのではあるまいか。2014年のマクドナルド腐敗肉問題のニュースから感じた疑問を解くため、同年8月、私は上海の寿司屋で働いてみることにした。生魚という鮮度と清潔さが何より重要な食品を、一体どのように調理しているのか。それを厨房の内側から観察すれば、中国人の食の安全に対する意識がリアルに分かるに違いないと考えたのだ。

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 ネットの求人サイトで「日本料理店」「寿司」などと検索ワードを打ち込んでみると、思った以上に多数の案件がヒット。住所を頼りに3〜4軒の店舗を見に行き、その中でもっとも大きく客の回転が良さそうなところに電話を掛けてみた。中年男性が出たので働きたいと申し出ると、いきなり、「では明日面接に来なさい。履歴書はこっちで書けばいいから」と言われた。

 日本では2〜3日ぐらい間を空けてから日時をセッティングしそうなものだが、中国社会は実にスピーディーにものごとが進む。これ、日本人も見習った方がいいんじゃないかと思う。日本だと急すぎるアポは失礼だという風潮があるけれど、それは心理的な抵抗感でしかないのかもしれない。思い立ったが吉日的にドンドンものごとを進める中国人は、合理的な人々である。

 翌日、指定されたオフィスビルの一室に出向くと、眼鏡を掛けた小太りの男性が出迎えてくれた。電話に出てくれた人だろう。小さな会議室に通され腰掛けると、「じゃあ、まずはこの履歴書を記入して」とA4サイズの紙を渡された。受け取ったのは極めて簡素なアンケート用紙のようなもので、これまでの学歴と職歴について、箇条書きに並べて書くだけ。先ほどの男性が戻って来て、私の隣の席に腰掛けた。面接というより、雑談という雰囲気だ。

「とにかく寿司を握りたい」とアピールし、面接時間たった1分での即決採用となった。中国の寿司屋にとっては、日本人社員がいるというだけで、店のイメージアップにもなるのだろう。

 勤務体系は、週休1日で10時〜22時までの12時間拘束。14時から食事休憩が2時間あるとはいえ、毎日10時間労働だ。給料は月給2500元(約3万8000円)を提示され、試用期間が終わったら3000元(約4万5000円)にアップされるという。これは時給換算するとわずか10元(150円)で、上海のホワイトカラー層の半分以下だ。ボーナスは2年間働いてようやく1カ月分が支給される。

初日から気になった違和感

 翌朝、始業10分前にショッピングセンター内の店の前へ行ったが、ガラス張りのドアはカギがかかっており、周囲には誰もいない。おかしいと思ったが、少し時間を潰して10時ちょうどにもう一度店に行くと、同僚と思しき面々が通路脇のベンチに座ってケータイをいじりながらくつろいでいた。誰も動こうとしていない。

筆者が働いた寿司屋の看板(筆者撮影)

10時5分。ようやくカギを持ったスタッフが現れ、店の扉が開き始業開始となった。中国人は全般的に時間感覚がユルいので、この程度の遅れは遅れのうちに入らないのだろう。

メンバーたちが集まっても「おはようございます」などの挨拶は一切なく、全員がノソノソと緩慢な動きで制服に着替え始める。マッタリしているので気楽だが、日本の飲食店のようなキビキビ感は皆無だ。

寿司職人の制服というとパリッと糊の効いた白衣というイメージだが、この店でリーダーから「はい」と渡されたのは、真っ黒いヨレヨレの甚兵衛。黒いので汚れは目立たないが、清潔感は乏しい。しばらく洗濯していないような感じもしたが、よくわからない。甚兵衛を私服のTシャツの上から羽織って小ぶりの前掛けをしめ、帽子をかぶって着替えは完了した。

 スタッフは二十歳前後の若者ばかりで、30過ぎの私はおっさん扱いされるんじゃないか、ハブられるんじゃないかと少々心配だったが、みんな年齢差をあまり気にせずフランクに接してくれて、意外と溶け込みやすかった。そのへんの感覚は、欧米人に近いのかもしれない。中国語には敬語表現も英語と同程度にしか存在しないため、社会全体が日本よりもフランクだと言える。

 厨房内はさぞや不衛生な空間かと思いきや、意外と汚くない。ぱっと見、日本の飲食店と大差ないようにも感じられる。とりあえず観察を続けることにした。

中国人の奇妙な衛生感覚

 眼鏡をかけた先輩コックの横に並んで一緒にサラダを量産していたところ、ギョッとするような光景を目撃した。先輩はスプーンを使って手際よく缶詰のコーンを盛りつけていたのだが、手が滑ってスプーンを床に落っことした。だが、床から拾い上げるとスプーンの裏と表を一瞬じっと見つめ、汚れがないことを確認すると、そのまま缶の中に戻して使い続けたのだ。

 中国で生活しているとしばしば感じることだが、この国の人々は「視覚的に汚れが見えない状態」であれば問題ないと判断する傾向があるようだ。床に落ちても、目で見て汚れていなければ、洗う必要はないという感覚なのだ。目で確認する暇があったら、水道で洗った方が良いと思うのだが……。目視点検するだけマシというべきか。

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 カウンターの作業台にはステンレストレーが置かれ、その中にはマグロとサーモンの切り身が並べられていた。だが、常に常温で放置しているためマグロは赤黒く変色し、サーモンは色がくすんでグニャリとしていた。店内はエアコンが効いているとはいえ、生ものを置いておけるような温度ではない。

 先輩に「これ、冷蔵庫に入れなくていいんですか?」と聞いたら、「本当は下に氷を敷いた方がいいんだけどね……」と言いながら少々バツが悪そうに冷蔵庫にしまったが、30分も経つと完全に元通りになっていた。

 寿司ネタの鮮度を気にしないのにはワケがある。客から入るオーダーのほとんどが、マヨネーズ焼きの状態で出されるのだ。握っている途中のマグロやサーモンは色が濁っているものの、その上にコショウやガーリックパウダーを振りかけ、大阪のお好み焼きのようにマヨネーズを寿司ネタ一面に振りかける。さらにガスバーナーで表面をあぶって焦げ目を付けるので、鮮度の悪さは完全にごまかせるのだ。

 夕方になると、先輩コックの一人が夜のまかない飯を作り始めた。寿司屋なのでたまには和食も作るのかと思いきや、流しの下から大きな中華鍋を取り出した。やっぱり中華料理の方が口に合うのだろう。

 先輩は大型の黒い淡水魚を冷蔵庫から取り出すと、流しで鱗を落とし、水洗いした。見慣れない魚だったが、巨大な鯉の一種のようだ。続いて厨房の床におもむろにしゃがみこむと、なんとプラスチック製のまな板をコンクリートの床の上に直接置き、ヤンキー座りになって魚をその上で豪快に切り分け始めた。

目を疑った調理方法(筆者撮影)

 床の上ならば確かに魚の血が飛び散っても水で流せるし、まな板も洗いやすいだろう。合理的とはいえ、思わず目を疑った。日本人にはあり得ない発想だ。

 厨房全体は一見すると日本の飲食店とそれほど変わらないのだが、一緒に仕事をしていると、こうした奇妙な衛生感覚をたびたび目の当たりにした。「感覚の違い」というものだろうか。


西谷 格(にしたに・ただす)◎フリーライター 1981年、神奈川県生まれ。早稲田大学社会科学部卒。地方新聞の記者を経て、フリーランスとして活動。2009年に上海に移住、2015年まで現地から中国の現状をレポートした。