中学入学時の小島一朗容疑者

「お前、将来どうしたいんだ、やりたいことはないのか、と聞くと“俺は死ぬんだ”“生きる価値はない”と言うんです」

 そう語るのは、新幹線のぞみ通り魔殺傷事件を起こした無職・小島一朗容疑者(22)と同居していた伯父(容疑者の母親の兄=57)だ。一朗容疑者は、養子縁組した祖母(82)の家(愛知県岡崎市)で、伯父夫婦も含め4人で暮らしていた。

「“人を殺して刑務所に行く”とも言っていた。“働かなくても生きていけるところ、それが刑務所だ”と。私が、お前、生きたいんじゃん、死にたいんじゃないだろうと言ったら黙ってしまってね」(伯父)

 まさに嫌なことから逃げるための言い訳ばかり。

「ホームレスになりたい」

 言い訳番長ともいえる自分に甘い逃げの発言だが、祖母は、「死にたい、絶望だとかよく言っとった」と証言。母親も事件後に出した声明文に、《自殺をほのめかしていました》と記している。生きることに投げやりで絶望した容疑者を、周囲は誰も救えなかったのか。

 事件は、6月9日午後9時45分ごろ、東海道新幹線東京発新大阪行き「のぞみ265号」の12号車で起きた。

 13号車で事件に遭遇した落語家、桂ぽんぽ娘(38)は、先週開催した落語会『第2回ちよりん・ぽんぽ娘二人会』の冒頭で、「突然、12号車からキャーという悲鳴」「逃げてきた人が連結部分でドミノ倒し」「通路が血まみれ」などと生々しい様子を明かした。

 小島容疑者は突如、ナタと果物ナイフで、隣に座っていた女性2人に襲いかかった。騒ぎに気づいた梅田耕太郎さん(38)が助けに入ったが、切りつけられ命を落とした。

「誰でもいいから殺そうと思った」と供述しているという小島容疑者が、職場や自宅から姿を消したのは昨年12月21日のことだった。

 昨年11月から、岡崎市内の就労支援施設で働いていたのだが……。

「12月20日に、仕事を辞めたい、ホームレスになりたいと言い出しました。(辞める)意志は固いようで、じゃあ明日話そうと。それきり来なくなりました」(同施設職員)

 祖母には「仕事を続けられない自分が恥ずかしい。旅に出ます」と告げ、“4度目となる最後の家出”を決行する。

 警察の取り調べでは、事件直前まで長野県でホームレス生活を送っていたという。そして身内の前から姿を消した半年後に、凶行に及んだ。

言い訳グセがついた中学時代

容疑者の写真を見ながら話す実父

 事件について実父(52)は、

「許されない、取り返しのつかないことをしてしまい本当に申し訳なく思っています」

 そう謝罪を口にする。親子関係は、非常に悪かった。

言うことを聞かず、子どものころは手をあげることもありました。中学になり、成績の悪い教科について、もっと頑張らないといけない、と話すと“〇〇君のほうが悪い”と返す。何度話しても平行線で、最終的には“僕はドベじゃないんだ”と泣き出す。

 中学では剣道部で、2年のときに1級に昇級したんですが、検定の後に“やめていい?”と言うんです。3年までやるのが部活だと言いましたが、遅刻するようになり、部活の先生から電話がかかってきていましたが、最終的には“練習の日を誰も教えてくれない”と行かなくなった。

 中3になると“授業がわからない、友達がいない”と学校に行かなくなった」(実父)

 自身の非を認めない言い訳癖はこのころからだった。親子関係、友人関係も希薄になる中、卒業式も欠席した。

「妻が自立支援施設で働いていましたから、中2ごろから連れて行っていた。卒業後は家を出て、自立支援施設に住むことになりました」(実父)

 定時制高校に進学し、卒業後は職業訓練校に進んだ。

 同施設の代表は、

「高校と訓練学校の計4年間住んでいました。トラブルは一切なく、お母さんも働いていますから、一生懸命フォローしていましたよ。高校の成績はオール5で、4年のところを3年で卒業しました」

 事件後、母親は憔悴し、

「“私は生きていてもいいのでしょうか”と。お姉ちゃんは、“一朗はここにいたときがいちばん幸せだった”と言っていました」(同代表)

中学入学時の小島一朗容疑者

祖母との生活を希望

 2015年4月から小島容疑者は、機械のメンテナンスを行う会社に就職。同年8月に愛媛県へと配属された。

「仕事はできるほう。同期の人にも教えていましたから」

 と同社社長。同年9月の法事では、充実の表情を見せていたという。実父が振り返る。

「給料で服を買いました、時計を買いましたとうれしそうに話をしていました。帰り際に、駅でお小遣いに5000円を渡しました。ありがとうと素直にもらってくれてうれしかったのを覚えています」

 だが会社は11か月で退社。地元である愛知県一宮市へと戻ってきた。アパートを借りひとり暮らしを始めたが、貯金は半年で尽き、

「最後はガスも電気も止められていた」(実父)

 そのころ、小島容疑者は父親に「僕は寝る場所があり、ご飯を食べられればいい」と漏らしていたという。とはいえ、それ以外のコミュニケーションを図ることはできず、

「当初は岡崎の祖母宅の近くのアパートを借りる予定でしたが、一朗はそれに納得できず1回目の家出をしてしまったのです。交渉窓口は祖母のみで、祖母と一緒に住むことが、一朗の希望でした」(実父)

 祖母の家での同居生活は、'16年10月ごろから。伯父は、

「ひきこもりがちになってね。家出中、祖母に6000円の掛け時計を送ってきたことがあるんです。家出に使った自転車のチェーンが切れていたのに修理せず、 “おばあちゃんにプレゼントすると約束していたから”と。時計を買ったお金は祖母からもらったお金なのに、ですよ」

無関心で愛情がない両親

 容疑者本人の考えはとにかく自分勝手で、アスペルガー症候群と診断されたためか、伯父にはこう打ち明けていた。

「“俺は障がい者なんだ。障がい者手帳を取得して就職するんだ”と言うんです。“俺には権利がある、障がい者枠で働くんだ”と。そんなこと、できるかどうかわからないのに。権利を主張するのに、義務を果たさない。5歳の子どもと同じです」

 だが一家を知る関係者は、

「伯父も“出て行け”など乱暴な言葉を使っていたと聞いている。感受性の強い子だったようで、うまくいかないたび家出を繰り返していました」

 昨年9月頭、精神科に入院中の小島容疑者から親元に手紙が届いたことがある。

「助けてください、といった内容です。だから私たちは養子縁組に踏み切った。一朗が逃げずに堂々と生活できるようにするにはそれしかなかった。一朗も喜んでいた」(実父)

岡崎市に住む小島容疑者の伯父は同居中の出来事を説明した

 だが、話し合いの輪からはずされた伯父は激怒した。

「私が知らない間に、母(一朗の祖母)と養子縁組をされていました。母が死んだら、一朗はどうする。俺は絶対に面倒はみないと言ったんです。妹(容疑者の母)も父親も無関心で、愛情がないんです」

 と伯父は小島容疑者の両親の育て方に疑問を投げかける。

 母親は、週刊女性の取材にメールで「私がどんなに一朗を思って行動していたか私は恥ずかしくないです」「真相はいつかわかるので今は耐えるしかないです」などと返信。反論を控えた。

 身勝手な犯行に、身内の言動はどう影響したのか。小島容疑者はどのような言い訳をするのか。公判を待ちたい。