サッカー日本代表・GK川島永嗣さん(35) 撮影/六川則夫

 2018年サッカーロシアW杯。日本代表、最年長の守護神は、家族への大きな感謝を胸に、フランス・メスのピッチで淡々と最終調整を進めていた。「成長」をストイックに求め続けてきた金剛不壊のGK川島が今、強い覚悟の裏に秘める思いとは──。(週刊女性2018年5月29日号掲載)

◆   ◆   ◆

 冷たい雨に見舞われた2018年3月27日のベルギー・リエージュ。4年間、この町で暮らし、チーム本拠地のスタジアムで悲喜こもごもを味わってきた守護神・川島永嗣(現フランス1部・メス)は、慣れ親しんだ場所に戻り、日本代表の一員としてウクライナに挑んでいた。

 6月に迫った’18年ロシアワールドカップ(W杯)本大会に出場する最終メンバー23人発表前ラストのテストマッチで、重要度は高かった。が、日本はロシアへの切符を逃した東欧の強豪に主導権を握られ、劣勢を強いられた。川島は最後尾から大声を出し、仲間を力強く鼓舞したが、前半21分に1点目を奪われる。相手のロングシュートが味方DFの頭に当たり、角度が変わったことで彼は微動だにできず、ゴールネットを揺らされたのだ。

 気持ちを切り替え、巻き返しを図ろうとするも、日本は攻め手を欠く。そして後半24分には致命的な2点目を奪われる。右サイドを完全に破られ、ゴール前の守備組織が崩れた末の失点だった。これも川島には対応のしようがなかった。やるべき仕事は遂行し、ノーミスで90分を戦ったが、スコアは0―2。「敗戦」という結果しか残らない。それが彼らGKの厳しさである。

「練習で100本シュートを止めても、試合で1本決められたら評価されない。“チームを勝たせられなかった”とGKのせいにされる。まさに理不尽な役割なんです。でも逆に1本止めることで、悪い流れを変えてチームを勝利に導くこともできる。それは100の努力が報われたと思える瞬間。僕はそのためにGKを続けています」

 悔しさの中に希望を見いだそうと、日々もがいている。

◆   ◆   ◆

 ウクライナ戦の敗戦が致命傷となり、日本代表はチームを3年間率いたヴァイッド・ハリルホジッチ監督の電撃解任という異例の事態に直面した。目下、代表最年長35歳のGKは少しでもチームをよくしようと得意のフランス語を駆使し、頑固な老将に臆せず意見を言い、意思疎通を試みてきた。それだけ正義感が強い分、自らの力不足を痛感したことだろう。信頼を寄せてくれたハリル監督に対する自責の念も大きかった。

 それでも、自身3度目のW杯は目前に迫っている。立ち止まっている暇はないのだ。

「西野(朗=新監督)さんが指揮する体制に変わろうと、僕ら選手がやるべきことは変わらない。相手より力が劣っていようが、一方的に攻められる不細工なサッカーを強いられようが、とにかく勝つ姿勢にこだわる。僕はそういう戦いをしたいです」

 代表82試合を数える百戦錬磨の男は、強い覚悟を示した。

サボり癖を変えた友人の兄のひと言

 ’83年3月、埼玉県与野市で誕生。7つ年上の姉、1つ上の兄に続く末っ子として育った彼は、現在の姿からは想像もつかない「怖がり」で「泣き虫」の子どもだったという。

左がまだ泣き虫で怖がりだった2~3歳のころの川島。姉、兄と仲のいい3兄弟

 本格的にサッカーを始めたのは、与野八幡サッカースポーツ少年団に入った小学2年生のとき。しかし、走り中心の厳しい練習が苦手だった永嗣少年はしばしば練習をサボり、友達と草野球に熱中していた。

「当時は阪神ファンで、亀山(努=現解説者)のヘッドスライディングが大好きでした」

 と恥ずかしそうに笑う。

 そんな彼を変えたのが、小学5年生のときに友人の兄から言われたひと言だった。

「プロになる人はちっちゃいころからいつも熱心に練習してるんだぞ」

 時はまさに’93年のJリーグ発足当初。華やかな選手たちに刺激を受け、目が覚めた永嗣少年は一転して“努力の人”となる。少年団時代はDFだったが、与野西中学校に進むと、いちばんやりたかったGKの道を邁進し始めた。

「もともと僕はボールをキャッチすることが大好きなんです」とうれしそうに話す川島にとって、守護神は天職。

 恩師の柏悦郎監督もその素質を見抜いていた。

「永嗣はGKの仕事に貪欲で、自分から上のレベルを求めていく選手だった。声も出せるし、吸収力も高いんで、グングン成長しました」

 中学2年生になると、埼玉県の優秀選手が集まる練習会(トレセン)にも参加。父・誠さんは、息子のこんな姿が忘れられないと懐かしむ。

「トレセンでは、みんなそろいのジャージを着るのに、なぜかウチの息子だけ与野西中のジャージを着ているんです。母校の先生や仲間へ感謝を示したかったんだと思います」

 その実直さや謙虚さは、今も変わらぬ川島の魅力だ。

 強豪校・浦和東高校へ進学すると、毎朝6時半に家を出て、22時に帰宅する日々が始まる。母・法子さんは献身的に息子をサポート。5時に起きて弁当を作り、彼が寝た深夜に練習着を洗った。GKのジャージは泥だらけになるため、洗濯機を回すだけでは汚れが落ちない。それに気づいた川島がわざわざ泥を落として帰宅したこともあった。

「永嗣は手が資本なんだから、冷たい水で練習着なんか洗わなくていいよ。その気持ちだけでホントにありがとね」

 母の思いやりが川島を一層、努力の人へと成長させたのだろう。

 親譲りの優しさやきまじめさを学校側も高く評価。サッカー部の野崎正治監督もその優等生ぶりを絶賛する。

「サッカーへの姿勢は真剣そのもの。栄養管理も徹底していて、遠征先でとんかつが出ると“揚げ物は食べない”と一切、手をつけなかった。ウチはヤンチャな生徒が多かったんですが、進路指導の先生も“試験休みもサッカーの練習があるのに成績優秀だし、悪いことも絶対しない。素晴らしい”と褒めていました」

 ’01年春、川島は当時J2だった地元の『大宮アルディージャ』に入り、小学5年生から夢見てきたプロキャリアの一歩を、力強く踏み出した。

独学で5か国語をマスター

 大宮では3年間過ごし、定位置を手にしたのは最後の年。ただ、出番ゼロだった新人時代にイタリア・セリエAのパルマへ1か月間の留学に赴いたことは人生の大きな転機になった。当時、中田英寿が活躍していた強豪チームでの日々は18歳の若武者にとって刺激的だった。そのときから川島の中に「いつか必ず海外でプレーするんだ」という強い思いが芽生えた。

 同時に語学習得意欲も高まり、英語、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語のテキストを一挙に購入。毎朝30分間の独学をスタートさせ、17年たった今もそれを続けている。

「ひとつの言葉を離れて別の言語にいくと、意外に共通性があって理解が深まったりする。それで文法や単語も覚えられました。大宮にはブラジル人選手もいたんでポルトガル語で指示を出したし、イタリアにはその後も毎年行っていたんで、会話力は向上しました」

 上記5言語で日常会話に苦労しないレベルまで達した彼は「語学の達人」として知られている。現在は一般社団法人『グローバルアスリートプロジェクト』の発起人兼アンバサダーのひとりとなり、アスリートの語学習得サポートや英語サッカースクールも手がける。「言葉の壁に阻まれるアスリートを減らしたい」という思いはスポーツ界に確実に広まりつつある。一方で、子ども好きで人懐こい性格の彼は、少年たちと触れ合うイベントにも定期的に参加し、英語とサッカーの楽しさを伝える喜びを味わっている。

’17年6月、『グローバルアスリート英語サッカースクール』のイベントに参加(筆者撮影)

 サッカーも語学も高いものを貪欲に追求する男は’04年に名古屋グランパスへ赴く。

 しかし、ここには’02年日韓ワールドカップ日本代表の正GK楢崎正剛(現J1・名古屋)がいて出番が得られる保証は皆無。GKはポジションが1つしかなく、途中交代もない。全くピッチに立てない可能性すらあった。それを承知で「ナラさんからポジションを取る」という強い覚悟を持って移籍に踏み切ったのだ。

 そんな果敢な後輩を、楢崎はこう述懐する。

「永嗣は“自分のベストを見せるんだ”っていう野心があふれまくっていた。ときに感情が出ることもあったけど、若かったし、それがいい方向に出ていたと思います。強い向上心はサッカーだけじゃなくて、語学の勉強や人間的な部分でもそうだった。僕は名古屋に20年いますけど、激しくポジションを争った感覚を唯一抱いたのが永嗣。それだけの力を持った選手でした」

 結果的にレギュラーはつかみきれなかったが、偉大な先輩と日々刺激し合うことで、ワンランク上のGKへと進化できたのは間違いない。

 そして’07年、川崎フロンターレへ移籍。直後には念願の日本代表に初招集される。まだ川口能活(現J3・相模原)と楢崎という2大守護神が正GKの座をめぐって激しいバトルを繰り広げているころで、24歳の若手GKが2人の間に割って入るのは容易ではなかったが、少しずつ実績を積み上げ、’10年南アフリカW杯の代表メンバーにも選出された。

南アW杯前夜、メッチャ緊張!

 この時点では楢崎に続く二番手GK。両親も「永嗣は出ないだろう」と考えて、地元のパブリックビューイングで応援することにしていた。

 ところが、予期せぬ出来事が起きる。5月の韓国との壮行試合で日本は0―2で惨敗。岡田武史監督が進退伺いを出すという危機的状況に陥った。指揮官は理想を捨てて守備的な戦い方への変更を決断。キャプテンを中澤佑二(現J1・横浜)から長谷部誠(現ドイツ1部・フランクフルト)へ変更し、GKも川島を抜擢する大胆策に打って出た。これには本人も驚き、平常心を保とうと努めた。

「初戦・カメルーン戦の前日、“明日、W杯に出るんだ”と考えて、メッチャ緊張した覚えがあります。とにかく考えすぎないようにと思ってお笑いのDVDとかを見ましたね」

 南ア中部・ブルームフォンテーヌで行われた歴史的一戦は、前半39分の本田圭佑(現メキシコ1部・パチューカ)の先制点で日本が首尾よくリードする。後半は相手の猛攻を受けたが、川島のスーパーセーブ連発で逃げ切りに成功。白星を得る。息子の一挙手一投足を日本で目の当たりにした両親は驚きを隠せなかった。

カメルーンの猛攻を次々防ぎ、南アW杯初戦勝利へと導いた

「“なんでここで見ているんですか”“南アに行かなくていいんですか”と周りの方に言われて、急いで女房と現地に飛び、2戦目のオランダ戦から駆けつけました」(誠さん)

 オランダ戦こそ0―1で落としたものの、デンマーク戦を3―1で勝利し、グループ1位で16強入りした日本はパラグアイと120分間の死闘を演じ、0―0のままPK戦へ突入。川島は最初のキッカー2人の蹴ってくる方向を読み切ったが、惜しくも防ぎきれない。結局、5人全員に決められた。逆に日本は3番手・駒野友一(現J2・福岡)が失敗。史上初の8強入りの夢は幻となった。恩師・柏監督はこう分析する。

「永嗣は“自分が止めなきゃいけない”という思いが強すぎると、相手より先に動いてしまう傾向があるんです。冷静ならしっかり状況判断できるのに、どうしても熱くなってしまいがち。パラグアイ戦はまさにそうでした」

 あれから8年。その教訓はしっかりと刻まれ、川島はひとつの境地にたどり着いた。

「PKに関しては“信じた方向に100%で行く”ことしか今は考えてないです。“自分が止めなきゃ”とか考え始めた時点で相手に負けている気がするから。そのときの感覚に従うことが大切ですね」

ブーイングを浴びた屈辱

「南アの悔しさを糧に、より高いレベルの舞台で戦いたい」

 その思いを胸に’10年夏、27歳の守護神は愛着の強かった川崎を離れて、ベルギー1部(現2部)のリールセへ移籍。年俸も下がったが、長年の思いを実行に移した。

「“海外へ行きたかったのに行けなかった”と後悔する人生だけは送りたくなかった」という強い意思が、大胆チャレンジの原動力となった。

 小クラブのリールセは、強豪との実力差が大きい。ベルギー3強の一角を占めるスタンダール・リエージュとの試合では0―7で大敗したこともあった。そこで川島は10本のスーパーセーブを見せ、試合のMVPに輝く。その活躍ぶりが認められ、2年後にはスタンダールに引っ張られた。

 だが直後、彼は異国の強豪クラブでプレーする厳しさを味わうこととなる。

「スタンダールでは責任感がまるで違いました。リールセのときはチームが負けても自分がよければ評価された。でもスタンダールでは結果が伴わなければ酷評される。ファンの要求は異常なほど高く、『四面楚歌』というくらい前後左右からブーイングを浴びせられた。スーパーマンじゃないと認められないんです」

 日本時代にはなかった数々の修羅場をくぐるたびに、平常心でいることの大切さを実感するようにもなった。

「僕の1日は、自分でいれたコーヒーをゆっくり飲みながらボーッとするところから始まります。朝の語学の勉強、練習、休養と流れがある程度、決まっていますけど、そういう1日1日の習慣の積み重ねが実戦に出る。練習のキャッチ1本が試合につながる。毎日の時間を大事にして、自然体でいようと心がけるようになりました」

 タフな海外経験から得た自信を胸に2度目のブラジルW杯に参戦した。南ア16強戦士の仲間である長谷部、本田、長友佑都(現トルコ1部・ガラタサライ)、内田篤人(J1・鹿島)らもそれぞれ欧州でハイレベルな実績を残していて、アルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表は史上最強と目された。

 南ア超えも夢ではないと期待されたが、初戦・コートジボワール戦で1―2の逆転負けを喫したことですべてのシナリオが狂った。ギリシャには堅牢な守備をこじ開けられずに0―0のドローを強いられ、コロンビアとの最終戦は1―4で惨敗。当時22歳のハメス・ロドリゲス(現ドイツ1部・バイエルン)に赤子の手をひねるようにアッサリとやられてしまった。この惨敗は川島にもショックが大きすぎた。

意気揚々と挑んだブラジルW杯でコロンビアに1-4の惨敗を喫し、試合後のピッチで天を仰ぐ川島

「ブラジルのときは“自分たちは何かを残せる”という自信がどこかにあった。4年間、それだけの道も歩んでいたから。だけどサッカーはそんなに簡単じゃない。W杯は国同士が威信をかけた戦いをする場なんだから。あの惨敗に直面した僕自身も喪失感が大きくて、冷静になれない部分があった。結果的にスタンダールでもスタメンからはずされた。“何でこんなミスをするのか”と自分でも理解できないことが多かったですね」と川島は苦しい胸の内を吐露する。

妻の妊娠直後、まさかの無職

 ブラジルでの惨敗は、GK人生最大の苦境の序章でしかなかった。ここからの4年間で起きる紆余曲折を、本人も想像だにしなかっただろう。

 そんな川島の強い味方になったのが、’14年9月に結婚した妻・広子さん。「ウチの奥さんはサッカーのルールも知らないし、スタジアム観戦に出かけたこともない人」と本人も笑う。ひとり暮らしが長く、常にサッカーに没頭してしまいがちな男にとって、サッカー門外漢の彼女の存在は大きな癒しになった。

 ’15年には子どもができ、守護神はさらなる高みを目指そうと決意。スタンダールの契約延長を断り、新天地を探すことにした。複数の国からのオファーを断り納得いくクラブを見つけるため夏の欧州移籍市場が閉まる8月末まで粘ったが、契約に至らなかった。

「所属先なし」

 この現実は川島に重くのしかかった。身重の妻を日本の実家に帰し、イタリア、ベルギー、オランダ、イングランドと渡り歩いて新たなクラブを探す時間は、とてつもなく長いものに感じられた。クラブという職場がないことは、練習環境も失うという意味だ。シュートを蹴ってくれる仲間もいなければ練習をするグラウンドもゴールも使えない。単独でできるのは筋トレやランニングくらいで、GKとしての感覚を失う可能性もあった。その恐怖感にさいなまれ、気持ちも落ち込む。日本代表落選という厳しい現実も追い打ちをかけ、高校時代から続けていたサッカーノートさえ書く気力が失せたと明かす。

「僕より精神的に大変だったのは奥さんだと思います。結婚した人がいきなり無職になったらビックリしますよね(苦笑)。安定どころじゃないし、子どもも生まれるしね。だけど僕は自分が成長できる環境を追い求めて、チャレンジしたい気持ちが強かった。それだけは結婚しても変えられなかった。奥さんはそういう僕の信念を理解してくれて“自分が信じてるんだったら、それに従えばいい”と言ってくれた。自分の夢がひとりのものじゃないってことを痛感させられましたね」

 半年間の空白期間を経て、スコットランド1部(現2部)のダンディー・ユナイテッド入りがようやく決まった。同じころに長男・健誠君も誕生。川島も大きな安堵を覚えた。

「両親も奥さんもホントにつらい時期をよく支えてくれました。“自分がホントにやりたい場所でできないなら続ける意味があるんだろうか”と引退も頭の片隅によぎったくらいなので、家族がいて助かりました。人間はいちばんの喜びも苦しみも共有できる人たちがいてこそ前に進める。今もそう強く思います」

 こうしてサッカー人生最大の苦境を乗り越えた川島は’16年1月からスコットランドで半年間プレー。惜しくもダンディーは2部に降格し、契約満了となったが、同年8月にはフランス1部のメスへの移籍が叶った。欧州5大リーグ1部のクラブにたどり着いた日本人守護神は川島だけ。アジア人GKも現時点では2~3人しかいない。190cm超の大柄な選手の多い欧州で、体格的に小柄、かつサッカー後進国である日本のGKがプレーすることは、想像を絶するほど難しいのだ。

 実際、メスでは3番手からのスタートを余儀なくされた。出番に恵まれなかった9か月を川島はこう振り返る。

「18歳でパルマに行ったときから欧州5大リーグ入りのチャンスをことごとく逃してきた僕にとっては、3番手だろうがチャンスだというとらえ方しかなかった。挑戦しなければ先はないですからね。ライバルは190cmくらいの若いGK2人で、高さもパワーもあるし、リスク覚悟で高いボールにアタックするようなメンタル的強さもあるとは思いましたけど、十分戦えると感じた。とにかくいい準備をしてチャンスをモノにすることだけに集中したんです」

 フランスで飽くなき向上心を持って挑み続ける守護神を再評価したのが、ハリル監督だった。’17年3月のロシアW杯最終予選の大一番・UAE戦で指揮官は川島を抜擢。8か月ぶりの代表戦でベテラン守護神はゴール前に悠然と立ちはだかり、相手攻撃陣を完封。チームの窮地を救った。このときは人知れずに号泣したというが、代表のピッチに立つ誇りと喜びをこれほど強く感じたことは過去になかったのかもしれない。

ハリル監督とは得意のフランス語で常日ごろから意見を交わしていた

 代表正GKを奪回した勢いでメスでもスタメンを奪取。このころの凄まじい活躍ぶりは、’16年6月から1年半のPK阻止率83・3%という驚異の数字にも表れている。

 2年目の今季も、開幕当初は「下部組織出身の若いGKを試合に出して活躍させ、移籍金を稼ごう」というクラブ側の黒い思惑に巻き込まれ、実力的に上の彼が控えに回る羽目になったが、8月末からポジションを奪い返し、不動の守護神に君臨している。

「永嗣を励まそうということでこのころ、女房と一緒にメスへ行ったんですが、お嫁さんがとにかく明るかった。何か国語か喋れる人なのでどこへ行っても溶け込めるし、料理も上手。孫と3人で楽しくやっているんで本当に安心しました。それまでは私たち親にも“大丈夫だから”と心配をかけないようにしていたけど、今は自分の気持ちを理解してくれる人が近くにいる。それは大きいですよね」と父・誠さん。母・法子さんも家族という安らげる場所を持った息子に安堵したという。

 重圧のかかる日々が続く中、妻の誕生日やバレンタインデーに手作りのイチゴのショートケーキを作って振る舞うなど、川島自身もリラックスする時間を持てるようになった。「家族は人としての土台」と本人も強調していたが、それが強固になったから、多少のことでは揺らがないのだ。

「同じ感覚」を維持するため

 ’18年もメスの1部残留争いや日本代表のゴタゴタなど混乱が続いている。悔しいことにメスは5月6日のアンジェ戦で敗れて3年ぶりの2部降格が決定。「失望以上の感情で受け入れるのは難しい」と激しいショックを吐露した。

 それでもGKとしてのゴール前での存在感や迫力、オーラをシーズン通して示したのは、誰もが認めるところである。

「“1日1%でも成長する”というのが、今のテーマ。それはクラブでも代表でも同じです。今日と明日は違うし、’10年と’14年、’18年に向かっている今も違う。そういう中でどれだけ自分が成長できるかだと思うし、いちばん肝心なのは自分自身だと感じます。

 ゴールの枠ひとつとっても練習場だろうが、W杯の舞台だろうが、その大きさ自体は変わらない。でも、背負うものや重圧が大きくなると、枠のサイズが違って感じられることもある。W杯の舞台で枠が急に広がったように感じたら、それこそ気後れしていることになってしまう。常に同じ感覚でやれるように、僕はGKとしての自己研鑽を続けていきたい」と強調する35歳の守護神は、メスでの悔しさをバネに1か月後に迫ったロシアで勝利を泥臭く追い求めていくつもりだ。

 今回は初めて家族とともに戦うW杯。2歳半になった健誠君はパパがサッカー選手だとわかってきている。「自分の人生の限られた時間、かけがえのない時間を息子が目にしてくれるのはうれしいですね」と父としての実感を胸に秘め、彼はピッチに立つ。まずは目先のロシアで前回の屈辱を晴らすこと。西野監督体制のチームをひとつにまとめること。それが最重要命題に違いない。

ランニングでは先頭を走り、最年長のリーダーシップを示す

「永嗣はプロになったときから“40歳までやる”と言っていました。イチロー選手が3000本安打を達成したとき、父・宣之さんが“そういう特別な日に自分がいられるように長生きしなきゃいけない”とコメントされたのを見ましたが、私も同じ心境だと息子に伝えたことがあります。永嗣にも“まだやっていたのか”と言われてもいいから、好きなことを好きなだけやってほしい。日本では30歳を過ぎると下り坂と見られますけど、まだまだ成長期。そう信じて頑張ってほしいです」

 父・誠さんの言葉を胸に、ロシアで日本のゴールを勇敢に守る川島の姿をぜひ見たい。

 

取材・文/元川悦子 撮影/六川則夫

◎もとかわえつこ サッカーを中心としたスポーツ取材を主に手がけておりワールドカップは’94年アメリカ大会から過去6回を現地取材。著書に『黄金世代』(スキージャーナル社)、『僕らがサッカーボーイズだった頃1・2』(カンゼン)ほか。