ちびまる子ちゃんランド内の献花台には連日多くの人が訪れている

 8月15日、乳がんのために漫画『ちびまる子ちゃん』の作者、さくらももこさんが53歳の若さでこの世を去った。

「少女漫画誌の『りぼん』(集英社)で連載を持つことが決まり、題材を考えていたときに、子どものころに母親から“ちびまる子ちゃん”と呼ばれていたことを思い出して、自身の少女時代を漫画にすることを思いついたそうです」(スポーツ紙記者)

自ら提案したマンホール

 彼女が生まれ育ったのも、漫画と同じ静岡の清水だった。静岡県のちょうど真ん中に位置する静岡市清水区(旧清水市)は、今も昔ながらの青果店、鮮魚店、和菓子店などが立ち並ぶ。

 '99年に清水区内に設立された『ちびまる子ちゃん』の記念館である『ちびまる子ちゃんランド』の広報担当者は言う。

「いらっしゃるときは、ほとんどお忍びでということだったと思います。私たちも後で気づくことのほうが多かったですね(笑)。お越しくださった小さなお子さまに、まるちゃんの絵を描いてもらって展示しているんですけど、その似顔絵を1枚1枚、熱心に見ていたそうです」

今年8月に2か所でお披露目予定だったマンホール

 静岡市では、さくらさんがデザインした『ちびまる子ちゃん』をあしらったマンホールが間もなくお目見えする運びだった。彼女が「静岡にまる子のマンホールがあったらかわいいのでは」と市に提案。2枚のマンホールを寄贈したばかりだったという。

 その際、さくらさんはメールでこんなメッセージを送っている。

《マンホールの蓋に色んなデザインがある事を知り、静岡にまる子のマンホールもあれば可愛いなと思い、静岡市さんにご相談させていただきました。今回、「お茶、富士山、駿河湾」をコンセプトに、2つのマンホールが出来ました。

 静岡市で長く愛用して頂けると嬉しいです。そして静岡市民の皆さんには、いつもあたたかいご声援をいただき、本当にありがとうございます!まる子デザインのマンホールの蓋も、みなさんに喜んで頂けると嬉しいです》

 また、マンホール以外にも、故郷を盛り上げるために、こんなこともしていた。

「私たちが持っている静岡市役所の名刺には、さくら先生のオリジナルの絵が描かれています。すべて静岡の名所や名産品です。名刺の裏には、直筆のメッセージも書かれています。

 あとは、『まるちゃんの静岡音頭』という曲の歌詞をさくら先生が作詞してくださいました。静岡市役所のエレベーター内でも流れています」(静岡市役所広報課)

 作中の『まる子』は小学校3年生だが、当時の彼女もまる子のキャラクターそのまんまだったという。

「小学校のときは、おかっぱで赤いつりスカートをはいて、本当に“まるちゃん”そのものでしたね。学校では目立つほうではなくて、隅っこにいる控えめな女の子。教科書の端に落書きして遊んでいるような感じでしたよ」(小学校の同級生)

頑なに守り抜いた私生活

『ちびまる子ちゃん』は、当たり前のような日常を子どもらしい鋭い感性でほのぼのと描いていく独特の世界観がウケ、瞬く間に人気漫画となった。そして時を同じくして'89年に当時の編集担当者と結婚。'94年に長男が誕生した。

 しかし'98年に離婚し、女手ひとつで育てることになる。都内の高級住宅地にある自宅近くに住む男性は言う。

「ひとりっ子ってこともあって心配性だったかな。お父さんっていう存在がいないぶん、自分でしっかり面倒を見なきゃって思いがあったんだと思う。

 穏やかな人だけど、息子さんが携帯ゲームのしすぎでお金を使いすぎちゃったときなんかはちゃんと叱ることもあったみたい。あとは、息子さんがアトピーだったから、食事には気を遣ってあげてたね」

 '90年にアニメ化され、すっかり国民的漫画となった『ちびまる子ちゃん』だが、さくらさんは頑なにプライベートを守り続けた。

 離婚後のここ20年ほどはメディアに顔を出すことを控え、不用意に周囲に本名を明かすこともなかった。

息子さんにも自分と同じように、普通の生活を送らせてあげたかったんじゃないかな。小学生になるまで、自分が“さくらももこ”だって明かさなかったみたいだし。彼が中学に入ってからも、自分の親が“さくらももこ”だっていうことを友達にも言わないでとクギを刺していたそうだからね。

母校に寄贈された絵はファンも見に訪れる

 参観日や保護者会にも来なかったし、運動会はチラッと見て帰るくらいで、長居することはなかった。それくらい、周りから特別に見られることを避けていたんでしょう」(同・近所に住む男性)

 '03年には、イラストレーターと再婚するが、その数年後に、乳がんであることが発覚した。

「さくらさんは、自分はがんであることを定期的に連絡を取り合っている、極めて親しい仲間にしか明かしていませんでした。心配されるのがイヤだったのかもしれませんね」(さくらさんの知人)

 かつて雑誌のインタビューでは、《なるべくムダな用事は断ろう。気のすすまない食事や飲み会は時間もお金も体力も気力もムダになります》と語ったこともあった。

 そんな彼女だったが、闘病生活が始まっても、故郷へは足を運んでいたという。

「病気については4年くらい前から“身体の具合が悪い”とは聞いていましたが、そこまで悪かったとは思いませんでした。それでも、あまり目立つようなことはしたくなかったんでしょうね。ここ数年は、同級生たちと会うことはおろか、電話連絡もしてなかったそうです。

 唯一、会っていたのは漫画でも親友としておなじみの“たまちゃん”のモデルとなった女性だけでした」(実家近くに住む男性)

地元の同級生の店にはイラストを贈り貢献していた

 昨年6月3日、さくらさんが最後に清水区を訪れたのは、祖父の友蔵さんが眠っている先祖代々のお墓のあるお寺だった。

「その時も、自分で歩いて来られましたよ。髪は肩までのボブで、元気そうには見えましたが、私にも親戚に婦人科系のがんを患った人がいたので、さくらさんの歩き方がどこか弱々しく“もしかしたら”とは思っていました。

 故人の命日でもなく、本来の法事を行う時期ともズレていたので、なんかおかしいなと思っていたんです。いま思うと、元気なうちにってことだったんでしょうね」(寺院関係者)

 天国できっと、友蔵さんと“のほほん”生活を送っているに違いない─。