漫画家・くらもちふさこさん 撮影/近藤陽介

 何があっても

 すべて

 あの時のときめきから

 始まっていることを

 忘れるものか

 NHK連続テレビ小説『半分、青い。』の中で、少女漫画家を目指すヒロインの鈴愛(すずめ)が、実在する名作漫画『いつもポケットにショパン』のワンシーンに出てくるモノローグを口にした瞬間、かつて同作を夢中で読み耽(ふけ)った多くの人の心に、作者・くらもちふさこが甦(よみがえ)った。

 1980年に『別冊マーガレット』に連載されたこの作品は、幼なじみの麻子と季普(きしん)が母親同士の過去の因縁を乗り越えて、ピアニストを目指す本格的なクラシック音楽漫画。

 ヒロインの鈴愛は、この漫画に惹かれて漫画家となるが、やがて、挫折を経験して筆を折る。

「私もスランプになって原稿を落としたことがありました。それでも漫画が大好きで、描き続けてきました」

 漫画家デビューを飾っておよそ半世紀。その道のりは決して平坦ではなかったが、スランプや病に倒れても、決して描くことをあきらめなかった。

「トキメキさえあればマンガは描けるし私は生きていける」

 そう呟(つぶや)くと、ふさこは優しい笑顔を浮かべて微笑んだ。

◇  ◇  ◇

 少女マンガ家として『別冊マーガレット』でデビュー以来、46年。今も現役の漫画家としてラブストーリーを描き続けているくらもちふさこ(63)は、昭和30年、東京都渋谷区に生まれた。

 のちに日本製紙の会長となる父・長次と、実家が開業医のお嬢様だった母・洋子は、故郷・島根でお見合いをして結婚。

 父の転勤に伴い、上京してすぐにふさこは生まれた。

「小さいころから歌ったり踊ったりすることが好きだった私は、元気で活発な子どもでした。男の子に交ざって、三角ベースや野球をして遊んでいたことを今もよく覚えています」

 入学した地元の渋谷区立猿楽小学校は、くらもちふさこファンの間では有名な聖地のひとつ。『いつもポケットにショパン』(’80年)で幼なじみの主人公・麻子と季普が通った小学校としても知られている。

 その後、豊島区立駒込小学校に転入。駒込は、のちに長らく仕事場を置き、『駅まで5分』(’05年)の舞台となった街でもある。

「私たち家族が住んでいたのは、父の会社の社宅。同じ年ごろの子どもたちとワイワイガヤガヤ、とにかく賑(にぎ)やかでしたね。ここでの生活を下敷きにして描いたのが『いろはにこんぺいと』(’82年)。社宅に暮らす2つ年上のお姉さんたちとマンガを描いて、手描きの漫画本を作ったことも懐かしい思い出です」

 当時のふさこについて同級生だった渡部京子さんは、こんなシーンを覚えている。

「放課後になると、ふさこさんが当時、お気に入りの西谷祥子、水野英子といった少女漫画家の主人公を下敷きに描いていました。生き生きとしてとても上手。漫画の発売日になると、妹の知子さんと本屋の前で立ち読みしている姿もよく見かけましたよ」

 漫画家への憧れは、そのときすでに芽生えていたのかもしれない。

 妹で漫画家でもあった倉持知子さんは、当時を振り返り、

「うちの母は、勉強しろと言わないかわりに、一緒にお絵描きをして遊んでくれるような人。クレヨンで白雪姫を描いたお面を作ってもらって、うれしかったことを覚えています」

いつもおしゃれだった母、妹の知子さん(左)とよくお絵描きをして遊んだ6歳のころ

 やがてテレビが家にやってくると、『鉄腕アトム』やディズニーのアニメ番組を姉妹で夢中になって見ていたのも、懐かしい思い出だ。

「後ろの席の女の子」に圧倒されて

 豊島区立駒込中学校に入学したふさこに、運命の出会いが待っていた。

「同じクラス、しかも1つ後ろの席に座る女の子が休み時間になると漫画を描いていたんです。よく見ると私の描く鉛筆書きの漫画ではなく、ペン入れ、スクリーントーンまでされた本格的な漫画原稿。しかも、絵がとても上手で圧倒されました。その女の子が後に『週刊マーガレット』(集英社)からデビューする柿崎普美さんでした」

 意気投合した2人は、休み時間になると漫画の主人公の似顔絵を描きあって、少女漫画雑誌『なかよし』(講談社)の似顔絵コーナーに投稿。そろって入選するようになる。

「姉は、柿崎さんから漫画の新しい知識を仕入れてくると、私に自慢げに教えてくれました。もし柿崎さんがいなかったら、姉も私も漫画家になることはなかったでしょうね」

 と妹の知子さんは言う。

 ふさこが柿崎さんに刺激を受け、初めてストーリー漫画を描いたのは、中学3年生のころだった。

「『なかよし』に投稿して、努力賞を受賞。漫画家になりたいという思いは、日に日に強くなっていきました」

 そろって豊島岡女子学園高校に進学すると、漫画家志望の子たちが“持ち込み“していることを知り、ふさこたちも生まれて初めて『週刊マーガレット』編集部を訪ねる。

「2人の作品に目を通した編集さんに“また持って来なさい”と言われたときはうれしかったし、とても刺激になりました」 

 その後、柿崎さんは『週刊マーガレット』の編集部へ持ち込みを続け、デビューを果たすことになるが、ふさこにはふさこの考えがあった。

「当時、私が憧れていた雑誌は、同じ集英社でも一条ゆかり、もりたじゅん、山岸涼子といった錚々(そうそう)たる漫画家を輩出していた『りぼん』。読者を招待して漫画家の先生たちにお話を聞く『りぼん』の漫画教室に私も勇んで参加しました」

 しかし憧れの『りぼん』の世界は眩しすぎて、敷居も高く、なかなか漫画を送る勇気が持てずにいた。

 そんな彼女のために門戸を開いてくれたのが『別冊マーガレット』だった。

「当時、投稿した漫画を読んで唯一、添削してくれたのが『別マ』。ここで腕試しをしてから『りぼん』に投稿しようと思っていたのですが、それからずっと『別マ』にお世話になることになりました(笑)」

 投稿した作品を添削するシステムを最初に取り入れた『別マまんがスクール』には、のちにふさことともに少女漫画界を牽引していくことになる槇村さとるをはじめ、多くの少女漫画家たちが腕を競っていた。同い年で自身も『別マ』でデビューすることになる笹生那実さんは、

「ふさこさんは年齢に似合わない、レベルの高い新人さん。先鋭的で常に読者の半歩先、一歩先を歩いていました。それこそ『半分、青い。』の秋風先生のような鋭い方かと思っていましたが、お会いしたら、ふんわりと穏やかで優しい人。今も昔も雰囲気は、まったく変わりませんね」

『別マまんがスクール』に通っていた高校生のくらもちさん。夢が叶って高校2年生で漫画家デビューを果たす

『別マまんがスクール』に身を投じたふさこは、いち早く頭角を現す。高校2年生のとき『エンゼルは雨の中に』が佳作に、さらに『メガネちゃんのひとりごと』が金賞に選ばれ、念願の漫画家デビューを果たす。

 当時の心境を、

「雲の上を歩いている気分でした」

 と話すふさこ。

 しかしその一方で、

「編集さんに“地味だ”“個性がない”と指摘され、目を大きくしたり小さくしたり。個性作りには苦労しました」

 夢が叶(かな)ってデビューはしたものの、読み切りばかりで、ふさこはなかなか連載を持つことができなかった。

「とてもプロの漫画家といえる状態ではなかった。京都の大学に新しく漫画学科ができたのでそこに行かないかと、友達に誘われました。でも両親に“京都のひとり暮らしは絶対ダメ”と反対され、東京の美大に進学しました」

 進学先は武蔵野美術大学造形学部。

 ふさこは日本画を学びながら、漫画を描き続けた。

「大学には6年通いましたが、クロッキーで人物、生物、動物、風景とひと通り描き、今になって思うとものすごく勉強になりました」

 デッサンがしっかりしていると言われるふさこの画力は、美大時代に培われたもの。また、『ガラスの仮面』で知られる美内すずえ先生から声がかかり、アシスタントを経験したのもこのころ。

「資料もないのに、想像で“洪水の絵を描いて”と言われたり、美内先生にはとても鍛えられました」

 プロの厳しさを目の当たりにしても、くじけるばかりか夢はますます膨らむばかり。そんなふさこに、初めて連載のチャンスが訪れる。

初連載と引き換えに失ったもの

 ’78年9月号から連載が始まった『おしゃべり階段』は、中学2年のちょっぴり自分に自信のない天然パーマの少女・加南が大学に入学するまでを描いた物語。

「私は中学生のころがいちばん好きです。未完成な魅力っていうか、何をしでかすかわからないから、突拍子もないことをやってくれそう。中学生なら許しちゃおうかと思えます。自分の記憶を思い返しても、中学に上がったとき、ものすごく変わったなぁと思っているので」

 思い悩むことを肯定して、大人への階段を寄り添うように上ってくれるこの作品は、当時ティーンのバイブルと言われた。

 ところが、ふさこはこの連載を引き受けるために、大きなものを失う。

「連載が始まる時期と卒業制作の時期が重なってしまい、6年通った大学を泣く泣く退学せざるをえませんでした」

 中退と引き換えに手にした初めての連載だけに、思い出もひとしお。この作品から、ふさこのアシスタントを務めた漫画家の小塚敦子さんは、当時のふさこの様子をこう思い出す。

「この作品をとても楽しそうに描いている先生の姿をよく覚えています。ただ、仕事に対しては完璧主義で、気に入る線が描けるまで何度でも描き直していましたし、ネームについても、とことん粘っていましたね」

 小塚さんは、高校を卒業後に静岡から上京。駒込のふさこの自宅に住み込み、アシスタント生活をスタートさせた。

「先生のお母さんは“よそ様の大切なお嬢様をお預かりしたのだから”と言ってくれて、家族同様のお付き合いをさせていただきました。お母さんの作られた手料理の数々がどれも美味しく、今も忘れられません。こうした家族との絆(きずな)が先生の作品を支えてきたのかもしれませんね」

笑顔の絶えない仕事場で、よく食事にも出かけた。左・くらもちさん(撮影/丸山桂賛)

『おしゃべり階段』の成功でプロの漫画家として認められたふさこは、1980年、代表作のひとつ『いつもポケットにショパン』を世に送り出す。

 物語は、幼なじみの麻子と季普がピアニストの母親同士の過去の因縁から、お互いをライバル視。

 やがて、ドイツに留学した季普が事故に遭い、消息を断つというダイナミックな展開を見せる。ふさこ自身はこの展開について、

「この作品の話題に触れるとき、私は必ず口走ってしまう言葉があります。それは“なんでこんな派手な話になっちゃったんだろう”です(笑)。

 本当はもっとメルヘンチックな作品になるはずだったのに。でも、思わぬ展開は自分にも新鮮で楽しめました。それまでの作品は、ヒロインよりヒーローへの思い入れがはるかに深いものがほとんどでしたが、今回はヒロイン麻子のキャラをメインに押しました」

 ふさこ自身、高校までピアノを習っていたとはいえ、初めて音楽作品を描くにあたり、音楽学校やピアノの演奏会にも足しげく通い、専門書はもとよりコンサートのチラシに至るまで、ありとあらゆる資料を必死にかき集めた。

 当時の状況をアシスタントの小塚さんは、

「今ならスマホの動画を止めながら描けばいいのですが、当時はそうもいきません。先生はヘッドホンで1日中クラシックを聴きながら、資料と格闘していました」

 と話す。

 この作品の中でも重要な役割を果たしているのが、演奏会でヒロイン麻子が弾く『ショパンのバラード一番』や『ラフマニノフのピアノ協奏曲二番』。

「特に『ラフマニノフのピアノ協奏曲二番』は映画音楽としても有名ですが、初めて聴いたときの衝撃は忘れられません。音楽をする人は感情がとても豊か。来る日も来る日も、自分の感情を叩きつけるようにしてこの作品を描きました」

 クラシックの名曲に彩られた珠玉の名作『いつもポケットにショパン』は、数々の名場面とともに、今も少女漫画ファンの間で語り継がれる作品となった。

身も心も擦り切れ、スランプに……

『いつもポケットにショパン』を発表した後も、『ハリウッド・ゲーム』(’81年)『いろはにこんぺいと』『東京のカサノバ』(’83年)と、次々にヒット作を生み出すふさこは、いつの間にか『別マ』を代表する漫画家として、読者から熱い支持を集める存在となる。

「『東京のカサノバ』では当時人気のあったカメラマンやバンドマンなど横文字職業の人たちがキラキラ輝いています。

 時代はバブルの階段を駆け上っていく真っただ中。取材を兼ねて、私も漫画家仲間たちとディスコやカフェバーに出かけました。“シティ感覚100%のラブストーリー”と銘打たれたこの作品では夜遊びも仕事のうちでしたね」

 ちなみに、そのころのふさこの仕事のサイクルは、ネームや下絵で1週間、原稿を描くのに1週間、そして、カラーページを仕上げるのに1週間だった。

 連載なら30ページ、読み切りなら50ページの原稿を毎月、仕上げなくてはならない。

「私たちアシスタントは、お昼ごろから夜中の4時ごろで上がらせてもらいましたが、完璧主義者の先生は、その後も寝ないで細かい修正や次回の準備に追われていました。当時の先生は、力のすべてを漫画に注ぐ、まるで鶴の恩返しを見ているようでした」(前出・小塚さん)

 こうした生活が、“売れっ子漫画家”の宿命とはいえ、無理を重ねるうちに、ふさこの心と身体が悲鳴を上げ始める。

「最初に変調を感じたのは、’79年『100Mのスナップ』という陸上競技を題材にしたスポーツ漫画に取り組んでいたとき。

 描き上げた後いつもなら解放感に満ちあふれ、アシスタントさんたちと打ち上げに出かけるのですが、みんなで美味しいものを食べても全然、楽しくないんです。街の本屋で立ち読みをしながら、何が原因なのか悶々と考えていたことを覚えています

 その後、『いつもポケットにショパン』をはじめ心揺さぶる作品を描き続けていくうちに、ふさこの心はさらに蝕まれていった。

「うつの症状が完全に出たのは、『東京のカサノバ』を描いていたときでした。

 ハードなスケジュールに加え、作品に力を注ぎ込みすぎて、もう擦り切れそうでした」

 突然、真夜中に過呼吸に襲われ怖くなり、救急車をふさこ自身が呼んだこともあった。

「当時は、うつ病に関する知識もなく、編集者や友人の誰にも相談することもできず、不安を抱えたまま仕事をしていました。

 その次の『A-Girl』(’84年)では、“あまり重たいものは描けない“と編集者に伝え、情緒不安定と自律神経失調症に苦しみながら描き続けました。よくあの状態で作品を描いたなと思います」

 妹の知子さんは、当時の姉の様子について、

「編集者と食事したり、お酒を飲んでいても、姉の顔が時折、無表情になることがありました。笑うのが本当につらそうでした」

 昼夜逆転の不規則な生活に加えて慢性的な睡眠不足。それでも感情を振り絞って作品作りに心血を注いでいたため、ふさこの精神は限界に達していたのである。

人物の顔はひとりで集中しないと描けないため、アシスタントにも部屋の外に出てもらう

 その後も『海の天辺』(’89年)、『チープスリル』(’90年)とヒット作を描き続けるふさこ。しかし’91年、ついに『チープスリル』の連載を中断せざるをえなくなった。

「手を上に上げることもできずに、気がつくと壁に寄りかかってボォーとしていました。お酒を飲んだり、お風呂に入ったりしてなるべく睡眠をとるように心がけました」

 その苦しみは、『チープスリル』の連載を再開した後も、ふさこを時折、襲った。完全にうつ症状から解放されたのは、’94年に始まる『天然コケッコー』の連載の最中。

 その間、ふさこは不安を抱えたままペンを握り続けたのである。

救世主は田舎の親戚たち!

 新しい漫画を描くたびに、作風や絵のスタイルを変えてきたふさこ。そのたびに賛否両論を呼んできたが、本人は、

「変わることに対して読者は敏感です。私だって好きな作家の新作が始まった途端に全然違う感じになったら、何これって言って離れちゃいますから、とてもよくわかるんです。それでも1回やってしまったことを、もう1回、温め直してやり直すのは、どうしても気が進みません」 

──漫画も一期一会。

 中でも『天然コケッコー』は異色中の異色。連載開始直後、読者からも驚きの声が寄せられた。

「連載する雑誌が『別マ』から『コーラス』に変わったことで、気分も新たにゆっくりいくぞ、と思って連載を始めました」

『天然コケッコー』は、海に近い小さな村・木村に暮らす中学生の右田そよと、東京から来た転校生・大沢広海の恋愛を軸に彼らが中学生から高校生へ成長していく過程を描いた物語。実は、この架空の街・木村は、ふさこの母の故郷・島根県の浜田市である。

『天然コケッコー』の舞台となった島根県浜田市の田園風景

「子どものころから高校生になるくらいまで、毎年夏休みには母の田舎に行っていたんです。東京で忙しい毎日を過ごしながら、妙にあの田舎の夏の雰囲気が忘れられませんでした。それで、長期連載を始めるにあたって、田舎に帰ってみたんです。祖母や近所の人たちに会って挨拶をしているうちに、気持ちがどんどん膨らんできて“ああ、私これ描いていいんだ”って改めて思う瞬間がありました」

 この作品の中には、ふさこの親戚たちもモデルとして登場している。

「作品を描くにあたって、親戚一同が集まり取材に協力してくれました。特に2人の叔父は医師で、蝶(ちょう)を愛好しているので、故郷の絶景ポイントをたくさん写真に撮って送ってくれて、とても助かりました。田舎の方はキャラが濃い。どのキャラを主人公にしても物語が浮かびましたよ」

『天然コケッコー』では親戚が集まって取材に協力してくれた。後列中央がくらもちさん

 自分のルーツでもある父母の生まれ故郷を舞台に血の通った作品を描くことで、ふさこ自身の心と身体にも変化が訪れた。

「決してドラマチックな物語ではありませんが、キャラの濃い人たちの群像劇を1話描き終えるごとに、状態がよくなっていくのがわかりました」

 全編セリフなしで展開する回や全編猫の視点で描かれる回などは“神回“として読者の間では語り継がれている。

 連載は7年にわたった。これはふさこの作品の中で、最も長いもの。’96年には同作で「第20回講談社マンガ賞」を受賞。そして2007年、女優・夏帆主演で映画化されるなど、ふさこにとっては記念すべき作品となった。

 しかし、ふさこの飽くなき挑戦に終わりはなかった。

挑戦的な表現方法で勝負する

 ’05年から連載が始まった『駅から5分』は、架空の街・花染町ですれ違う人々の日常を描いたオムニバス作品。

「『天然コケッコー』はストーリーがあって、その中でキャラをどう動かしていくかでしたが、『駅から5分』では純粋にキャラありき。その性格に合った動きがストーリーとなり、最終的にテーマに触れていく作品です」

 ひとつの街を舞台に複数のキャラクターが同時進行で描かれていく画期的な手法には漫画界からも喝采が上がった。

「『この漫画がすごい! 2009』のオンナ編の第2位にも選ばれ、若い読者ファンを獲得しました。ベストテンに入った他の作品は’90年代以降にデビューした先生方ばかり。

 そこに、’72年デビューの先生が割って入ったのですから、快挙としか言えません」

 そう語るのは、この作品からふさこの担当編集者となった当時『コーラス』編集部の北方早穂子さん。

 しかし、画期的な手法だけに、連載中は苦労の連続だったという。

「最初、『駅から5分』の構想を聞いたとき、緻密に物語を作り上げてから連載を始められたのかと思ったら、かなり行き当たりばったり。そのため『駅から5分 WORLD』といった人物相関図や『花染駅から5分 MAP』を作りながら整理をしました。伏線回収には四苦八苦しましたね」(前出・北方さん)

 さらに連載を始めてわずか3話で病魔が襲う。

「右目の下半分が見えなくなり、頭の中に良性の腫瘍(しゅよう)ができて摘出手術を受けました。ブランクがあくと描けなくなるのではないかという恐怖がありましたね」

 と、ふさこは当時の心境を語る。

最新作に込めた熱いメッセージ

 2010年、『駅から5分』の連載を終わらせていなかったふさこは、ある賭けに出る。

『駅から5分』に登場する圓城陽大というミステリアスなキャラクターを主人公に据えた作品『花に染む』の執筆を開始したのだ。実は、このタイトルには深い意味がある。

「舞台となる街・花染町という名前を考えたとき、その名前が実在するか検索したところ『花に染む』という西行法師の和歌を偶然見つけました」

花に染む心のいかで残りけむ

捨て果ててきと思ふわが身に

「23歳で武士を捨て漂泊の人生を歩んだ西行と、不審火の火事によって両親と兄を失い生まれ育った街を離れる陽大の生き方が重なったとき、私は鳥肌が立ったことを覚えています」

 しかもこの物語にはもうひとつ、ふさこの熱いメッセージが込められていた。

「『花に染む』を直接描きたいと思ったきっかけになったのは偶然、テレビで見た無差別殺人です。“人を殺してみたかった”と告白する犯人の声を聞き、私は愕然(がくぜん)としました。相手が一体どんな人生を生きてきたのか考えもせず殺人を犯すことへの怒りがこの物語を描かせたといっても過言ではありません」

 そして、その思いが2016年『花に染む』が完結したすぐ後、『駅から5分last episode』として実を結ぶ。

「この2作を書き終えると精も根も尽き果てたと言って先生はいったんペンをおかれました。でも、先生は感情を揺さぶられるような出来事が起きると、描かずにはいられません。

 去年、『花に染む』で第21回手塚治虫文化賞も受賞され喜びもひとしお。再び泉が満ちるのを静かに待ちたいと思います」(前出・北方さん)

昨年、第21回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した『花に染む』の原画。くらもちさん自身も弓道場に通って腕を磨いた 撮影/近藤陽介

 漫画家として、もっとも重みのある賞を受賞したふさこ自身も次回作へ思いを馳(は)せる。

「例えば、外国を舞台にした物語やSFなど1回、頭を真っ白にして、それは無理でしょ、といったものをやってみたい。まだ筆を折るつもりはありませんよ」

 漫画を描き続けてもうすぐ半世紀。ふさこの心に宿る漫画魂は、今も消えずに燃え続けている。何があっても、すべてあのときのときめきから始まっていることを、忘れるものか……。

(取材・文/島右近)

しま・うこん◎放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓。神奈川県葉山町在住。