軍艦島伝道師、音楽家の黒沢永紀

 猛暑の夏。稜線に入道雲が湧き立つ湾内は、すでに蝉時雨(せみしぐれ)に包まれていた。

 2018年7月21日。

 世界遺産の軍艦島と九州最後の炭鉱・池島を1日で巡る『池島散策&軍艦島周遊ワンデイツアー』の船が、長崎港を出航した。世界遺産・長崎造船所を右に見て湾内を抜け、五島灘を滑るように疾(はし)る。

 船内で揺られること30分。

「軍艦島」の異名をとる端(は)島が、真っ青な空の下にそそり立つように姿を現した。

世界遺産の軍艦島

「最初に私が訪れたころは、“こんなゴミの島が世界遺産になるはずがない”という声もありましたが、軍艦島に何度も足を運び、当時暮らしていた人たちから話を聞くうちに、単なる瓦礫(がれき)の島だった軍艦島が輝き始めました」

 ガイドを務める“軍艦島の伝道師”黒沢永紀(ひさき)(57)は、マイクを持ってツアー客に語りかけた。これまでに80回以上、軍艦島に足を運んでいるという。

 見る角度によっては有名なフランスの小島『モン・サン・ミッシェル』やサンフランシスコ沖の『アルカトラズ』にも似ていると言われるこの島の大きさは約0.06平方キロメートル。東京・新宿駅ほどの大きさにすぎない。

 しかし1890年(明治23年)、海底に眠る国内最良の石炭に目をつけた三菱が本格的な操業に着手するやいなやこの島はガ然、活気づいた。

──兵(つわもの)どもが夢の跡

 かつて、石炭は“黒いダイヤ”と呼ばれ、日本経済を支えた重要な資源。三菱が隆盛を極めた昭和30年代には、5000人あまりが島で暮らし、当時の東京の9倍に達する世界一の人口密度を誇った。

「狭い土地の中で最優先は鉱場。限られたスペースで生活をするためには知恵と工夫が求められました。だからこの島に、日本初の鉄筋コンクリートの高層住宅(30号棟)ができた。国内初の海底水道や国内初の特殊な上陸桟橋も造られています」

高層住宅群は船の周遊でしか見られないスポット。廃墟の威容が間近で感じられる

 船内の画面に映し出される手作りの資料に、何度も“国内初”の文字が躍る。

 やがて林立する炭鉱アパート群が目前に迫ると、再びマイクを握った。

「あれが戦中に建った島内最大の建物、65号棟。9階建ての建物の屋上には保育園がありました。エレベーターのない9階に保育園はちょっとひどいと思うかもしれませんが、階下の日照条件の悪さを見ると、納得していただけるはずです。

 奇妙なのは、中庭から屋上に続く階段の先に屋根がないこと。むき出しで、雨が降ると階段を伝って水浸し! 前例がないから、作り方がよくわかっていないんですね」

 黒沢がそう語りかけると、ツアー客から笑い声が漏れる。

 参加したのは30数名。長崎近県だけでなく、関東や関西からのお客さんも多く、女性同士の参加者も目立つ。

 やがて船は軍艦島のまわりをゆっくりと周遊。建設当時国内最高層を誇り、国内初の屋上農園があったことでも知られる「日給住宅」、そして大正5年に国内で初めて建てられた鉄筋集合住宅「30号棟」が見えてくる。

軍艦島は、日本の鉄筋集合住宅史上に燦然(さんぜん)と輝く逸品ぞろい。まさに“早すぎた未来都市”なんです。軍艦島では、電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビといった“三種の神器”も国内で最も早く普及したと言われています。炭鉱マンは命がけの仕事。それだけ給与もよかったんですね」

 黒沢は、島に生きた人たちに想いを馳(は)せ、この地から始まった歴史に胸を張る。

「つまりこの島は、明治の創業以来、エネルギーの主力が石炭から石油にかわる昭和49年の閉山まで続いた文明開化、2つの世界大戦、そして戦後の復興を見届けた日本近現代史の生き証人でもある」

 話を聞き終え、デッキの上でカメラのシャッター音を響かせていたツアー客に、参加の理由を聞いてみた。

「黒沢さんの本やDVDを見て、このツアーにぜひ参加したいと思い、東京から来ました」(30代・女性)

「単なる廃墟(はいきょ)ではない魅力を、この島には感じます」(40代・男性)

「黒沢さんの話を聞いていると、当時この島にいた人たちの暮らしぶりが生き生きと甦(よみがえ)ってくるようで、ドキドキします」(40代・女性)

 今では“軍艦島の伝道師”と呼ばれる黒沢について、パートナーの彦根延代さんは、

「軍艦島との出会いが、彼の人生を大きく変えました。興味のあることには貪欲(どんよく)。羨(うらや)ましいですね」

ツアーのオリジナルTシャツや缶バッジを身に着け、ガイドを行う黒沢さん

 しかし反面、のめり込みすぎて困っていることもある。

「軍艦島に行って興奮のあまり、記念に2人で買った指輪を落として帰ってきたこともありました(笑)。あと、家の中に軍艦島グッズが増えすぎて置き場に困っています」

 黒沢自身、

「軍艦島と出会って16年。これほど深くこの島に関わることになるとは、当時思いもしませんでした」

 と話すが、そもそも長崎出身ではない立場でなぜ、ここまで軍艦島に魅せられたのか。

◇ ◇ ◇

 初めて軍艦島を訪れたのは、平成14年4月のこと。

「あの日、長崎県の沿岸部には春の嵐が迫っていました。雨風が強まる中ひとりで船をチャーターして軍艦島に渡った知人の炭鉱写真家を追って、僕たちは船に乗り込みました。長年、炭鉱の写真を撮り続けてきた方でしたが、このときはあまりに無謀でした」

 ともに軍艦島に渡った映像作家の大西悟さんは、

「お世話になっていた船会社の方が安否を気遣い、共通の知人である僕に連絡をくれたんです。“心配だから、見に行ってほしい”と。それで黒沢さんを誘ったんですが、危険も顧みず二つ返事で“行きます”って言う。なんてフットワークの軽い人なんだと驚いたことを覚えています」

 桟橋を離れ白波の立つ五島灘を進むと、黒雲の下にそそり立つ「軍艦島」が現れた。

 第一次世界大戦中、未完のまま廃船となった幻の軍艦『土佐』に似ていたことから名づけられた無人島。

 横殴りの雨の中、揺れのひどい船から、黒沢は船着き場に飛び移った。

 軍艦島の廃校にテントを張って雨風を凌(しの)いでいた写真家と無事に再会した黒沢たちは酒を酌み交わし、島で夜を明かした。

 雨の上がった夜空を、黒雲が激しく流れる。

「カコーン カコーン」

 時折、朽ち果てつつある建物の一部が落下し、まるで夜泣きするような声をあげる、不思議な夜──。

 しかし黒沢にとってこの一夜は、単に出会いのきっかけにすぎなかった。

「なんだか爆撃を受けた炭鉱の跡地のようでね。正直、このときはまだ軍艦島に特別な感情を抱いてなかったんです」

元島民100人の心を動かして

 翌年、軍艦島での不思議な体験をモチーフに大西さんが監督・撮影を務め、黒沢が音楽監督を手がけたイメージDVD『廃墟賛歌 軍艦島01』を自主制作。わずか15分足らずの映像ではあったが、手応えを十分、感じていた。

「デザインフェスタに出品したところ、見に来た女性たちから“ここはどこですか?”“日本ですか?”と聞かれるので、廃墟だと説明すると“ここに住んでみたい”と言う声もあがり、軍艦島の魅力を再認識しました」

 しかも、この作品を見た日活から声がかかり、軍艦島を題材とした本格的なDVDのリリースが決まったのである。

 しかし喜んだのもつかの間思わぬ困難が待ち受けていた。

「軍艦島について国会図書館で本格的に調べてみても、資料は『高島炭鉱史』『三菱鉱業社史』『軍艦島実測調査資料集』、この3冊しかない。これには愕然(がくぜん)としました」

 黒沢は、大西さんたちと何度も軍艦島を訪れ、地図もない中で炭鉱アパート群や商店街、街の施設などカタチの残るものを撮影した。

「実際に歩き回ってみると、ここには何があったのかな、と考古学的な疑問が湧いた。それをひとつずつ解明していくうちに、島のイメージが立体的に立ち上がり、この島を造り上げた人々の力強いパワーが眠っている場所だと気がつきました。すると、瓦礫の山だと思っていた廃墟の島・軍艦島が僕のなかで輝き始めたんです」

 それだけではない。

 軍艦島に暮らした三菱の職員、炭鉱マン、商売していた人たちなど100人以上に会い、当時の暮らしぶりに耳を傾けた。

「元島民とお酒を酌み交わすうち、島で生きてきた人たちの息遣いがはっきりと聞こえるようになりました」

 昼夜を問わず炭鉱マンが働く眠らない島には、パチンコ屋や映画館、さらに料亭や遊廓まであったことを知り、そのころの人々の営みが黒沢には愛(いと)おしく思えた。

 軍艦島では名の知れた『厚生食堂』で生まれ育ち、現在長崎市内で『タイチ寿司』を切り盛りする木本太市さんのもとには、今でも頻繁に通ってくるという。

「私が軍艦島の同窓会の世話役をしているので、長崎に来ると必ず寄ってくれます。店ではよく軍艦島出身者と島の話をつまみに焼酎を飲んでいました。ここの者はお酒を飲まない人間は相手にしませんから。酒が強かったことも絆(きずな)を深めるきっかけになったのでは?(笑)」

『タイチ寿司』を営む木本さんのお店には軍艦島の絵が飾られ、かつて使用していた器も大事に保管されている

 現在、軍艦島コンシェルジュと『軍艦島デジタルミュージアム』のプロデューサーを務める久遠裕子さんは、その人たらしぶりを絶賛する。

「黒沢さんは誰からも嫌われず、誠意ある対応をしていたので、最初は頑(かたく)なだった島の人たちも心を開いて話をしてくれるようになったのでしょうね」

 軍艦島の魅力にすっかり惹かれた黒沢は、日活からリリースされたDVDのほかにも『軍艦島全景』(2008)、炭鉱の視点から物語風にまとめた『軍艦島入門』(2013)、新書『奇跡の世界遺産 軍艦島』(2015)など関連書籍も数多く取材執筆している。

『軍艦島全景』の編集を担当した『ワンダーJAPAN』編集長・関口勇さんは、こう話す。

「資料が少なかった軍艦島を自分自身の足で取材していった苦労は並大抵ではありませんでした。目先の利益にとらわれず、面白いと思ったものにトコトンのめり込むのが黒沢さん。今後もその“嗅覚(きゅうかく)”のままに突き進んでほしいですね」

ワンダーJAPAN TV『軍艦島スペシャル』ロケ風景

 閉山後、わずか半年でゴーストタウンと化した軍艦島だが、平成20年に「長崎市端島見学施設条例」が成立。翌年、観光客も上陸・見学ができるようになる。

 そして平成27年。軍艦島は「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして世界遺産となり上陸者数も100万人を突破。瓦礫の島が一躍、観光の島として脚光を浴び始める。

 何もないところから、その歴史に目を向け、軍艦島のバイブルを作ってきた黒沢にも称賛の声が寄せられた。

卒業文集に「廃墟」を描いた少年時代

「ほかの人がやっていないことに魅力を感じる」と朗らかに笑う黒沢。小学校の卒業文集では、モーリス・ルブランの推理小説、アルセーヌ・ルパンシリーズに出てくる『奇巌城』を模した「廃墟」の絵を描いて、周りを驚かせた。

 そんな黒沢に強い影響を与えたと思われる人物がいる。

 生まれ故郷、茨城県でともに暮らした父方の祖父・喜三郎(きさぶろう)(※喜は七が上に1つ、下に2つ並ぶ)である。

「離れの古い納屋を改装して住んでいた祖父は、いつもステテコ姿に襦袢(じゅばん)を羽織っていました。地方紙の新聞記者だったので、部屋にはいつも本が山積み。その部屋を探検するのがとても楽しみでした。マニアックなものに惹かれる私の性格は祖父譲りかもしれませんね」

 東京都中野の公立中学に入学して、真っ先に飛びついたのは歴史の授業だった。特に縄文時代に惹かれた黒沢は、分厚い本を片手に博物館に通い、友人を誘っては近県の貝塚にも足を運んだ。

「千葉にある日本最大級の縄文貝塚、加曽利貝塚や両親の故郷・茨城の龍ヶ崎貝塚まで足を延ばしたこともありました。野ざらしになったままの貝塚に雨が降ると、道端に土器の破片が現れ、うれしくて夢中で拾い集めたこともありました」

 土器の欠片(かけら)を見ながら、今はなき世界に想像をめぐらせる。そんな妄想少年が初めて廃墟らしきものに足を踏み入れたのも中学生のころだった。

「中野区にあった旧野方給水塔は、使われなくなってからしばらくそのまま放置されていました。美しいフォルムに誘われて、錆(さ)びた入り口の扉を押して中に入り、いつ落ちてもおかしくない階段を1段ずつ確かめながら上った。夢中でシャッターを切りましたね。アーチの窓から差し込む、神々しい光に包まれた水槽を見たときの感動は忘れられません」

 こうした街角遺産も心惹かれるテーマのひとつ。軍艦島へと続く“廃墟への憧れ”は、このころすでに芽生えていたに違いない。しかし、地元の公立豊多摩高校に進学すると、生活は一変する。

「学校に背を向け、気に入らない授業はすべてボイコット。そのツケがまわって高校2年の3学期末、担任に呼び出されて“留年”と宣告されました。さすがに落第はカッコ悪い。もし2年でやめるなら単位は取ったことにしてやると言われ、通信制の高校に行く道を選びました」

 家に帰り、「高校を中退する」と告げるわが子を見たときの親の落胆ぶりを見て、初めて事の重大さを知った。しかし、この選択が希望を失いかけた未来に光を投げかけることとなる。

高校生で音楽誌の編集部を直撃!

 通信制高校の3年に編入した後は、嫌な高校に行かなくてすむ解放感に満ちあふれていた。そんな黒沢の心を虜にしたのが、音楽の世界だ。

「時代は’70年代末期。ポストパンクとしてアートスクールに通う生徒がアート的なノリで音楽をやるニューウエーブが台頭して、毎日ワクワクしながらラジオの音楽番組にかじりついていました」

 そんなニューウエーブの音楽を中心に紹介していた雑誌『ロックマガジン』の新宿区千駄ヶ谷にある編集部を訪ねたのもこのころだった。

「アポも取らずに編集部に遊びに行っても嫌がらずに相手をしてくれ当時、村上春樹さんが経営していたジャズ喫茶『ピーターキャット』でニューウエーブ系のアーティストがどういったアプローチで音楽作りをしているのか興味深い話を教えてもらいました」

 忙しい編集部を訪ね、逆取材してしまう高校生がどこにいるのか。興味を持ったことにはトコトンのめり込む才能は、すでに片鱗(へんりん)を見せ始めていたのかもしれない。

 しかも、

「話を聞いているうちに、今まで楽器を演奏したことのない自分でも、こういった音楽なら作れるのではないかと思うようになりました」

 と話す。

 1980年、新たな夢を胸に黒沢は通信制高校を卒業。1年浪人の末、早稲田大学文学部に合格した。

「大学に行けと言われたことはなかったのですが、高校中退で悲しませた両親の喜ぶ顔を見てホッとしました」

 反抗期にも親との絆は大切にしてきた黒沢。同級生より2年遅れて大学に入学すると、音楽活動に本腰を入れるために時給の高い百貨店の発送や営業のテレホンアポイントのアルバイトを始める。

 そのアルバイト先で知り合ったのが、後に音楽活動のパートナーとなる小川弘さんである。

「彼はブラックミュージックに興味があって、お互い楽器を使わずに音楽を作ろうと考えていた点でも話が合いました」

 黒沢の4つ下、当時20歳になったばかりの小川さんは、当時を振り返ってこう語る。

「初めて飲みに行き、お酒を飲まされ1杯でダウンした僕に“鍛え方が足りない”と説教。本人はガブガブ飲んでおきながら、きっちりワリカンにされたのをよく覚えています(笑)」

 2人は江東区の木場に6畳ひと間のアパートを5万円で借りると、そこにアルバイトで貯めたお金で買った機材を運び込み、作曲の勉強を始めた。

「2人とも最初は楽譜も読めなければ、コードも弾けない。今から思えば無謀といわざるをえません。とりあえず、“10年やって形にならなかったらやめよう”と申し合わせて始めました」(黒沢)

廃墟魂で閃きプロの壁を突破

 音楽活動とアルバイトに明け暮れた黒沢は、大学を6年かけて卒業するも、肝心な音楽活動では大きな壁にブチ当たっていた。

「基本的な技術をマスターすると、僕たちは本格的に音作りに取り組んでいました。2人がこだわっていたのは、ブラックミュージックの“グルーヴ感”。しかし、どうあがいてもファンクの帝王ジェームス・ブラウンやプリンスのような“グルーヴ感”が出せません」

音楽三昧でDJをしていたころ

 2人でプロの音楽家を目指して5年。これが「プロの壁」というものなのか。

 しかし「プロの壁」を突破するヒントは、思わぬところから見つかった。

「音作りと格闘する日々に飽きた僕は、ある日、ふらりとカメラを持って当時両親と住んでいた千葉県市川市の家から自転車で目的もなく江戸川沿いを走って海に向かいました」

 東京湾まで出ると、左手には京葉工業地帯。ふと見ると、その手前に古くなった廃工場が朽ち果て佇(たたず)んでいたのである。

「海を背にして佇む廃工場のうらさびれた光景がなんともいえず、僕は夢中でシャッターを切っていました」

 黒沢の中で、しばらく忘れていた“廃墟魂”がムクムクと甦るのがわかった。

「現像した写真をちゃぶ台の上に置いてしばらく眺めていると、僕の中で閃(ひらめ)くものがありました」

 積み重ねられた廃工場の写真を断片的に切り取り、コラージュしてみた黒沢の中で、その閃きは確信に変わる。

──こんな音楽を作ってみたい!

 2人はさっそく“切り貼り音楽”を10曲ほど作ると、デモテープを十数人の知人らにバラまいた。

「すると老舗書店、有隣堂のランドマーク店オープンに使うCM音楽の制作、創作モダンバレエ団への楽曲提供の仕事が舞い込んできました」

 さらに、そのデモテープを聴いた広告代理店から専属契約を結ぶ話がくるなど、黒沢は30歳を前に音楽シーンで活躍するチャンスを手に入れたのである。

NHKやドラマの音楽を手がける

 スタジオも用意してくれた広告代理店と契約を結んだ2人は、ドキュメンタリー番組『法隆寺』(1994年)をきっかけにNHKにも進出していく。

 相棒の小川さんは、このときの黒沢に舌を巻いた。

「NHKの方と初めて食事をする機会があり、その席でプロデューサーの口から来月『法隆寺』の番組があることを知った黒沢さんは翌朝、新幹線に飛び乗り法隆寺へ。曲想を練り、2週間後にはデモテープを作り採用が決まりました。

 この早業。チャンスがきたら絶対逃さない。彼には何度も助けられましたね」

 2人で約束していた10年がたつころには、音楽の仕事も忙しくなり、寝る暇もないほどになっていた。

 独立すると稲垣吾郎主演の『陰陽師』や仲間由紀恵主演の『テンペスト』といったドラマの世界でも音楽を手がけるように。

 西暦2000年を前に、ウインドウズ98が普及するころ、ネットで動画を配信する時代がすぐそこまでやってきていた。再びめぐってきたチャンスを目の前にして、

──何か僕にしかできない題材があるはずだ。

 そんな思いでネットサーフィンをしていると、ある日、心揺さぶる2文字が目に飛び込んできた。

調べ物をしていて偶然『廃墟』の2文字を見つけたとき、僕は心がザワつきました。今では何十万件とヒットする廃墟も、当時は数ページしか出てこない。とても驚いたことを覚えています」

──しかし、待てよ。

 発想を切り替えた黒沢は、当時の心境をこう語る。

「音楽のときも僕は当時、決して主流ではなかったコンピューターミュージックに惹かれて、結果的に活路を見いだしました。まだあまり注目されていない『廃墟』にこそ、宝物が眠っているのではないか」

 思い返せば、小学校の卒業文集に「廃墟」の絵を描き、中学時代は古い給水塔に潜入、さらに音楽を始めて壁にぶち当たったときも、「廃墟」に救われている。「廃墟」こそ、わが人生の道標(みちしるべ)ではないのか。

 そんな思いにかられた矢先、長崎県の五島灘に浮かぶ廃墟の島・軍艦島へ行かないかという誘いが舞い込んできたのである。

軍艦島&池島ツアーを子どもたちへ

 平成27年、軍艦島が世界遺産になっても、黒沢は決して満足してはいなかった。

「軍艦島が世界遺産になったことで、保護の観点から立ち入りがさらに厳しくなる。また炭鉱遺産といいながら、すでに炭鉱施設はすべて撤去されています」

 そこで目をつけたのが、長崎港から船で45分ほどの所にある「究極の炭鉱都市」池島である。

「池島は、昭和34年に出炭を始めて、平成13年まで操業した九州最後の炭鉱。つまり、軍艦島と池島の2島で、近代炭鉱の発祥から終焉(しゅうえん)までを見届けることができる。しかも、実際の機関車に乗ってリアルな坑道を見学できるのは国内で唯一ここだけです」

 黒沢は今年から軍艦島と池島の魅力を巡る『軍艦島&池島ワンデイツアー』を考案し、スタートさせた。

◇ ◇ ◇

 軍艦島の周遊を終えたツアーの船は、およそ1時間かけて池島に上陸した。

 9割の建物が廃墟と化し、「15年後の軍艦島」とも言われているが、今なお100人ほどの島民が暮らす。

 港に入ると、巨大な重機にまず目を奪われる。

重機の説明を聞きながら、「カッコいい~~」と声をあげ、夢中でカメラのシャッターを切る女性ツアー客も

「あの巨大な恐竜のような姿をした重機は石炭を石炭運搬船に運ぶジブローダー。5000トンの運搬船を満載にするには、およそ10時間かかりました」

 そのほかにも、数々の巨大な重機が息を潜める池島港はまるで太古の昔を思わせるジュラシックパークのようだ。

 船を降りると公園では可愛いヤギがお出迎え。炭鉱進出以前からの島民が暮らす郷地区を抜け、池島炭鉱が栄えたころは不夜城と化していた歓楽街の坂を上る。操業時は小さなスナックや小料理屋、パチンコ屋が軒を連ねた場所。

 黒沢は、近年まで営業していたスナック『マキ』の前に立つと、懐かしそうに話し始めた。

「閉山した後も時折、店を開け、営業を続けてきました。マホガニーで統一されワインレッド一色の店内は、昭和まっしぐら。『昭和のタイムカプセル』と呼ぶにふさわしいお店でした」

 歓楽街の坂を上りきったところで、島唯一の宿泊所、池島中央会館が見えてくる。

「池島は商店街や炭鉱街を自由に散策できるのが魅力のひとつ。中でも約80棟が密集する炭鉱アパート群は必見です。最盛期には8000人弱が暮らしていた島で、まだ現役と見間違えるような外観のアパートもたくさんあります。炭鉱の工場からアパート群まで、炭鉱街のすべてが残る、まさにリアルな炭鉱テーマパークといえるのが、池島なんです」

各アパートの間取りや炭鉱職員の階級別に異なる家賃まで詳しくガイドする黒沢さん。炭鉱マンとその家族の暮らしが浮かび上がる

 さらに島で唯一、信号のある池島小中学校前を抜けるとある建物の前で足を止めた。

「ここは池島総合食料品小売センター。かつて建物の中をぐるりと囲むように軒を連ねた店舗と、中央のスペースには行商のおばちゃんたちが売りにくる野菜棚が並んで“市場”と呼ばれ、連日賑(にぎ)わいを見せていました」

 と、8000人の胃袋を支えた台所に想いを馳せた。

 黒沢には、このツアーを通して叶(かな)えたい夢がある。

「明治以降150年にわたって日本経済を左右し、ときに翻弄(ほんろう)されてきた軍艦島と池島の歴史こそ、日本の縮図。その歴史を、修学旅行を通じて子どもたちに伝えていきたいですね」

 今夏には、黒沢の発案で新たなプロジェクトも始まった。音楽家、写真家、画家といったアーティストを軍艦島に呼び、作品を作ってもらうというのだ。

 ツアーを終えた黒沢に、改めて軍艦島伝道師になった理由を尋ねてみた。

「今思うと、昔から僕が興味を持つのはほかの人がやっていないことばかりだった。もしかすると、軍艦島に惹かれるのは、規模が小さいながら数々の国内初の挑戦をし、成し遂げてきた姿に共感するからかもしれません」

(取材・文/島右近 撮影/渡邉智裕)