五輪開催まで2年を切った東京でホームレスを訪ね歩くと、その簡素な暮らしぶりや知られざる現況に触れることができる。今回、紹介するのは隅田川沿いから皇居外苑、東京駅まで。欧米系女性ホームレスは夜の恐怖を語った。
(文/フリーライター山嵜信明と週刊女性取材班)
隅田川を挟んで墨田区側に7つのテントが並ぶ

 山谷で取材中、商店の女性店主が、

「ホームレスのテントは隅田川のほとりにありますよ。6年前に開業したスカイツリーの展望台から見えるから、台東区側のテントは1つになってしまったけれど、足下の墨田区側は見えないので、まだいくつか残っていますよ」

 と教えてくれた。

 山谷から徒歩20分ほどで台東区と墨田区をつなぐ言問橋に到着。隅田川を挟んで、台東区立隅田公園と墨田区立隅田公園がある。桜のシーズンは大勢の花見客で賑わう都内有数の名所だが、10数年前には無数のテントが存在した。

 ところが、台東区側にはひとつもテントが見当たらない。隅田川のほとりの遊歩道を歩くと、ポツンとブルーシートのテントが見えてきた。ここに永山和夫さん(75・仮名)が住んでいた。

「夏の花火大会やお花見シーズン、早慶レガッタのときなど人が集まる時期は“しばらく移動して”と行政から言われるので、そのときだけはテントをたたんで別の場所で寝ています。でも、それ以外はずっとここ。スカイツリーができるときは公園やここでテントを張っていた仲間がずいぶん出ていったけれど、オレは28年前から住んでいるから、しかたなく黙認されているんだろうね」と永山さん。

「2年後もいまのままですよ」

 1週間に1日は職安の仕事で働くほか、空き缶回収もやっているという。

 永山さんは5人きょうだいの三男として青森県で生まれ、中学卒業後、“金の卵”として集団就職。20歳になってすぐ結婚したが、性格の不一致などから、ほどなく離婚。配偶者の身体が弱かったため、子どもはいなかった。

隅田川のほとりで暮らす永山さん(仮名)。川の向こうにはスカイツリーがそびえている

ずっと勤めていたメリヤス関係の会社が倒産したのをきっかけにホームレスになりました。友人もホームレスをやっていたし。生活保護を受けるようすすめられて相談に行ったことが1度だけあるけれど、そのときは犬1匹と猫3匹を飼っていたので、“ペットはダメ”って言われてあきらめたのよ。だって、捨てるわけにはいかないから」(永山さん)

 きょうだいとはほとんど連絡をとっておらず、兄と姉はすでに他界しているという。

 五輪をどう迎えるのか。

「2年後もいまのままですよ。でも、いま血圧が高くて薬を飲んでいてね。身体が動かなくなって、働けなくなったら、やっぱり生活保護かな。そんな先のことよりも、飼っていた猫が最近、いなくなってさ。探しているんだけど……」

 と、永山さんはあくまでいまをどう生きるかに執着していた。

 今度は言問橋を渡って、墨田区側の遊歩道へ。川に沿ってテントが7つあった。住人で千葉県出身の野平健さん(70・仮名)がこう説明する。

20年前からここにいますよ。月に1度ほど国か都か区の職員が来るけど、“テントを撤去しろ”とは言われないね。ただ、新しい人が来てテントを張ると、翌日に撤去されちゃうけれど」

 野平さんは20代前半で結婚し、約2年で離婚。子どもはいない。かつては鉄鋼関係で働いたが、バブル崩壊とともに倒産して、この生活に。

生活保護は決まりごとがうるさいから嫌だね。空き缶集めの生活のほうが勝手気ままでいい。楽しみはたまにやる競馬。やっても1000円だけど、スポーツ新聞を買って予想すると1日中、楽しめる」

 2年後もこの生活を続けていたいと強調した。

栄養失調で片目はほとんど見えない

 近くの墨田区立隅田公園にはテントはない。しかし、ホームレスらしき男性が約20~30人おり、ベンチなどで過ごしていた。岩手県生まれの平賀誠一さん(79・仮名)は30年前から周辺で生活している。

「町工場でずっと溶接関係をやっていたけれど、急に仕事が減って、給料も安くなったのよ。それで知り合いがこのへんでホームレスをやっていたから、自分も会社を辞めてそうなった」(平賀さん)

 私生活では、19歳のとき、近所の世話好きなおばさんに強引に結婚させられたが、夫婦仲は悪く、20代後半であえなく離婚。子どもは一姫二太郎だったが、2人が小学生のときに妻が引き取った。

「元妻と息子は10年前に死んじゃったよ。娘にはとっくに子どもがいるが、彼女は昔から自分には懐いていなかったから連絡はとっていない」

 平賀さんの生活は月約8万円の厚生年金によって支えられている。日中は3、4か所の公園を巡り、1日に3合の酒を少しずつ飲みながら、ドン・キホーテで買った32円のおにぎりを1個だけ食べる毎日だ。

 夜は公園の外側の遊歩道で寝る。雨天時はスカイツリーの近くの地下街で。

「こんな生活をしているから、病院の検査で栄養失調だと言われた。目もかなり悪くて、片目はほとんど見えない。生活保護は受けたくない。こっちには自由があるからね」

スカイツリーができるとき、隅田川のほとりや公園にテントを張っていたホームレスの多くがこの場を離れていった

 しかし、状況はだんだん厳しくなってきた感じがするという。

「スカイツリーが完成する少し前からテントは禁止になったし、居づらくなってきた。五輪のときは海外の観光客も押し寄せるだろうから、一種の“目隠し”で追い出されるんじゃないかと心配だよね」

 そんな平賀さんは2年後、どうするつもりなのか。

「沖縄で暮らしていたいね。温暖で、食べ物もうまいみたいだから」

 と目を輝かせていた。

朝5時に起床して食事後はゴミ拾い

 スカイツリーに背を向け、五輪開催時に観戦客や買い物客でごった返しそうなスポットへ。JR東京駅丸の内口から少し歩くと、環境省皇居外苑が広がる。

「5年前はここに30人ほどホームレスがいましたが、いまは10数人ぐらい。ただ、テントは禁止だし、夜は公園には入れないので、日中、芝生やベンチで休むことしかできませんけどね」

 と公園関係者が事情を説明する。

 この公園の木陰で芝生の上に横たわっていたのが、山上浩さん(69・仮名)だった。

「長野県生まれで、中卒で主にガテン系の仕事をしていたんだけれど、15年前からプータローですよ。他人ならまだしも兄、姉、弟からこき使われ、金もふんだくられ、裏切られた結果、何もかも嫌になってしまった。人を信じられなくなったことが原因です

 と山上さんは振り返る。縁がなかったため、ずっと独身という。

観光客の目立つ皇居外苑で、山上さん(仮名)は芝生に寝そべったり、運動不足解消をかねてゴミ拾いをする

「寝泊まりは近くの都立日比谷公園の屋根があるところ。朝5時に起きて、水道で顔を洗い、髭と髪を剃って、食事。それからこの皇居外苑へやってきて1~2時間はゴミ拾い。40代でエコノミー症候群になったから運動のためにね」

 途中で食事を挟み、芝生で横になって夕方までいる。

「睡眠不足だし、金がないからやることもないのでね。何がつらいって、やっぱり夏の暑さですよ。寒いのは着ればいいけど、暑いのはこれ以上脱げないから

 と山上さんは素肌を指さして笑う。涼める図書館などへは行かない。じっとしていると眠くなり、眠ると職員から注意されるから。

「夕方は再び日比谷公園へ移動して、夜10時まで食事などをしながらやり過ごす。そこから“餌取り”を深夜1時まで約3時間。翌日分の食料集めをね。独自の情報だから教えられないけれど、顔見知りの弁当屋さんを訪ねたり、店の残飯をもらったり」

 その結果、睡眠時間はわずか4時間となってしまう。日比谷公園や築地などで炊き出しがある日の前日は、少しだけ楽だという。

ただリーマン・ショック、東日本大震災を経て、どんどん残飯は出なくなってきましたね。飲食店は残飯が出ないように、どんどん切り詰めていることは確かですよ。皇居外苑は誰かに襲われても警察がすぐに駆けつけてくるところで安全だし、日陰も芝生もあって横になれるし、トイレも水道もあって便利だけれど、食料の確保だけがたいへん」

 仕事をしようとは思わないのだろうか。

仕事しないで生活できるから、ホームレスになったのよ。もう人間関係も嫌だし。自分はほかのホームレスとも話をしないし、情報交換もしない。それでも寂しくは感じない。人の世話になる生活保護は元来、好きではないし、なんだかんだで人と関わることになるから」

 ところが、そんな人間嫌いの山上さんでも、「感謝することがある」という。

「ときどき、知らないおばさんなどが、弁当や3000円ほどをくれることがあるのよ。今年1月にも若い女性に“ティッシュいりますか?”と声をかけられた。もらったら、裏に1万円札が入っていてね。そんな優しい人もいる。ありがたいですね」

 そんなときは、石けんやカミソリ、歯磨き粉、ラジオの電池などを調達する。山上さんに2年後を聞いた。

「ほんのたまに競馬、競輪をやるので、一発、大きく当てて、それを頭金にしてアパートでも借りていたらいいなと。それが夢かなぁ。けれども最近、日比谷公園で公園職員か区役所の職員かわからないですが、直接的な言葉ではないにしても“出て行け”と言わんばかりの態度であしらわれたり、掃除係から小言を言われたり、やはり五輪が近いからなのかと思うことがしばしばありますね」と話した。

女性ひとりなので、ここは物騒で怖い

 東京駅の反対側の八重洲口へ足を延ばす。駅前に巨大なバスターミナルがあり、その近辺で時間を費やすホームレスがいる。酔客が帰途につく午後11時ごろ、駅前のベンチに座っていたのがマリア・ブラウンさん(69・仮名)だった。米国人の父親とドイツ人の母親を持ち、欧州で生まれたが、鹿児島県の徳之島で育った。独身を貫き、両親もすでに亡くなっているため、いまは天涯孤独だという。

「服飾のデザイナーをやっていて、東京都八王子市に住んでいましたが、仕事がなくなってきてね。それで昔、住んでいた徳之島に行こうと思って、八王子を引き払って東京駅まで出てきたのですが、お金が足りなくなって……。ここでこうして4か月が過ぎてしまったの。どこかの会社にデザインを売って、お金をつくらなければ」

 とブラウンさんは流暢な日本語で話しながら、紙に描きためた服のデザインを見せた。

 女性の身で、どうやって生活しているのか。

「氷結(酎ハイ)とパンを友人にもらって食べています。年金が月に8万円なので、それで生活していますが、夜はこうして野宿。横になって寝ていると、知らない人に声をかけられたり、駅の係の人に起こされたりするので、横にならずにイスに座ったまま寝ているの。それでも女性ひとりなので、ここはやはり物騒で怖い」(ブラウンさん)

 2012年1月、この八重洲口近くのビル壁面のくぼみで寝ていた別の女性ホームレス(当時69)が18歳の少年に火をつけられ、大ヤケドを負う事件が起きている。少年は「慌てる反応を見るのが楽しかった」と話した。女性ホームレスは珍しいため、周囲の男性ホームレスは目で追うなど気にかけていたという。悪さをしたのは、一見、“普通の顔”をした少年だった。

 都内の福祉関係者は言う。

「まじめそうなサラリーマンでも、酔っぱらってツバをかけたり、平気で物を投げつけたりする。加えて女性ホームレスには、夜間に性的いたずらをされる恐怖がある」

 八重洲口一帯には巨大な地下街が広がっている。地上からの出入り口は多く、深夜1時が近づくと、そこにはシャッターが下りる。地上から下りた階段の先と、シャッターの間に、雨露を防げる格好の空間ができあがる。

 皇居外苑や日比谷公園に昼間いたホームレスがそこに移動してきて一夜を明かす場所と化す。東京駅近くでは1つの出入り口に1人ずつ6人ほどが眠りについていた。


やまさき・のぶあき◎1959年、佐賀県生まれ。大学卒業後、業界新聞社、編集プロダクションなどを経て、'94年からフリーライター。事件・事故取材を中心にスポーツ、芸能、動物などさまざまな分野で執筆している